第七章 下
客間に入って咲矢の顔を見るなり、和矢は激怒した。
「どの面下げて敷居を跨いだ!」
家を揺らすような怒声が飛ぶ。
咲矢は顔色一つ変えない。和矢の手が伸びて弟の胸倉をつかむ。
殴りかかろうとする拳を、和矢の側近が止めた。
「和矢さまどうかッ」
咲矢の目と鼻と先で震えていた拳を、やがて和矢は側近の手を振りほどくように下げ、咲矢の胸倉を押し倒すように離した。
怒りに燃える目は密矢を向いた。
「説明しろ。」
密矢は昨晩の家出の件から、いま史矢が電話口で待っていることまでをだいたい百字程度で簡潔に説明した。
和矢がつかんだ受話器が、ミシミシと音を立てる。
「どこまでわかっている?」
張り詰めた空気のなか、和矢の声音は落ち着いていった。別の種類の怒りへと変化していった。
簡潔に質問し、相手も的確に答えているらしく、通話はすぐに終わった。
「すぐに行く。」
受話器をいつもどおり叩きつけるように下ろし、振り返ると咲矢には
「失せろ。」
密矢には
「寝ろ!」
と命令して部屋を出た。
眼前で扉が閉まるとすぐに、密矢はくるりと踵を返して鳴神夫妻に向き直った。
「父が無礼を言ってすみません。もう遅いですから、ぼくの部屋で休んでください。悠吾の行方がわかればすぐに伝えさせますので。」
幼く脆い心に厚い殻をつけたままで密矢は言い、鳴神夫妻が返事をする前に、密矢は別の弟子に視線を投げた。
「ぼくの部屋に床を作って。」
「はい。」
密矢は扉をすこし開け、耳をそばだてて父から覚られないだろうことを確認すると、弟子のなかでも頭の回る二人に言う。
「すぐに裏口に車を回して。お父さまより先に家を出よう。」
「はい。」
「あの、密矢くん。」
咲矢が訊く。
「はい?」
「会社に行くつもりかい?」
密矢は平然と即答する。
「えぇ。二人はどうかここでお待ちください。いまは人手がすくないほうが動きやすいから。」
密矢の豹変ぶりに咲矢が動じているのはわかるが、密矢は弟子の手前『生意気なガキ』ではいられなかったし、いまは二人を気にかけている余裕がなかった。二人に頭を下げて、早足に客間を出て裏口に向かう。
「密矢さまお体が冷えますから上着を」
「いまはいい。」
弟子の一人が言うのを言下を潰して応える。
「ですが、お寒いでしょう?」
密矢は言われてやっと、自分が大変な寒がりだったのを思い出す。
眼前で裏口の扉が開き冷風が吹き込んでくるが、密矢は可笑しくなってすこし笑った。
「いまは、ちっとも。」
いや、本当は寒いのだ。ただあんまり寒くて、上着の一枚二枚ではどうしようもない。だからもっと温かいものを、取り返しに行くのだ。
密矢が車に乗り込む寸前、家でけたたましくサイレンが鳴りはじめた。
サイレンの隙間に、かすかにベキバキと木の破壊される音がする。
庭に面した縁側のほうだ。
密矢は考えなしにそちらに走る。
木戸が破壊され、数枚が外されて庭へ落ちている。また廊下をはさんだ大広間へのふすまも同じに突き破られていた。
何かが、家のなかに入ってきている。
普段は書道教室に使われているだだっぴろい板張りの大広間だから、月光しか、それも反射光しか届かないとなると、奥まではとても見渡せない。
密矢が恐る恐る覗き込むと、ちょうど振り返った相手と目が合う。
仄暗いなかで、まるで闇そのものが蠢いているようだった。
コトバミだ。
十年前と同じ、三年前と同じ、悠吾の身体がコトバミに乗っ取られているのだ。
コトバミは肩に抱えていた人物を容赦なく落とした。
板張りに長い白髪が広がる。
「お! お兄さま?」
そこへ和矢と側近が戻ってくる。
和矢は視線をコトバミから外さずに、顎だけ動かして側近に命じた。
「アヤダレを。」
悠吾が決してしない類の笑みを、コトバミが浮かべる。
壮絶で剣呑な笑みだ。
和矢は無残に破壊されて下半分下だけ残っているふすまをむんずとつかんで抛り、背後の木戸と正面のふすまを乱暴に開けた。密矢は、なんだ簡単だそうすればよく視えると気づく。密矢は手近のふすまや木戸を素早く開いていった。
幾分か明るさを増したために、また闇に目が慣れたのもあって、コトバミの首に黒く言葉が巻かれているのがわかる。不思議なことに言葉が宙に垂れて、凍矢の右手につながっているのが幻覚でなくはっきりと見えた。
あたかも犬の首輪のような、――しかし飼い犬は主人を裏切って、暴走したような。
この騒ぎに鳴神夫妻や内弟子たちも集まり、しかしコトバミの目は和矢だけに向いていた。睨み合っていた。コトバミが歩み寄る。
文字で繋がっている凍矢の右手もコトバミの動きにともなって、引っ張り上げられた。
「や……め…ろ、やめろ。」
凍矢が頭を上げ上半身を上げ、リードを引こうと懸命に腕を振るわせる。
その努力を無下にして、コトバミは凍矢の頭を蹴り倒し、言葉の縄をずるずると引き抜いていく。
「ぐうっ……うぅ」
コトバミは差し出すように、和矢に向けて両手を広げた。指の隙間に術――文字列を絡ませて、それは両手のあいだで撓んだ。
和矢が肩を弾ませる。
肩を弾ませて、笑っている。
「凍矢! なるほど面白い。これがおまえか!」
コトバミは天を仰ぎ、両手はそこから降るものを受け止めるようだった。
「射干玉の墨の字降らす凍雲や白を濡たせやみに染むべし」
コトバミがさやかな声で歌を詠む。
ここに集まる彼らに降り注ぐのは月光だけだったが、いま、コトバミの歌の意味を理解できた者には、和矢にさえ、ちらちらと舞い落ちる雪が視えていた。結晶の形はどれも文字をかたどり、色は墨を凍らせたような黒だった。
和矢もまた掌を差し出す。
「雲隠るる寒の月こそ掻き暗るれ血潮に触れば雪疾く溶けん」
勇ましく歌を返しつつ、雪を握りつぶすように拳を丸めた。
「そのような駄文で、よもや俺が殺せると思うなよ!」
ひたいに青筋を浮かばせながら、和矢は怒鳴った。
コトバミは天から視線だけを下げて和矢に目を剥き、それから口を大きく開けて、無邪気に笑った。息を吸って胸を膨らませるとともに手を振り上げる。
「豆腐の角でもくたばる脆弱、選り取り見取りの殺害方法、撲殺ッ・銃殺ッ・毒殺ッ・刺殺ッ、あーだこーだそうだヤれ絞殺!」
頭よりすこし高い位置で手を振りながら、やけに韻を踏みながら捲し立てて、以降、和矢を見つめながら、コトバミは黙った。
妙な静けさが場に満ち、持て余される。
全員がコトバミを見つめていたが、コトバミは一心に、なにかを待つように和矢を見ていた。
和矢は眉間に皺を入れて「な」と口を開いた直後――つまり四小節待ったあと――コトバミが被せてくる。
「ここで逢ったが百年目、恨み晴らそう満を持して、泣きを入れても願い下げ、さっさとくたばれクソッタレ!」
口上を述べるように歯切れよく抑揚をつけて言い終えると同時にコトバミは首輪のリードを強く握り、横にピンと引く。
――バキンッ!
と、酒瓶を破壊する音で、和矢は応酬した。
側近が持ってきたアヤダレを掠め取るやいなや、和矢は酒瓶の口を鴨居に叩きつけて割ったのだった。とりあえず絞殺するつもりなのは伝わったから、あとはもうどうでもいい。悪党の御託に付き合うほど、和矢はお人好しではなかった。
「やれるもんならやってみろ。」
酒の強烈なアルコール臭が立ち上るなかで和矢は武者震いさえしていた。怒りに目を見開いて逡巡もなくコトバミに接近し、中身を浴びせかけようとして、――密矢がそこへ飛び込んだ。
コトバミがバースらしいものを蹴っ飛ばしてのち、(「俺こそおまえの天敵、喰らえよ毒の点滴」くらいお父さま返せばいいのに)と、徒にひらめきいていた彼はつまり冷静な判断力を失っており、だからまったく無意識で、体が勝手に動いていた。
闇雲に伸びた密矢の手は、酒瓶の方向を変えた代償に割れたガラスの断面で掌の皮膚を深く切り裂いて、鮮血を散らし、しかしそれにも怯まない和矢は、アヤダレを瓶ごとコトバミへ投げる。が、回転し酒を振りまきながら飛ぶ酒瓶を受けたのは、コトバミに向かって倒れかかっている密矢の背中だった。
「ンぐッ!」
背中の痛みに涙目の息子のことなどお構いなしに、和矢は攻撃をやめるつもりがない。廊下に転がっていく酒瓶にまだアヤダレが残っているのを認めると取りに行こうとする。だがコトバミも攻撃をやめない。コトバミは密矢を押しのけて和矢に向かって全力疾走し、勢いを殺さないままにドロップキックを喰らわせた。
「グわッ!」
和矢は立っていた廊下から、縁側を超え、庭へ落下する。
「クソぅ……」
強かに腰を打ちつけながらも悪態を放ち、痛みより怒りに染めた顔を振り向かせ、縁側に倒れたコトバミの上に覆いかぶさった密矢の背中を見みると、心配よりむしろ叱る。
「密矢! 莫迦それから離れろ!」
密矢にはその言葉が聴こえない。
「悠吾!」
一心に叫ぶ。
「悠吾! コトバミに喰われてしまうな! 悠吾!」
下から勢いよく伸びたコトバミの手が密矢の首をつかみ、押し上げられる。
コトバミの指には、兄の言葉が絡まっている。
「ゆ…ぅうご、……お…兄さまの…言葉に、こころを、奪われて…しまわないで……」
息も絶え絶えに言うが、首を絞める力はなおも増し、密矢の顎を押し上げ、上半身をもたげていく。足に力が入らなくなって膝がひどく震えた。密矢は左手でコトバミの腕をつかみ弱く抗い、それでも血の流れる右手で触れることはできない。血は毒なのだから。
密矢は肺に残った最後の息で、叫ぶ。
「ぼくの声がッ! 届いているだろ! 悠吾ッ!」
ぎゅっとつむった目から大粒の涙がこぼれ、コトバミの腕に跡をつける。
首に食い込む指を感じながら、難しいことはもう考えられない。
ただ『死』という言葉だけが、痛みとともに頭にあった。
しかしふいに、コトバミの手の力が緩んでいく。
密矢のすこし浮いていた尻が板張りについた。
頬に、熱く、湿った感触がある。
舌だ。
頬からまぶたまで、舌でなめあげられる。
涙をなめとられていく。
「く…くすぐったいよ。」
おずおずと目を開ける一秒に満たないあいだに、吸い込み過ぎた酸素が妙なところに入ったらしい、密矢の思考はけたたましく暴走した。
(うわぁこの展開はッ! あぁ大団円ッ! ぼくの涙で悠吾がコトバミから意思を取り戻したんだ! 悠吾はコトバミに打ち勝った! 漫画になる! 大ヒットしちゃう! 天才漫画家に名を連ねてしまう――)
さぁ期待に満ち満ちた顔をすこし引いて彼を見ると、しかし、光を反射しない真っ黒な瞳は悠吾のものではない。
いまだコトバミだ。
「エッ」
耳元で温かい呼気とともに、コトバミが囁く。
「密矢はバカだけど、でも、見込みはある。」
「え?」
やけに耳に馴染む言い方だった。そうまるで自分が喋っているような――。
「さぁ早く、密矢の≪想い≫で上書きをして。」
じんわりと意味を理解していった密矢は、まず驚いて、それから力強く頷く。
右手の流血を左の指先に載せて、コトバミの首に触れ、文章を塗りつぶす。
「――…ッ!――」
首に巻かれていたくさびが、いともあっけなく、桜の花弁が風にさらわれるように消えていく。
彼の身体が痛みに悶えるのを感じながら、首を左手で抱き寄せる。
首に毒が塗られただけで、≪想い≫の刻まれていない彼の真っ白な体に、どうしても書いてやりたい言葉が、密矢にはあった。
それはたった一つ、迷いはなかった。
血濡れた右の親指で、彼の白紙のような背中に、二つだけ、文字を書いた。
コトバミは気を失い、身をくて、と密矢に預けた。




