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マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
12/16

第七章 上




 慣れ親しんだ痛みに、悠吾(ゆうご)は目覚めた。

「動くんじゃない。悠吾。」

 顎を力強く掴まれて、悠吾は恐怖で一気に覚醒する。

 眼前に、凍矢(とうや)の顔がある。

 黒目だけキョロキョロと動かして、自分の置かれた状況を理解していく。

 広い部屋で、整列した金属製の棚とそこに詰まった大量の資料、悠吾が拘束されている椅子が一つ、向かい合う凍矢の背後に机が一つ、机の上にはデスクトップパソコンが乗っていて、光源はそれだけだ。

 椅子に(おび)で括りつけられた悠吾は、ボクサーパンツのほかになにも身につけていない。肌に合成皮革がはりつく。

「目を閉じなさい。」

 いつもの癖で、ただ従う。

 顔が痛い。顔が焼けるように痛い。

 凍矢は顔に書いている。

 穂先がさらさらと動き、まぶたの上をなぞり、耳の上を通って、側頭部、後頭部へと進む。

 頭髪が剃られている。眉もない。

 その代わりに文字が書き連ねられていく。

 悠吾は自分の姿を想像する。

 あの呪いのような黒い網にからめとられていく姿を。

 闇に引きずり込まれて、二度と戻ることはない。

 うすら寒い。

 顔はこんなにも熱いのに、背筋が、指先、足先が凍るように寒い。

 痛みをともなう熱だけが生を証明していた。

 もう頭にしか、命の炎が残っていないようだった。

 凍矢が耳たぶを優しく引っ張って、その裏まで余さず文字を刻んでいく。

 悠吾の周りを回りながら、凍矢は悠吾の頭の天辺から下まで、文字を刻んでいく。

 墨が切れて、筆が離れる。

 悠吾はおずおずと目を開けて、凍矢の横顔には表情がない。

「凍矢さま、ここは――?」

種宮(たねみや)文庫本社だよ。」

「……どうして……」

「すぐにでも術を完成させなければならなかったからね。」

 凍矢が揮毫する。

 鼻先に熱い感触が動く。

「目を閉じなさい。」

 なんだか恐ろしく、言い知れない焦燥感があり、どうしていいかわからないいま、その命令は単純で簡単で、唯一正しいように思えた。だから、ただ従った。

 静寂に、シュー、シュー、と酒が焼きつく音だけが聞こえる。

 痛い。


 “堕落”――凍矢と悠吾との人間同士としての会話は、その言葉から始まった。

 およそ三年前、術を疎かにした密矢(みつや)を地下から追い出し、凍矢だけが施術していたころだ。

「はい。」

 と、悠吾は言った。

 凍矢が指示をすると素直に短く、無造作に返答をした。

 これまで凍矢の前では沈黙を守っていた悠吾がはじめて声を発し、本人はそれに気づいていない。

 凍矢も気づかないふりをした。口元が綻ぶのをなんとか抑えた。

 凍矢は実弟のことを思う。密矢は悠吾によく『はい』と言わせているのかもしれないが、密矢自身はこれほどうまく『はい』と言えないだろう。口を開けば『でも』『だって』だ。

 それ以外になにを喋るだろう、なにを考えているだろうか、――そういう好奇心で、凍矢は悠吾に本を与え、質問を与えた。

「妖怪と一緒に暮らすなんて、可哀想に。」

 悠吾と会話をするようになってから、憐れみを込めて言われるそういったセリフに、子供のころから耳に胼胝ができるほど聞いてきたはずなのに、腹が立つようになった。

 密矢がふいと癇癪を起す理由に得心がいった。

 コトバミとしてしか悠吾は扱われない。肉体はただの器であり、ときには、悠吾自身が妖怪だと誤認されている。ささやかな言葉、ささやかな行動のなかに、悠吾への偏見がある。種宮家の外の人々は、いや、内弟子でさえしばしば、悠吾との関りを疎み、彼自身を視はしない。気立ての優しいあの少年を、知ることはない。かつての自分と同じように。

 “堕落”の意味を『悩み苦しむことを放棄する』ことだと教えた。

 凍矢は自問する。

 俺は悩み抜いただろうか? 俺こそ、堕落しているのでは? この状況に甘えているのではないか? 種宮の歴史に甘え、世間の認識に甘え、恭順な悠吾に甘え、人間を傷つけることを平然とやってのけているのではないか。

――俺はすっかり落っこちてしまった。

「はい。……凍矢さま。」

 と、悠吾は頷いた。半年間の施術が終わる、その日のことだ。

 頭をなでてやると、やわらかな頬を赤く染め、目を潤ませて視線をはずした。悠吾は照れていた。頭をなでられるのが嬉しくて恥ずかしかったのだった。欲しいものは一切合財、どんな手を使ってでも自分のものにしてきた貪欲な実弟に比べ、彼の慎ましさたるや。

「はい。」

 最後にそう言ったとき、凍矢を見上げた彼の目には、尊敬と憧憬があった。

 凍矢はまっすぐな視線にいたたまれなくなって、さりげなく視線を逸らすと彼の前から立ち去った。

 凍矢は煩悶する。

 三年後には、凍矢が種宮を率いていくことになる。

 つまり、世界を救うために悠吾を傷つける、その責任を取ることになる。

 それも自分の手は汚さずに、だ。

 弟に、弟を苦しめさせるのだ。

 二人の家族を同じ檻に閉じ込めて、別々の苦しみを与えるのだ。

 檻から解放してやれないのか? ――いや、そうしなければならない。弟たちを苦しめて平然と生きようなどと、そんな罪悪にはとても耐えられそうにない。

 そうして彼は、コトバミを殺すのではなく、活かすための方法を探しはじめた。

 種宮文庫並びに古文書を読み漁りはじめ、各地の陰陽師や呪術師を訪ねるよすがにと、種宮家二代目の女性が残した日記を紐解いた。彼女と共に旅をするように、凍矢は日記に没頭することになる。

 種宮冷矢(さや)が当主になったのは、初代の死後、まだ二十歳にもならないころだった。

 酒癖も悪ければ女癖も悪かった野放図な初代のためか、彼女が父を継いだとき種宮会には一人として女性がおらず、男性社会のなかにたった一人放り込まれた冷矢は口さがない門弟たちから揶揄され、侮られることもすくなくなかった。それゆえに彼女は髪を切り、態度も男らしく、身形も質素にして、ときには誰よりも厳しく冷淡に振舞った。そうして有象無象の寄せ集めであった種宮会をまともな流派へと確立させていった。

 また、自分の書の才覚のなさを補うために名文蒐集を行った。コトバミは書の巧拙にこだわらず名文を喰うからだ。彼女が名文を探したのは町の本屋やランキングではなく、民族伝承(フォークロア)――とくに口伝てに受け継がれてきた物語であった。時の移ろいに耐えた物語には、人々の≪想い≫が蓄積されている。それを求めて辺境の土地にも、都会の片隅にも足を運んだ。

 当主になる一年前まで、父が誰かも知らず母子家庭に育った彼女が、突然に押しつけられた運命にしかし倦むことなく、まっとうするべく、誰に言われるでもなく自ら考え、自らの足で行脚した。これが『種宮文庫』の起源である。

 彼女は三十を超えた時分に子を儲け、そして手がかからなくなるとすぐに名文蒐集を再開する。

 ただ、髪は伸ばした。

 種宮の特徴である真っ白な髪はこのときにはもう初代の醜聞を払拭し、社会を守るために尽力する高貴な象徴として認められていたからだ。

 曾祖母の人となりを知った凍矢は、傾倒し、彼も髪を切るのをやめた。

 凍矢にとっては髪を伸ばし衆目に晒すことこそが、種宮次期当主としての覚悟の表明であった。

 コトバミの取り扱い方を、ひいては種宮家の在り方を変えるつもりでいることを、凍矢は誰にも相談しなかった。よしんば父に伝われば水の泡だ。父にとって伝統は守るものでしかない。これは彼にとって、父に対する初めての反抗であった。


 悠吾の紅潮した下唇に書きながら、凍矢はやっと口火を切った。

「術を完成させれば、コトバミはもう殺されるのを待つ妖怪ではない。」

 悠吾は驚き、思わずまぶたを開く。

「コトバミは退治されるようなものではなく、役に立つものに変わる。おまえを監禁して一生苦痛を味合わせるようなことは、もうなくなるんだよ。」

「役に…立つもの? 凍矢さまは一体なにをン」

 凍矢の指先が、悠吾の顎を上げて口を閉ざす。顎に文字が刻まれていく。

「私はコトバミを飼おうと思う。この術によって、コトバミを躾ける。」

 凍矢がいま言った『術』は、コトバミ殺しのための『術』とは意味が違う。それはコトバミを害獣として人間社会から排他するのではなく、有効利用するために変態(メタモルフォーゼ)させる『術』だ。

「そ、そんなことが、……本当に?」

 筆を離して、凍矢は悠吾を見つめた。

「できる。やってみせるさ。」

 一途なまなざしに、悠吾は不安を忘れて頼ってみたくなる。

「そうなったら、おれは、……楽になれますか?」

「あぁ、きっと。」

 悠吾の顔が曖昧に笑った。

 目の奥には動揺が残っている。

 底から湧き上がろうとする不安や恐怖や疑念を、浅はかな安心が膜になって意識から隠した。気づかないふりをした。それはいわば、捨て鉢の期待だった。

 悠吾は悲しい気がした。そして一瞬にして忘れた。そうしなければならなかった。恐れにも悲しみにも辛さにも苦しみにも、彼の心はもう耐えられなかった。

 凍矢は筆にアヤダレを浸し、首へ近づける。

 悠吾は顎を上げて、自ら喉元を差し出した。

 そのぐるりが、最後の一行だ。

 筆先はすぐに喉仏に達し、作品は完成した。

「うぅ……」

 強烈な違和感。

 皮膚の上をなにが蠢いている。

 悠吾が自分の身体を見さげると、――文字が、ムカデさながらに体を這っている。

 背筋に悪寒が走る。

「とうやさま……!」

 恐ろしくなってまぶたをきつく閉める。

 すぐに恐怖も消えていく。

 悲しいのに失笑してしまうような、嬉しいのに苛立っているような、矛盾した、二律背反した、万感相交々に全身を満たされて、もう混乱することもままならない。

 悠吾はガクンと頭を倒し、気を失った。




 密矢を乗せたおんぼろの車が、種宮家に到着した。

 警報を鳴らさないために密矢は脱出経路を逆に進んで自宅に侵入すると、いの一番に座敷牢に向かう。

 もぬけの殻だ。

 密矢は鳴神(なるかみ)夫妻を玄関脇の洋客間に招き入れたあと、昵懇の弟子数名を起こして指示をだし、加えて両親に知られないように静かに行動するよう命じる。

 それから弟子を一人連れ、兄の部屋へ向かった。

「お兄さま?」

 小声で呼びかける。反応がなく、わずかに声を荒げて言う。

「お兄さま。」

 部屋は静まり返っている。

 扉を開け、寝床は空だ。

 客間に戻ると、弟子の一人がやにわに土下座して迎えた。

「申し訳ございません。密矢さまが家を出られたあと、凍矢さまに問い詰められ、密矢さまが悠吾さまのご両親をお探しだったこと、……答えてしまいました。」

 密矢は片膝を床に接し、彼の肩に触れる。

「謝ることはない。いつも言っているだろう? ぼくの言うことは四番目でいいと。伝えてくれてありがとう。さ、立ちなさい。」

 密矢はすと立ち、思案する。

 弟子は謝ったが、しかし誰にも、今晩家出をすることも、どこに行くのかも、伝えてはいなかった。ではなぜ兄は鳴神家の場所を知っていたのか。

(お兄さまも鳴神夫妻の居所を調べていた?)

 だとしても、追いついたのが早すぎた。家出したことを知られたのが早すぎた。

(座敷牢に盗聴器でも仕掛けていただろうか?)

 仮にそうだったとしても、鳴神家に行くなど一言も口にはしなかった。

(悠吾に発信機を?)

 いやありえない。悠吾の外服はすべて新調したのだし、持ち出した下着類にも不審な点はなかったはずだ。

(とすれば……)

 密矢は自分の身体をまさぐりはじめ、そのあと玄関の靴を調べる。インソールを剥がすとラバーが穿たれてできた穴に発信機が埋め込まれていた。

(やられた!)

 盗聴器をほじくって三和土たたきに投げつけ、火打石を打ちつけて潰した。

 ちょうど玄関を開けて戻ってきた弟子が、密矢の剣幕に驚きながらも報告する。

「車が一台見当たりません。ですが凍矢さま付きの弟子たちはなにも知らぬと。」

「そうか。」

 密矢は客間へ戻り、弟子たちに呼びかける。

「ほかに、なにか知っている者はいるかい?」

 返答はない。

「では、父でも兄でもいい、ぼくに訊かれても言うなと言われていることはあるかい?」

 返答はない。

「わかった。」

 背筋を正し年上の弟子たちにも臆せず、毅然とした態度をとる密矢に、鳴神夫妻は狐につままれたような心持ちになっていた。精神的な意味での内と外が完全に乖離して育ってしまったのだろう。たとえ怒りのせいであっても、自分が、彼が子供としてぶつかっていける大人の一人だと思うと、咲矢(さくや)は嬉しいような気もした。

「密矢さま。」

 弟子の一人が口を開く。

「なに?」

「関係のないことかもしれませんが、よろしいですか?」

「うん。」

「凍矢さまが悠吾さまに書きはじめるすこし前から、千丈医師の診療室をよく訪ねていらっしゃいました。どうやら悠吾さまの容態ついて訊いていたようです。」

 千丈は悠吾の心身にわたり詳らかに調べている。悠吾の身長体重足のサイズまで密矢が知ったのは、千丈の微に入り細を穿つ記録のおかげだった。

「……そう。」

「わたくしからもよろしいですか?」

 密矢は頷く。

「凍矢さまは二、三年ほど前から、種宮文庫、……これは山のほうなのですが、そちらにたびたび訪れていたようです。遠方まで足を運ばれたり、あるいは出版社に出入りすることも多々あったようで。ただここ半年ほどは、つまり前回の虫干しあたりからはとんとやめられてしまって、大学の研究室に籠っていたようです。」

 二代目が編纂した種宮文庫は、種宮家が魔都東部に所有する土地に保管されている。コトバミ封じが目的で始まったから名文を揃えているのは勿論、妖怪封じや討伐について記された書物も豊富だった。

 家に居なかったのはそのせいか、と密矢は思いながら問う。

「理由はわかるかい?」

「いえ、はっきりとは。詩のお勉強かも知れませんし。ただ、なにか熱心に調べ物をしていたようだと。」

 いやな情報ばかり集まる、と密矢は思う。

 これではまるで、凍矢が本格的にコトバミ退治を研究していたようではないか。

 兄が「世界平和のために一刻も早く死んでくれ」と悠吾に命じれば、悠吾は即座に、考えもなく、だた「はい」と応えてしまいそうで怖い。悠吾が凍矢を「バカ」と批判できるはずがないのだ。

 一方、密矢は自分の考えを疑う。

 不安で、情報を悪いほうにしか解釈できなくなっているのではないか。例えば、散歩に出かけているだけでは? 朝方には何食わぬ顔で戻るのでは?

 いや、楽観視よりもいっそ最悪に備えておくべきだ。

 すくなくとも出し抜けに施術の具合を見に来たときから、なにか企みがあったのは間違いない。

「お兄さまに電話を。」

 密矢は自分の携帯端末を自室に置いていた。GPSで場所を知られるのを避けたのだ。

 弟子が据え置きの黒電話を取ろうとすると、ちょうど鳴る。

 家族も弟子も家に出入りする者はみな携帯端末を持っていて、ほとんどアンティークで客間においてあるそれは、時折かけることはあるが鳴ることはかなり珍しく、ゆえに理由も知れている。出前の間違いか、時代錯誤のセールスか、この時間であれば、携帯端末の電源を切って安眠を優先する父への急用か。

 弟子は密矢を見て、密矢は電話をとった。

「種宮です。」

『あぁよかった! 史矢(ふみや)だ。兄さんはいる?』

「叔父さん? 密矢です。」

『密矢くん? 子供は早く寝なさい。』

「どうしたんですか?」

『兄さんが電話に出ないからこっちにかけたんだよ。』

「どうして?」

『密矢くんの“なんでどうして病”はいつになったら治るんだろうな?』

「ぼくにとり憑いた妖怪の仕業ですから、まぁ一生治らないでしょうね。」

『そりゃ一本取られた。――いや言ってる場合じゃない。』

「教えてください。お願い。」

『そうしなければ取り次がない気だろ。まったく困った子だよ。どうせ密矢くんにもすぐ話がいくだろうからざっと説明すると、――本社で警報が鳴った。残っていた社員が被害状況を確認したんだが、これが……酷い。』

「酷いって……?」

『だから社長にも連絡が言ったんだが、電源を切りやがったらしい。だからこっちにかけたのさ。俺もいま本社に向かってる。さっさとあいつを叩き起こしてくれ。』

 ひょうきんな叔父の声に珍しく険がある。これ以上訊くのは得策ではないだろう。

「電話口で待たれますか? それともかけ直させますか?」

『待つ。』

「わかりました。」

 音を聞かれないように通話口を握り締め、正面の壁に向かって溜息を大きく吐き出して、それから振り向く。

「お父さまを起こしてくれ。」




 その電話の、すこし前に戻る。

 種宮文庫本社ビルの資料室、ディスプレイの明かりだけの部屋で、悠吾の身体をひと続きの文字が泳いでいる。

 最初の文字を頭にして悠吾の皮膚をうねっていた文字はやがて、首だけに収束した。幾重にも及び、文字が黒々と首元を占める。

 凍矢はそれまで筆を握っていた右手の人差し指で、悠吾の喉仏を優しく突いた。

 悠吾の身体に書き込まれたこのあまりに長い文章の末尾の文字から、たちまち逆回転して作者の指先へと乗り移る。

 文字列は瞬く間に凍矢の腕をせり上がっていく。

 凍矢は空いた左手で着物の前を半分はだけ、胸を確認する。

 文字は胸の中央に外側から渦を巻き、やがて渦の中心、心臓の真上から内へと潜り込む。

 凍矢は刹那、眉を苦痛に歪ませて、冷や汗をかきながら、やがて笑う。

 指先を悠吾の喉仏から慎重に離すと、喉仏と指先のあいだの宙に、文字が浮いた。

 凍矢はゆっくりと後退り、二人の距離は離れていくが、文字は途切れずに彼らをつなげた。

 あたかも飼い犬の引縄(リード)だ。

 気を失っていたはずの悠吾のまぶたが開く。

 凍矢はゾッとした。

 それはもう悠吾ではなかった。コトバミですらなかった。

「悠吾?」

 冷えた瞳で見つめ返すそれには見覚えがあった。たとえばふと暗い窓を見るとそこにいる、世間に擦れたような、人生に倦んだような、自分の顔によく似ていた。

「悠吾。ダメだ悠吾! 俺の顔を見せるな。おまえの声を聴かせろ。」

 応えはない。

 凍矢は悔しくも、理解している。

 この術を完成させるため必要なのは凍矢の≪強い想い≫だった。それを文字に表して、悠吾の身体に吐き出し、術者の霊魂とコトバミとを同一化してしまうことだった。アヤダレによってコトバミだけに感化するはずが、しかし悠吾の心までもが≪想い≫に呑み込まれてしまった。

 この術――この詩は、自己の告白なのだ。それに埋もれた彼はもう、“私”の心そのものだ。

 “それ”は激しくもがき、バランスを崩して椅子ごと倒れて、そばにあった棚にぶつかる。棚がぐらりと揺れて倒れそうになるが凍矢はからがらつかんで止めた。しかし収まっていた資料は滑り落ちて、バサバサと床へ散らばってしまう。

 棚を元に戻すと、“それ”の上に落ちた資料を退かして、拘束を解き、文字のリードを引き上げた。

 “それ”は素直に身をもたげ、凍矢に虚ろな視線を投げて、なにか命じなくとも、勝手に動きはじめる。

 丹念に言葉を刻んできたのだ。自分が何をしたいか、“それ”はよく知っている。

 床に落ちていた書類――横書きの黒インクでみっちりと書かれた文章――を“それ”が踏んで行ったあと、紙の上にはくっきりとした足形の空白が出来上がっていた。

 喰われたのだ。

 コトバミの能力だけ携えた、自分の心にあてられた、ただの意思がそこにある。

 “それ”はパソコンのディスプレイに掌をつける。

 ディスプレイには文章が次から次へと表示され目まぐるしく移り変わり、次から次へと消えていく。

 喰われていく。

 この建物のLANを介する一切のパソコンに土足で上がり込み、共有フォルダから個人で暗号化しているファイルまで、保存されているすべてデータからある報道に関わる記事・情報だけを選び、完全に削除しているのだった。

 それはフェイクニュースであった。

 コトバミを利用するための術を考案する過程で出版社にも出入りすることが多くなり、凍矢は報道部の幹部と一部の政治家の癒着に気づいてしまった。あるいは父親も関与しているかもと探ってはみたが断定し切れなかった。しかし結局、凍矢にとっては些末なことだ。日ごと食べている飯のわずかでも、読者を騙して儲けた悪銭で買われているのだと思うと、到底許せなかった。

 自分が当主となるまでに落とし前はつけなければならない。種宮の信頼を失墜させないように内々に、しかし不正は一掃しなければならない。

 種宮を守らなければならない。

 種宮、つまり密矢であり悠吾であり、家族・親類縁者・門弟・社員、むろん父さえ含むすべて、現在だけではない、かつて種宮を支えたすべてを守らなければならない。汚れた繁栄を濯ぎ、できるかぎり清らかな存続を、次期当主は望んだ。

 そしてそれは、コトバミを使う好機でもあった。

 コトバミに術を書き終え、成功しているかどうか確認したあと実行に移そうと考えていたのだが、密矢が悠吾を連れて家出してしまった。悪知恵が働くといってもまだまだ子供だ。密矢は確実に連れ戻されるし、監視の目が厳しくなるのは必至だろう。そうすれば凍矢も動きづらくなると考え、やむなく計画を前倒しにしたのだった。

 そしていま、それを後悔していた。

 凍矢と“それ”は文字の手綱で繋がっているため、なにを、どこまで呑み込んでいるのか手に取るようにわかる。

 ――“やつ”は呑み過ぎている!

「やめろ。……もう、そのあたりにしておくんだ。」

 “それ”が、ニィっと嘲笑う。

「人間風情が吾輩を操ろうなどと、――まーじウケるんですけどぉ~。」

 声音を途中でコロッと変えて言ったコトバミに、凍矢はぎょっとした。

 新たな情報をさんざ呑み込んだそれは、すでに凍矢の心ではなかった。

 個人的なやりとりから時代を超えた傑作まで、多種多様な表現技法で伝えられた≪想い≫をたらふく喰ってきた、コトバミに戻っていた。

「おなかぺっこぺこぉ。そちもそうであろう。オメーが本当に喰いてーモノ、さぁ、喰いに行こうゼ。」

 本当に喰いたいモノ――それがなにかを直感して、凍矢は戦慄した。

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