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マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
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第六章




悠吾(ゆうご)が殺されちゃう!」

 走るように戻ってきた密矢(みつや)は、あらましを聞いてなおも取り乱した。

 凍矢(とうや)志乃(しの)に「悠吾を外に出すのは危険だから連れて帰る」と言い、密矢には「頭を冷やして自分で帰って来い」とことづけていた。

 志乃は一度は断った。一晩くらいなら構わないのではないか? 凍矢も泊まれば? と提案したが、凍矢は迷いのない視線を志乃に向けたまま、首を縦に振らなかった。ただ、悠吾は靴を履いてしまった。振り返って「必ずまた会えるから。約束。」と気丈に笑った息子を、止めることができなかった。これまでコトバミ退治に関わってこなかったという引け目が、彼女を挫いた。

 二人が去ったあと、志乃はその場から動くこともできず、言い知れない不安は全身を席捲していった。悠吾の姿が目に浮かんでいた。『外に出すのは危険』と聞いた途端に様子が変わった。しょんぼりと、すこし小さくなってしまったようだった。

 二人の帰りを待つ時間はあまりに長く感じられ、彼女は耐えきれずに夫に電話を入れたのだった。

「ひどい。悠吾を離すなんてそんな真似、よくできたね! 二度目だ。あなたは二度も、同じ間違いをしたんだ!」

 密矢は感情を隠せるだけの忍耐を失っていた。面と向かって志乃に感情をぶつけた。

「こんなところに来るんじゃなかった。親なんて……、大人なんて所詮……、」

 怒りで泣きだしそうな密矢に、志乃はむしろ冷静さを取り戻した。

「ねぇ、いったいなにがあったの? いったいどうして家出してきたの?」

 咲矢(さくや)は密矢から聞いた事情を志乃にざっと説明した。

 聞き終わった彼女は密矢に優しく声をかける。

「悠吾は、密矢くんが落ち着いたら、一緒に家に帰って、和矢(かずや)さんや凍矢くんと話してみるって言っていたのよ。話せばわかり合えるって、言っていたのよ。」

 興奮した密矢をなだめるためにそう言ったが、効果はない。

「おばさんは悠吾のこと全然わかってない。悠吾はそういうやつなんだ。世界が救えるなら自分を犠牲にしてもいいって思っているようなやつ。漫画とかアニメとかばっかり見てるから、そのせいなんだ。みんながみんないい人だって思ってるんだあいつは。あのバカ、話せばわかるなんてキレイごと、すぐ信じちゃうんだ。」

 早口になっていく。紙が一枚、破かれるような声だった。

「落ち着いて密矢くん。」

「お兄さまの嘘を信じたんだ。あいつはお兄さまを信じちゃうんだ。ぼくがいるのに。ぼくよりお兄さまを……」

 密矢は悔しげに顔を歪める。

「取り返さなくちゃ……!」

 密矢の独白めいた深刻な口調に、咲矢は彼の肩に触れる。

「冷静になるんだ。」

 密矢の視界に、ようやく咲矢が入る。あからさまな睥睨を向けると、やにわに踵を返してドアノブをつかみ外に跳び出していこうとする。咲矢は慌てて体ごとつかまえ、引き戻した。

「離して! こんなところにはいられない!!」

「どうするつもり?」

「あなたがたに話すつもりはない。ほっといて。」

 密矢は振りほどこうとするが、咲矢は手を離さない。腕をつかむ強い力に、密矢の顔が敵愾心に染まる。

「君は子供で、俺は大人だ。ここで君を拘束して無理強いすることだってできる。でもしない。俺は君の敵じゃないし、時間の無駄だからだ。さぁ、君がいまなにを考えているか、言ってごらん。」

 悔しげに歯を食いしばったあと、密矢は押し殺すように言う。

「おじさんたちはお父さまから連絡を受けていて、ここでぼくらを足止めするように言われてる。それで、ぼくから悠吾を遠ざけて、そのあいだに殺そうとしているんだ。」

 言葉は勢いを増していく。

「もしかしたらぼくのことも殺そうとしているのかもね。国外に出ようとしたバカが二人崖から落ちて死んだとか、そんなシナリオで。」

「そんなことするはずないだろ? 俺は、俺たちは悠吾の親なんだ。」

 悲しげに、苦しげに、咲矢は首を振りながら言った。

「親だからってなに? ただ産んだだけじゃない。愛してるなんて、血がつながってるだけの理由でよく言えたね! なかにどんな心が入っているかも知らないで、愛してるなんて言わないで!」

「でも愛してるんだ!」

 咲矢はついに大声を出した。近所迷惑も忘れてしまうくらい、彼は感情的になっていた。

「理由なんてわからない、でも愛してるんだ。そんなうまく愛せるわけないよ。身勝手かもしれない、悠吾はそう望んでいないかも知れない。愛なんて、自分にも、相手にも、そんな都合のいいものじゃない。でも、伝わらなくても、伝えられなくても、愛してるんだよ!」

「そんなの信じられない。」

「どうしてそう鈍感なんだ! 君が守られていること、助けられていること、愛されていることに、どうして気がつかないんだ。そうじゃないと決めつけるな!」

「おじさんからそんなこと言われたって信じられるわけないないよ!」

 咲矢が押し黙る。怒ったまま密矢を睨みつけて考えを巡らせたあと、長い溜息を吐いた。

「よしわかった。」

 訝る密矢をまっすぐに見下ろしたまま、背後の志乃に言った。

「志乃さん、この生意気なガキを縄で縛って、車に放り込んでくれ。」

「……縄、家にあったかしら。」

 志乃の声は二人の緊迫した空気感に反して呑気ですらあった。

 しかし焦燥にかられた彼ら二人には、雰囲気は伝播しない。

 むしろ密矢は『縄』と言う単語にやや怯む。

「どうするつもり?」

「君に言う筋合いはない。」

 簡単に思い通りにいかなくとも努力して達成することを覚えはじめた密矢だったが、いまは余裕がなくて苛立ちをそのままぶつける。

「言って!」

「実家に行く。――いや、君を崖から突き落としにいくんだ。」




 密矢が鳴神家に戻ってくるすこし前、凍矢に連れられて、アパートを出てすぐの路肩に止められていた車へ悠吾は乗った。凍矢は一人で来たらしい。

 凍矢の横顔を見るために、悠吾は後部座席の左側に座った。

 車が出発して、しばらくはただ暗い道を走っていたが、国道に入ると周りに車は増えていった。

 赤信号で車が止まる。

 前の車のテールランプが一斉に輝くから、凍矢の横顔は紅く染まる。

 そぞろ凍矢に控えめの視線を投げていると、ルームミラー越しに目が合った。

 凍矢が微笑み、悠吾はつい視線を逸らす。

「眠ってしまいなさい。今日は疲れただろう。いや、――もう昨日か。」

 助手席からなにか取り上げて悠吾に渡した。

 サメの抱き枕――バクリだった。悠吾はそれを抱き寄せた。あの部屋の匂いがする。

 そして再び、前を向いた凍矢の横顔をうかがう。

 いつもと違う。

 むかしの凍矢に戻ったようだ。

「どうせまた、密矢が無理を言ったんだろう?」

 凍矢が口火を切る。

「おまえは断ることを覚えなくてはいけないね。」

 口調は穏やかだし、微笑んではいるが、やはり悠吾にはまだ恐ろしく思える。

「申し訳ありません。」

「謝らなくていい。おまえは悪いことをしていないんだからね。密矢のせいだとはわかっている。あいつにはお仕置きが必要だ。」

「あんまり、酷くしないであげてください。密矢はおれを思って……」

 信号が青に変わる。エンジン音に負けて、悠吾は黙る。

「どうしてそう密矢を庇うんだ? あいつには乱暴なところがあるから、苛立つこともあるだろう? 正直に嫌だと言っていいんだ。」

 悠吾が回答を考えるうちに、凍矢は続ける。

「あいつはおまえにすぐバカと言うようだが、おまえはずいぶん賢い子だよ。怒ってもいいんだ。バカって言うほうがバカって言うだろ?」

 凍矢は冗談めかして言ったが、緊張している悠吾に気づく余裕はない。あくまで真面目に応える。

「いいえ。密矢はゆっくりなだけなのです。すぐに言葉が出ないから、とりあえずバカって言うしかないだけで。だからおれは、あいつが本当はなんて言いたいのか、汲んでやるのです。あるいは、一緒に考えてやるのです。……そうしたら大概、侮辱ではないのはわかるから。」

 凍矢はしばらく思いを巡らせたあと、笑みを深くする。

「悠吾は本当にいい子だね。」

「……いえ……」

 赤信号で、車が止まる。

 凍矢は助手席に置いていた自分の鞄を探って中身を取り出して、悠吾に差し出す。

 錠剤だ。

「睡眠薬。私に緊張して眠れないんだろう。それとも、運転が下手なせいか?」

「いいえ。」

 と、慌てて否定して、錠剤を受け取る。

「安心してくれ。私も使っているやつだから。」

 凍矢の腕が伸びて、悠吾の頭をなでる。悠吾の視線が錠剤から凍矢に移った。

 凍矢は笑っている。昔と同じように。

 悠吾はパッケージをあけて、錠剤を口に含んだ。凍矢はカラを受け取ってボトルに入った水を渡す。

 水と一緒に呑み込んだ。

「悩むのも怖がるのも、いまは休んでいい。なにもかも、つぎ目覚めたときだ。だからいまは、幸せな夢を見てお休み。」

 悠吾は頷いて、凍矢は前を向いた。

 信号が青に変わった。

 魔都の首都に近づくだけ郊外へ帰宅する車が増していくから、対向車線のほうが騒がしい。

 去り行く車のヘッドライトがチラチラと輝くのを背景にして、青く照らされる凍矢の横顔を見ながら、悠吾はまぶたを閉じた。




 興奮気味の夫が運転席に座るのを止めて、志乃がハンドルを握った。

 縄で拘束されるなんていう屈辱を嫌がった密矢は自分から車に乗り、咲矢が隣に座って縄の代わりに腕を密矢の肩に回した。密矢が車から飛び出さないようにするためだ。

 ルームミラーでちらちらと彼らを見ながら、志乃はただ一人冷静に、この二人ってなんだかよく似ている、と思っていた。

 恐らく二人とも、年の離れた兄に溺愛されて育ってしまったせいだろう。我儘で甘ったれの性根は手の施しようがない。こう差し迫った場面になると、普段心がけて隠している咲矢としても面の皮がはがれてしまうのだった。

 密矢は腕の重さを感じながら、窓の外に視線を投げていた。

 咲矢は緊張で固まる体の小ささを知って、大人げなかった振る舞いを反省しだしていた。

 つとめて穏やかに、ゆっくりと語る。

「密矢くんは、悠吾が好き?」

「うん。」

 即答する。

「どうして?」

 密矢は口ごもる。口が開いたり閉じたり、眉が上がったり下がったりする。

「……感じが、……あるから。…そういう感じだから。」

 密矢の戸惑いながらも必死に言葉を紡ぐ姿に、咲矢は思わず笑みを深める。

「だからあの、うー、……感じがいいから。いい感じになるから。一緒にいると全部が、まあるくなって、……。すごくいいから。心地がいいから。」

「そう。」

 眉を歪めたまま苛立たしげに、密矢はまだ考えていた。

「ありがとう。」

 キョロリと疑念の視線を向ける。

「悠吾に素敵な友達がいて、本当によかった。悠吾は一人じゃなかったんだね。」

 なにを当たり前のことを、と思いながら見つめる先で、咲矢の瞳は潤んでいた。

 密矢は気づく。

 この人は知らなかったんだ。

 自分の息子が座敷牢に閉じ込められて孤独でいるのだとずっと勘違いしてきたのだ。

「なら悠吾は、大切な友達を裏切るような子かな?」

「違う。」

「じゃあ逆に、君の言うことだけを聞くような、主体性のない子だった?」

「違うよ。あいつは、ぼくがなにかするたびにバカバカ言うやつだ。」

「……君たち本当に友達だったの?」

「もちろん!」

「喧嘩するほど仲がいいって?」

「喧嘩……は、たぶんしたことない。険悪な雰囲気? にはならないし。怒るなんてそうそうない。いまは怒っているけど。いまはかなり怒っているけど。」

「対等な関係。ってことでいい?」

「うん。」

「なら、よかった。二人の問題なら、答えも二人で出さなければいけない。善意だからって、答えを押しつけようとするのはいけない。正しくてもそうでなくても、押しつけるのは和兄さんと同じだからね。」

「わかってるよ。」

 ほとんど反射的に密矢の声は荒くなる。

「悠吾には悠吾の考えがある。もしそれが間違っていると思うなら、懸命に、何度だって繰り返し説得すればいい。でももちろん、君自身が間違っている可能性も忘れてはいけないよ。とりあえずは悠吾に会って、理由を聞いてからだ。もしかしたら怒らなくてよくなるかもだろ?」

「……うん。」

「それとおなじで、家や、コトバミの問題なら、それにかかわるすべての人で、答えを決めなくちゃいけない。」

「お父さまには通用しない理想論だ。話し合いに持ち込みたいのならせめて、悠吾がこちらに居なければならなかった。じゃなければ交渉もままならないと思う。だからおじさんとお父さまの話し合いができようができまいが、お兄さまに追いつこうが追いつくまいが、ぼくは悠吾を奪って逃げるからね。」

 せいぜい時間稼ぎをしろ、と、密矢は言っているのだった。

「密矢くんってとっても……」

 想像力豊かなのね、と、志乃は言うのをやめた。不安のガソリンに、小さな火種から着火して、それで彼は国境の外まで行こうとしていたのだろう。彼らが(うち)に寄ってくれて良かったと、志乃は心底から思う。

「なんです?」

「ココア呑む? あったかいよ。咲ちゃん入れてあげて。」

 返事を聞くより先に、志乃は助手席から鞄を取り上げて咲矢の膝へ置いている。咲矢は密矢の肩から腕を離して、水筒からコップへ注いだ。

 密矢は一応受け取っておきながら、茶色い水面を猜疑心のにじんだ険しい表情で睨みつける。

「毒なんて入っていないよ。」

 当てつけるように咲矢は言ってコップを奪って、ふーふーしてから飲み干した。

「ほら、大丈夫だろ?」

「遅効性かも……」

「そんなわけないだろ。」

「だっておかしいよ。いつのまに用意したの? そんな時間なかったよ。すでに用意していて、眠る前に飲ませておいて、熟睡した体を崖から放り投げるつもりだったとか……」

「働く女性の朝の俊敏さを、密矢くんは知らないんだ。俺がぼんやり支度しているうちに、洗濯して朝ごはんとお弁当を用意して化粧して髪をセットして、俺の忘れ物がないかどうかまで目配せしているんだから、さっきの時間でココアを作るくらいわけないさ。」

「いいのよ。知らないおじさんに貰ったものなんて食べちゃダメなんだから、密矢くんは間違ってない。」

 ルームミラーにチラリと視線をやって、志乃が口をはさんだ。

「それはそうだけど、俺はもう知らないおじさんじゃないだろう。知ってる親戚の叔父さんだ。いや俺のことはいいんだ。」

 咲矢は志乃から密矢に視線を動かす。

「大人だって傷つくんだ。俺のことはいい。でも志乃さんには謝ってほしい。」

 密矢は志乃へ視線を向けて、ルームミラーをチラリと視た志乃と一瞬だけ視線が合う。彼女は苦笑していた。

「ごめんなさい。」

「いいのよ。」

 咲矢は再びココアをコップに注いで、密矢に差し出す。

 密矢は受け取って、コップを両手でつかんだままで、咲矢から痛いくらいの直視を受ける。

「猫舌なの。」

 密矢はやや声を荒げ、咲矢は、そ、と素っ気なく返した。

 水面の上で湯気が揺らめくのを見ながら、密矢はいろいろ考えようとして、気持ちを整理しようとして、なんだかうまくいかなかった。ふと思いついた疑問を、無造作に口にした。

「おじさん、もしかして善人なの?」

 咲矢はふと鼻で笑う。

「どうかな、善人にはまだ足りないかもしれないけど。努力はしているつもりだ。」

「どんな? 道端に落ちてるゴミを拾ったりなんか、してるの?」

「はは。月一の町内活動には参加してるよ。」

「なんで?」

「悠吾に会ったときに、いい親だって思われたいからね。」

 不思議だなと思った。親と一括りにいっても色々いるんだなと、密矢は思った。

「ところで、どうしてゴミ拾い? 密矢くんにとっては、ゴミを拾う人が善人なの?」

「ここまで来る途中でね、公園のベンチに、いまちょうど食べ終わりましたって具合で、コンビニ弁当の空箱と、空缶が置いてあって。のを見て、悠吾がびっくりしていたの。透明人間か、忽然と神隠しにあったか、とにかく怪異の仕業だと思ったんだって。」

 真実を伝えると、悠吾は言葉をなくしていた。その顔を思い出すだけで悲しくなる。

「悠吾は汚い世界を知らないんだ。ゴミをゴミ箱に捨てない人が割といることを、悠吾は知らないんだ。だから、……叔父さんはゴミ拾いを続けてね。」

 この美しくも汚い、善と悪が入り乱れる世界を、気に喰わないからといって壊すことはできないし、壊してくれる誰かを期待もできない。非力な自分では、外の世界に逃げることもできない。

――なら、ぼくはどうすればいいんだろう?

 悠吾とこの世界で生きていくために、なにができるだろう。

 魔都の首都に近づくだけ郊外へ帰宅する車が増していくから対向車線のほうが騒がしく、上り線、つまり前方に車はすくない。

 密矢はフロントガラスの向こうの暗がりへ、悠吾を探すように、視線を向けていた。

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