第五章 下
密矢の姿がないのに咲矢が気づき迎えに出たあと、部屋に母と二人残された悠吾は、『針のむしろ』を体感していた。
「お風呂にはもう入った?」
「え? はい。」
悠吾はこくんと頷く。
「ここまで遠かったでしょ? シャワーくらい浴びたいんじゃない?」
「あ、っと、いえ、大丈夫です。」
(…………汚いから入ってほしいのかな?)
悠吾は悩んで、でも口に出すのも気後れしてしまって、唇を噛む。
「そうね、もう遅いし、寝よっか?」
「……はい。」
志乃は朗らかな人らしい。ひとしきり泣いてしまうと気持ちが落ち着いたのか、普段の調子を取り戻してきたようだ。彼女の快活でリズミカルな口調に、悠吾は無抵抗のまま流される。
志乃は立ち、押入れから布団を取り出しはじめる。
「あの、おれがやるから。」
と布団を奪って、すでに敷かれている夫妻の布団の隣に並べた。これでもう足の踏み場はない。というか、足の踏み場は柔らかいところしかない。悠吾が靴下のまま布団のうえに立っていいものかと悩んでいるところに、志乃が話しかけた。
「ありがとう。」
志乃はずっとニコニコしている。
「いつもやって、て、…ですから。」
「偉いのね。」
「……当たり前のことですから。」
ドラマやなんかでよく見る家族は子供が親に敬語を使わないが、密矢は兄にさえ敬語だ。当たり前というのが実感としてよくわからず、言葉づかいにも迷う。
「寝間着は? ある?」
「えっと、いや、……。密矢が全部やってくれて……。」
と、悠吾は持ってきた荷物をあさる。寝るときも起きているときも同じ格好でいるのが当たり前の悠吾には、寝間着というとパジャマしか思い浮かばない。しかしそれは入っていないようだ。
「ちょっと待って、咲矢のを貸すから。ちょっと大きいかもしれないけど。」
言いながらもうタンスを開けはじめている。
「はい。」
と渡されて、悠吾は考えなしに受け取っている。そしてまごつく。血はつながっているのだろうが、今日会ったばかりの女性の前で服は脱げない。
「あぁ、――フフ、ごめんね。お風呂場はそこだから、着替えてらっしゃい。顔も洗ってきたら?」
悠吾は頷いて、彼女に従う。
洗面所で鏡を見ると、目元が真っ赤で思わず笑ってしまう。水分がなくなって眼球が萎むんじゃないかってくらい、今日は泣いた。
衣類をたたんで戻ると、志乃はそれを軽やかに奪った。
「明日洗濯するから、これは預かっておくね。」
悠吾の返事も待たずに洗濯籠へ持って行かれる。
悠吾はなんとなく、おもむろに正座を作り、彼女はすぐに戻ってくる。
「咲矢が戻るまで、台所の明かりはつけておきたいんだけど、いい?」
「はい。」
玄関を入ってすぐが台所で、その奥に彼らが寝床にしている居間がある。1DKだ。
彼女は居間の明かりを消し、台所の明かりを取るために隙間を残して板戸を引いて、布団に潜り込むと座ったままの悠吾を見上げる。
「寝ちゃお。咲矢、鍵持って行ったんだから、大丈夫よ。」
悠吾は頷いて、布団に入る。
「おやすみ。」
「……おやすみなさい。」
当然眠れない。
わざわざ確認しなくとも、志乃がこちらを見ているのがわかる。
布団を上げて顔の半分を隠す。知らない匂い。
志乃がフフと笑う。悠吾がちらと見ると、彼女がほほ笑んでいる。
「すこし、話してもいい? 途中で眠っていいから。ね?」
悠吾は寝返りを打って彼女に向き合う。
「悠吾に書いているのは和矢さん?」
「いや、……いつもは密矢なんだけど、最近は凍矢さまが……。」
「そうなのね。」
彼には大きすぎるパジャマの首は大きく開き、そこから文字が敷き詰められているのが見えたのだろう。悠吾は毛布をかぶりなおし、それを隠した。
意味が解らなくてもその異常さから、呪詛のように映ったかもしれない。
「密矢は、こんなふうじゃないんだけど。もっと楽っていうか、……こんなには濃くなくて……。」
「うん。」
彼女は息子を見つめて、悠吾は言葉が続かない。
志乃は悠吾にすり寄って、悠吾がおずおずと身を引くあいだに布団に入ってしまうと肩ひじをついて、もう片方の腕は悠吾の鎖骨あたりを越えて、向こう側、耳から後頭部あたりをなでた。
優しすぎる寝技を決められたような気がしながら、悠吾はたじろいで、体をこわばらせ、息を止める。
「緊張しないで。さっき密矢くんは悠吾が『女の人に触るのは初めて』って言ったけど、それは違う。だって私のおっぱいで育てたんだから。思い出せない?」
「……ごめんなさい。」
「ちょっと揉んでみる?」
「いやっ……。離して……。」
「そんな恥ずかしがらないで。親子なら当然することよ。」
「で、でもおれ、もう十五だし。普通抱き合ったりとかは、小さい子供じゃないんだし……。」
志乃の楽しげだった雰囲気が、ふと落ち着く。
「悠吾は普通じゃない。あなたは特別。」
声が突然真剣になって、悠吾は逸らしていた視線をすこし動かして彼女をうかがってみる。
「ねぇ、見て――」
と言いながら、彼女は体を起こすとパジャマをたくし上げる。悠吾はたじろいで視線を逸らし、みるみる頬が赤くなる。
「子供は、母親のお腹くらい見ていいのよ。ほら。」
悠吾はおずおずと視線を向け、母の腹にはうっすらと黒い跡が残っている。
悠吾は腕をついて体をもたげた。そこを凝視する。腹の表面が裂けたように残る妊娠線と、文字だ。
「私も同じだったのよ。」
術の跡だ。
「臨月にね、コトバミの入った酒を飲んだの。そうして悠吾にコトバミを入れた。こうしてね、悠吾のぐるりに術を書いて出ないようにしたの。ここに残っているのは、悠吾が生まれるすこし前に書かれたもの。悠吾が出ていっちゃって、そのあと消えずに残ったの。」
和矢と同じような、書による術だ。そのなかに短い文句を見つける。
『母子ともにいつまでも健康でありますように』
「私に書いていたのは、咲矢よ。」
悠吾が母の顔へと視線を上げる。彼女は背を向けて、上着のすそをめくった。
腰のあたりに『愛している』という文字が。
「ズルよね。咲矢さんは。こうやって隠して書いてしまうんだもの。気づくのにずいぶんかかっちゃった。」
彼女は笑わせていた顔を、さっと真剣なものに変えた。
「ねぇ、あなたはこうやって生まれてきたの。私たち恋をして、あなたがここにやってきて、こうして跡を残して、生まれてきたの。私、あなたのお母さんなのよ。」
生んだのは、たしかに彼女だ。母乳を与えたのも、たしかに彼女だ。
「悠吾が生まれて、咲矢は種宮から勘当されて、でも私とあなたは五年間は一緒に暮らしたのよ。」
たしかに彼女が母乳を与えたが、しかし、その先は――。
「憶えていなよね。だってあなたは」
志乃は表情を固める。
ある日、眠る赤子の片手だけが持ち上がり、ふらふらと揺れた。あたかも獲物を眼前に捉えたヘビが、鎌首をもたげ身を揺らすようだった。
それを皮切りに、悠吾の身体を動かすのは、人間の発育ではなく、バケモノの慣性であることが増えていく。
子供が体を動かして形を知り、そして心を形成していくように、コトバミもまたその体をヘビの形態から、人型へと変態していった。趨勢は拮抗しなかった。コトバミの順応が早かった。コトバミは筋肉の育っていない体を無理に動かし暴れ、それを抑えるために酒を浴びせるほかなかった。壊れるほど泣き喚いているのが、バケモノか子供かは判別がつかなかった。
泣き声は、彼女の罪悪感を駆り立てた。
そして憎んだ。家を、かつてコトバミを呑んだ自分を憎んだ。
彼女は息子が自我を目覚めさせるよりも早くコトバミが体を支配していくのを間近にしながらなお、悠吾の世話を辞めなかった。
種宮に養子に入る直前には、体を支配しているのは完全にコトバミだった。手は肘から先、足は膝から先をアヤダレに黒く染めて動きを封じられたコトバミは、舌を噛まないように猿轡をはめられてよだれを垂らしながら、視線は冷静だった。虎視眈々と、反撃の機会をうかがっていた。彼女を視ていた。子供の出来る目ではなかった。
悠吾が養子に出され、酒樽と同様、体に文字が書かれたあと、悠吾は悠吾として目覚めた聞き、志乃は心底安堵した。
悠吾が種宮で稻場よりまともな扱いを受けられるとわかり、同時に、もう手の届かないところへ行ってしまったと悟り、志乃は家を出た。
「あなたが稻場にいた五年間のこと、私は忘れたことがない。昨日のことみたいに思い出せる。思い出のなかの悠吾は、あんなに小さかったのに、もうこんなに大きくなって。生まれたときは私にそっくりだったのに、顎やなんか、骨格は、咲矢に似てるかな。男の子だもんね。当然か。」
彼女はすこし早口に言ったあと、考え事をするように口を閉ざして、また開いた。
「悠吾が種宮へ行ってしまったあと、私はあなたを諦めてしまった。だから、咲矢を追って家を出たの。」
志乃は目の前に座る息子の両手を取って握った。
「あなたにどれだけ恨まれたってしょうがない。私たちはそれだけのことをしたんだもの。私たちはあなたのことを一度だって忘れたことはないけれど、親と呼べるものでは決してない。悠吾にはいくら謝ったって足りない。ただ……、ただ虫のいい話だけど、よければ、いまからでも、私たちを親にしてほしい。親と思って頼ってほしい。」
悠吾は困惑する。
「ねぇ、家へ来ない?」
母親の手が熱い。
「ここまで逃げてきたんでしょう。辛いことがあったのね、目をこんなに真っ赤にして。家においで。もうそんな思いはさせないから。」
彼女の片手が上がって、やさしく頬に触れる。まぶたを親指になでられるのが、心地よかった。
「咲矢は書道をやめてないの。いまは農家だし、アヤダレも飲んでないけど、書道はやめてない。酒もいつでも手に入る。これから、あなたと、私たち、一緒に暮らせないかしら。」
彼女の懸命な懇願に、悠吾は怖気づく。
「……でもそんなこと、和矢さまが許すはずない。」
「あの人は、いえ、どっちの家も、コトバミのこと厄介払いしたいはずよ。私は稻場だし、咲矢は種宮なの。私たちが預かれば彼らにとっても喜ばしいはず。私たちのそばにいるのが、あなたの本当なの。自然なことなのよ。」
悠吾の困っていた眼が、彼女の必死の言葉を耳にしながら、冷静になっていく。
彼に“母親”はわからない。ドラマや映画ではよく見るが、実感としてはよくわからない。サンタクロースも人魚姫も父も母もみんな、悠吾にとっては同じようなものだ。
しかしいま、目の前で余裕を失った彼女を、悠吾はよく知っている、とも思った。
父親や兄に叱られて、それでも自分が正しいと頑として曲げない、密矢に似ていたから。
母親って、なにか特別な、強くて大きな存在と思っていたが、そうではないんだなと悠吾は感じた。
彼女に笑って見せる。
「密矢って、ほんとバカな奴だから、おれが叱ってやらなきゃいけないんだ。」
「へ?」
悠吾は考えながら、すこしうつむく。
「おれたちは家出してきたんだ。逃げてきたんだ。でもこういうやり方じゃ、きっとなにも解決しない。だから、あいつは、和矢さまと凍矢さまと、ちゃんと話しあって、仲直りしなくちゃいけないんだ。」
ついと視線を上げた。
「だから、とりあえず、あいつと家に帰ります。」
最初からそのつもりだった。
密矢の癇癪が収まるまで付き合ってやって、それから戻ろうと決めていたのだった。
志乃はたじろいで、頷くことはできない。
「おれは、……たぶん、二人に会えて、嬉しい……ん、だと思う。だから、二人と一緒に住む、とかっていうのも、なにかうまい方法がないか、ちゃんと話し合ってくるよ。」
悠吾は架空の存在のような両親と実際に会話して、体の温かみを知って、彼らが人間だと知ったのだ。ならば、密矢はこと父親を冷血漢と決めつけてしまっているけれど、その関係も変えられるかもしれない。
志乃がようやく首を縦に振る。
「おれね、コトバミと一緒だと思うときがある。密矢はさ、コトバミだけじゃなくて、おれにも栄養を与えてくれたから。だから、」
悠吾は志乃の手から自分の手を引いた。広げて見せる。凍矢によって書かれた文字列を見せる。
「凍矢さまのことも、おれはわかるかもしれないって思う。だから話してみなきゃならない。……どうなるかは、わからないけど。」
会っていなかった三年間のあいだに、まるで別人になってしまった凍矢とも、話し合えばきっと理解しあえるだろう。この術の意味もわかるはずだ。そう信じたい。
「私もついていく。ついていかせて。力になれると思うから。」
「うん。」
悠吾は頷く。
「密矢の説得を手伝ってよ。あいつ依怙地になるとトコトンだから。」
悠吾は笑って言い、志乃もクスリと笑った。
部屋のチャイムが鳴る。
志乃よりも先に悠吾が素早く立ち、玄関へ駆け寄ってドアを開いた。
たちまち部屋に入ってくる冷たい風と、それに揺れる白い長髪。
「凍矢さま……」
立ち竦む悠吾に、凍矢は大人びた笑みを見せた。
「迎えに来たよ。悠吾。」




