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マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
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序章

 ※序章の末尾部分でコトバミが言う叫び声以外のセリフ(――内のもの)は、どちらも、泉鏡花『妖怪ばけもの年代記』からの抜粋です。名作です。


 真昼、千切れ雲がぽつねんと浮かんでいるだけの晴天の下、桜が風にそよいでいる。

 この巨木の枝は街路から塀を超えて屋敷のなかへと枝垂れ、咲きこぼれる花のうちから花弁が一枚、また一枚と庭へ舞い落ちていく。

 そして踏みつけられる。

 この広い庭に会した大人たちは白あるいは黒の着物をまとい、口元をマスクで隠した格好で、粛々と働いている。庭の中心では初老の男が二人、対峙していた。片や死者を思わせる白装束で、片や黒ずくめで袴を穿き、色は違うがどちらも上等な紋付の羽織をかけている。彼らは半ば睨み合ったまま動かず、そこから日和のほうがむしろ場違いのような緊張感があふれ、周囲に広がっていた。

 しかしそれも、屋敷のなかまでは及ばない。

 庭へと開けた四十畳ほどの板の間には、子供が二人正座していた。白い紋付の男と同じ格好で、また髪の色さえ同じに白い。

 ただでさえ非日常の光景であるのに、板の間から見ればなおのこと、上を欄間、左右をふすま、下を縁側という額縁に収められた風景画のようで、現実感を欠いていた。

 彼らのもとまで緊張感は侵入できなかったが、桜の花弁は風に乗り、縁側までふわりと届いた。

 子供のうち幼いほうは、縁側に落ちる薄紅の花弁をなんとなしに数え、三のつぎは四、四のつぎは五と思い出すかわりに、言いつけを忘れてしまった。

 手を伸ばしながら勢いよく立ち上がって行こうとする彼を、隣に座る歳離れた兄が慌てて抱きとめる。小さな腰を元あったように座布団へ据えつけると、耳打ちした。

「ここに居るように言われたろう?」

「でもおにいさま、」

 ゴムボールのように跳ね返って来た反問を、人差し指を弟の口元にそっと当て、「しー」として止める。

 ふんわりとした口元を歪めながらも弟が素直に頷くのを見ると、兄は口から手を離して居直り、庭で執り行われている儀式へと視線を戻す。

 紋付を着た二人のすぐそばで、黒装束の男たちが動く。

 彼らが持ち込んでいた黒塗りの長物が開かれる。中身が取り出され、中央の二人のあいだに置かれた。黒装束たちが去ったあと、残ったのは小さな塊だった。

 子供だ。

 板の間に座る子供のうち弟と同じくらいの背丈だが、しかしこちらはひどく痩せている。黒い着物から覗く生白い手足にはまだらに赤と青――生傷と痣が浮かび上がり、伸びたままの髪は乱れ、薄く開いた黒目は虚ろだ。彼の首には首輪がはめられていて、そこから伸びた鎖は黒い紋付の男によって握られていた。

 子供のみじめな有様に、弟は兄を頼って袖を掴む。弟の恐れが伝わって、兄は手を結んでやる。

 黒い紋付の男はしゃがみ、子供の首輪から鎖を外すと首輪を掴んで腋に手を入れ、引き上げて無理に立たせる。子供のつま先は力なくふらふらと地面を掻いた。

 黒の紋付はそれを白の紋付に差し出し、相手もまた手を伸ばした、そのとき――

 やにわに子供の足が白い紋付の身体を駆け上がり、踵が思い切り脳天に振り下ろされたのち逆上がりでもするように体を宙で回転させ、体重の乗った膝で黒い紋付の後頭部を打つ。双方突然の衝撃に耐えられずふらついて、尻餅をつかずにいられない。

 解き放たれた小さな体は、白と黒の大人たちの隙を俊敏にすり抜けて、人間業とは思えない高さを跋扈し、大人たちの後ろ、板の間に跳び込んで、幼い兄弟に迫る。本能なのだろう。より脆弱な個体を襲う瞬時の判断は。飢えた野良犬のように、歯をむき出しにして弟へ襲いかかった。

 弟の身体は硬直して動かない。兄は弟を護るために体当たりし、そのために兄が子供の正面へと繰り出され、避ける余裕のないまま彼らは激しくぶつかった。獣の目をした子供の足元で、兄は転倒し無防備な姿をさらすが、子供は彼を見下げない。標的は変わらない。

 すぐに方向転換をし、弟に飛びかかる。弟は腰を抜かしていて逃げられず、ただ、頭を護るように両腕が出る。

 噛まれる。

 四歳児のやわらかな肌に、しかし、四歳児の歯だ。

 骨まで達することも、肉を食いちぎることもなく、血だけがあふれる。

 鮮血がべっとりと口元を染めると、それは突如、拒絶するように口を離した。

――グアァァアア!――

 人間の発音ではなかったが、たしかに悲鳴ではあった。

 弟を突き倒し半ば転がるように人々から離れると、自らの口についた血液から逃げるように飛び退り、兄弟の背後にあったふすまにぶち当たってさらに奥の広間に転がり込む。壁にぶつかってようやく動きを止め、四つん這いに伏して滅茶苦茶に頭を振り回し、口を大きく開けたままよだれを垂らす。

 口元から煙が上り、血が瞬時に渇いて、白い肌に、血痕は黒く残っていく。

 薄明かりのなか、ぎこちない動作でやおら顔を上げた。

 黒い乱髪の隙間から覗くのは、光を反射しない暗い瞳。

 誰を見るでもなく、しかし全員に向けられた、突き刺さるような睥睨。

 空気が一変した。

 一人の人間が、それも年端もいかない子供が醸し出せるはずのない強烈な威圧感が、瞬時に場を占拠した。これは被食者が捕食者を前にして感じるプレッシャーにほかならない。眼付からも発声からも、そこにいるのが人ならざるモノ――人間の天敵であることは明白だった。

 誰もが知っていた。しかし知っているだけだった。この脅威を眼前にして、背筋に悪寒を覚えながらようやく、否応なく理解するのだった。

 妖怪がいる。

 いま、ここで、少年のなかに活きている。

 その名はコトバミ――この妖怪が人界に現れたのはいまから遡っておよそ百年前、縄を投げても刃も振っても空しいばかりで甲斐がない、実体をもたない影そのものであった。三晩、風の吹くように往来を駆け抜け、十二人、川の流れるように呑み込んだその姿かたちは、まさに漆黒の大蛇であったという。

――妖怪より余程(よっぽど)怖い馬鹿だもの――

 だらしなく開いた子供の口から、地獄の門を吹き抜ける隙間風のように、声が漏れる。

――覚えておはせ、御身が命を取らむまで、妾は死なじ――

 言うやいなや、魂でも抜けたように子供は倒れた。

 混乱に呼吸を浅くした白装束の少年は、自分の腕から流れる血の赤さに痛みを思い出して、ついにほろほろと泣き出してしまう。

 白い紋付の男が、自らの幼い息子の肩を強く抱き寄せ、倒れた子供を指差した。

「あのバケモノを、おまえが一生をかけて殺すのだ。」

 これが、白装束の少年――種宮密矢(たねみやみつや)と、体に怪異を封じた少年――悠吾(ゆうご)との出会いだった。

 十年前の春のことである。


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