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あの旗をもう一度

作者: 氷月涼

2002年に解散した会員制創作小説サークル「迷夢」VOL.16に掲載した作品を加筆修正したものです。

 僕の家には車がなかった。友達のヒロシの家には車があった。ペガサスのマークが付いている白い車。雨の日の朝に、ヒロシを迎えに行って、何度も高校まで車で送ってもらった。便利でカッコいい車が僕の家にも欲しかった。でもこの先も僕の家には車はないだろう。僕が大人になるまでは。


          *


 夕日が目にまぶしい。車の運転で夕日はつらい。サンバイザーを下げ、ダッシュボードに置いてあるサングラスに手を伸ばした。

 三歳になる息子を連れて妻と買い物に出かけた帰り道。後部座席のチャイルドシートに座った息子が、買ったばかりのロボットのおもちゃの腕や足を動かしてひとり遊びしていた。その隣に座る妻が、今日はどこかで食べて帰らない?と突然切り出した。

「ええ? いいのか?」

 妻は子連れでの外食を避けていたので、公園で弁当を食べることはあっても、子連れでの外食は一度もしていなかった。

「たくやのはじめてのレストラン体験もいいじゃない? ね、たくや」

「うん!」と卓也は声を張り上げた。

「いきなり言うなよ、準備ができてないじゃないか」

「準備ってなによ。何もいらないじゃない。注文したら出てくるんだから」

「気持ちの準備だよ」

 迷惑をかけたら嫌だからと外食を避けてきた妻なのに、突然その問題がクリアーされていることに僕は驚いてもいた。僕自身は何もクリアーできていないのだ。

「ねえ、どこ行く?」

 僕の気持ちは置き去りに、僕自身ですら気持ちはそのままに、僕の頭の中ではあの時のメニューのイメージが広がっていた。あの時食べられなかったお子様ランチの。


          *


 僕の家には車がなかった。父が免許を持っていなかったからだ。元来が出不精で家に籠って、寝転んでテレビを見て

いれば満足する人だったので、車など必要なかった。欲しいものがあれば母に買ってくるように頼み、自分で出かけることは仕事以外はなかった。

 日曜の朝、母は掃除をする時に置物をよけるように父を庭へ追い払い、掃除が終わると呼び寄せて定位置につかせた。父はごろんと横になり、テレビをつける。掃除を手伝っている僕に、パチンコにでも行ってくればいいのにねと母は言う。もしハマったらそっちの方が困るだろうと僕は思いながら、曖昧に笑って返事もせずにごまかした。

 もちろん僕の家では家族揃って外出するなんてことがなかった。電車で外出することもできたはずだが、父が外出を嫌ったからだ。年に二回だけ、母と僕と妹の三人で出かけることはあった。母方の祖父の墓参りだった。朝、墓参りをして昼前に祖母の家に寄る。昼ごはんは決まってサッポロ一番塩ラーメンで、これでもかというほどキャベツをたくさん入っていた。そんなわけで、僕は家族で外食をしたことがなかったのだ。

 学校で正男が昨日レストランでステーキを食べたと自慢していた。お子様ランチは卒業だと胸を張る。チキンライスに立っている旗を倒さないように食べるのは好きだったから心残りだけど、なんて言って。ステーキも旗が立っているチキンライスも、どちらも僕は食べたことがない。もう小学三年生なのに。


 日曜の朝、いつもは十時まで寝て、起きてすぐにテレビを見ながら朝昼兼用のご飯を食べるところだが、今朝は八時頃、母にたたき起された。不機嫌なまま居間へ行くと、妹はすでに起きていて、着替えも済ませていた。テーブルには朝ごはんが自分の分だけ準備されていた。

 早く食べてよと、妹は僕をせかす。これからお母さんの友達のところへ行くんだから、と偉そうに言う。一つ違いの妹は口が達者で、僕より年上に見られることがよくあった。

「そんなこと聞いてないよ。聞いてたらもっと早く起きて準備したのに」

「あたしだってさっき聞いたばかりよ」

 そう言われると言い返す言葉がない。要するに僕が朝寝坊なだけだ。

「で、母さん、どこまで行くの?」

 急いでトーストを頬張り、飲み込みながら母に尋ねる。台所で洗い物をしている母はA市までだと声をはずませた。久しぶりに友人と会うから楽しみにしているらしい。

 僕らは母の友人宅の最寄駅のA駅に十時頃に着いた。改札を出ると母の友人が出迎えてくれた。母の友人宅までは友人の車で向かった。駅からは少し距離があって二十分かかる。友人宅で母と友人はひたすらおしゃべりをし、僕と妹はかなり退屈してきていた。母がお昼なのでそろそろお暇しますと言った時、僕は心底ホッとした。でも一時からのテレビ番組は見れないし、本当はその前のアニメの再放送番組も見たかったなと思っていた。

「じゃあ、お昼ご飯、外に食べにいきましょうか。ここから車で二十分ほどかかるけどおいしいレストランがあるの」

 母の友人がそう言った時、母はあからさまに困った顔をした。そんなわけにはいかない、と母は友人の誘いを断ろうとしていた。友人の耳元へ小声で何か話しているようだった。お金、とだけ聞こえた気がした。友人は笑って、大丈夫よと母の背中を叩いて耳打ちした。へそくり、という言葉が聞こえた。でも、とまだ母は迷っていたが、妹のお腹が盛大に鳴る音が聞こえて腹をくくったようだった。

 母にとっては久しぶりのレストランで、僕と妹にとっては初めてのレストラン。見られないテレビのことなんかぶっ飛んで、僕は一つのことだけを思った。

 レストランに着いたとき、僕は車に酔って吐きそうなくらい気分が悪かった。普段、車に乗らないから、たった二十分でもダメだった。

 それでもメニュー表にあるその文字を見つけたからには、僕は頼まないわけにはいかなかった。こんな機会が次にいつ来るかわからないんだから。妹も同じものを注文した。

 蝶ネクタイをしたウエイターが両手に銀色のお盆を載せて料理を運んでくる。きっとあれがそうだ。こんもりと盛ってあるチキンライスに日の丸の旗が見えた。僕にもやっとこの時がきたのだ。順番にテーブルの上にお子様ランチが並べられる。僕の前に、妹の前に。妹は目をきらきらさせて眺め、チキンライスの旗を取ったり刺したりして、母に叱られていた。

 母と友人の料理も届けられ、一同そろっていただきますをしていっせいに食べはじめる。僕はチキンライスをすくったスプーンを何度も口に運ぼうとして下すことを繰り返していた。いざ食べようとするとムカムカして喉を通らない。ハンバーグにのっている半熟の目玉焼きをつぶし、黄身がハンバーグを伝ってとろりと流れて皿に落ちる。タコの形に切ったウインナーに突き刺した先割れスプーンの跡がギザギザ線になって残る。

「どうしたの? 食がすすまないみたいだけど、気分でも悪いの?」

 母の友人の言葉に、僕はこくんと頷いた。

「車に酔ったんだわ。普段乗りなれないから。そうよね?」

 母の代弁にまた僕は頷いた。

「プリンなら食べられるかもしれないわよ。喉越しがいいから」

 母の友人がそう言ってくれたので、赤いチェリーが一粒のったプリンをひとさじ口に入れてみた。スーパーで売っているプリンとは違ってなめらかだった。カラメルソースも粘っこくて甘ったるいのではなく、さらっとしていた。ひとさじ、ふたさじと続けて口に入れた。残り少なくなってくるとさびしくなって、ひとさじですくう量を少なくして味わって食べた。この調子ならチキンライスもいけるんじゃないかと思って、一口食べてみたら、途端に気持ち悪くなった。吐き出したいのをぐっとこらえて水で流し込んだ。あんなに食べたかったお子様ランチが目の前にあるのに、ハンバーグもエビフライもチキンライスも食べることができない。プリンしか食べられなかった。たぶんもうこんな機会はない。外出することも外食に出かけることもない家だから。そのうちに僕はもう大人になってしまう。お子様ランチを注文する年齢ではなくなってしまう。

 隣を見ると妹は満足そうに全部たいらげていた。僕の目の前にあるお皿には、そのままの形で残されたハンバーグとエビフライ、ほんの少しだけ欠けたチキンライスの丘。恥ずかしいからやめなさいと言う母にもかまわず、僕はチキンライスに刺してあった日の丸の旗をポケットに入れた。


          *


 大人になって、働いてお金をもらうようになって、子供のころ手に入れられなかったものが得られるようになっていた。

 僕には車がある。妻と結婚する前は、二人でよくレストランへ行って食事をした。うまいものを食べ、うまい酒をのみ、欲しいと思ったものを買う。次から次へと。

 それなのに、あの頃手に入らなかったそのことが、大人になった今も残っている。今はもうお子様ランチなんて欲しくない。あの時持ち帰った日の丸の旗も、いつしか捨ててしまっていた。


 そして今、車に乗って、家族でレストランに向かっている。あの頃はできなかったことが今はこんなにもたやすい。

「ねえ、どこへ食べに行く? やっぱり近くのファミレスかな?」

 妻は僕に訊く。

 あの頃、僕が連れて行ってもらったようなところとは違うレストラン。チェーン店の、底抜けに明るい店内の、どこに行っても同じメニューの安心できる場所。息子は何を食べたがるだろう。

 できるなら、あの旗のついたお子様ランチを、僕は見てみたい。僕が食べることのできなかったお子様ランチを。

お読みいただき、ありがとうございました。

実はこの作品は2017年に私がはじめて140字小説にしたものでもありました。

それがこちら。(字数の都合もあり、一部内容を変更しています)


幼い頃我が家には車がなかったせいかな僕の車酔い。タクシーで出かけた初めてのレストランで気持ち悪くて頼んだ料理を食べられなかった。大人になった今、僕は自分の車で妻と幼い娘を載せてレストランへ向かう。娘は注文してくれるだろうか。料理に立つあの旗を僕はもう一度見たいのだ。

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