窓中毒
この世にはたくさんの窓がある。冷たい窓、陰気な窓、ほっとする窓、焦げそうに熱い窓、どうでもいい窓、猫のお気に入りの窓。
その窓はとても細長い。黒い枠に囲まれてあって、右端にはなぜか、小さなマイクが置かれてある。窓はいつでも開かれてあって、覗くたびに景色が変わる。埃はそこへはたまらない。嵐が来ても、壊れない。窓の向こうにはたくさんの人が仮面をつけて、ウゴウゴとひしめき合っている…
これはそんな窓の傍らに立って、四六時中正しい答えを待ち続けている、ちょっぴり哀れな男と女の物語である。
暗闇の中、布団の中で光る一対の眼。しなやかな指先が、四角い画面を素早くタップする。
「今日、初デートに失敗しました。24歳会社員です。相手は同い年の同僚です。豚ウォーズを見て、ラーメンを食べて、エイトアンドエムに行きました。途中までは、いい感じだったんです。でも結局、喧嘩して終わってしまいました。些細なことで、すれ違ってしまったのです。どうしたら立ち直れますか?」
「投稿」ボタンに指が触れると、「ぽろん」という間抜けな音が鳴って、質問はあっという間に、世界に向かって放り出された。あとはじっと目をつむり、飛んでくる答えを待つだけだ。
*
品川駅、中央改札口、銀色の時計台の前。革のブルゾンに身を包んだ和田佐助、24歳。醤油顔で、手足は短め。まさに普通の人間代表、と言った言葉がお似合いである。時計台の傍に立ち、手元のスマホに、食い入るように見入っている。
「佐助くん」
柔らかな声にハッと顔を上げる。いつの間にかすぐ横に、佐助を見上げるようにして、山崎道留が立っている。毛足の短い白いロングコートを着て、エナメルの、ベージュのヒールを履いている。毛先のカールが、ちょこまかした動きに合わせて、じゃれ合うようにいじらしく揺れる。
「いつ気づくかなと思って、ずっと立ってたんだけど」
佐助は道留の凛とした奥二重の瞳に気後れしながら、必死に平然を装って、「え、何それ、怖い」と怯えるふりをした。
「東京は怖いとこなんだよ。」
「まじで…」佐助はすっかり上がってしまって、気の利いた返しが思い浮かばない。まずい、俺、こんな調子で、今日一日、やっていけるのだろうか?道留はそんな佐助の焦りをよそに、ニヤニヤしながら全身をくまなく見つめている。
「え。な、なに?」
「ううん。なんか、会社と雰囲気違うなと思っただけ」
「え、そうかな?」当然だった。髪のセットに一時間もかけたし、服も新品のをおろしてきたのだから。佐助はしかし、何だかあまりにも自分だけが気張っているように思われ、恥ずかしくなってきた。それで、恥ずかしさをごまかそうとして、早口で言った。
「道留ちゃんは、あれだね。いつもと変わらず、おしゃれだね。」
「ありがとう。」
「それ、流行りのチェスターコートだね。」
「そうだよ、よく知ってるね」
「ネットで見たんだ、スタイルのいい人じゃないと、似合わないって書いてあった」
道留が一瞬、顔を曇らせた。
「…私には、似合わない?」
「い、いや!そんなことない、そういう意味じゃない、うん、よく似合ってるよ」
「うーん、でも私、ちんちくりんだからな…」
道留は不安げに、自分の全身を見渡し始めた。重たい沈黙が流れる。佐助は冷たい汗が脇に噴き出すのを感じた。まずい。こんなはずでは。だけど、どうしたらここから良い雰囲気に持っていけるのか、全く思いつかない。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「えっ?映画館のトイレの方が綺麗だよ」
「いや、いいんだ!すぐ戻るから」
佐助はポケットの中のスマホを強く握りしめると、雑踏の中をめちゃくちゃに駆け出した。
*
「今デート中です。会話が気まずいです。どうしたら会話が弾みますか?至急、アドバイスをお願いします。回答してくださったら、コインを100枚さしあげます。」
「投稿」を押して、10秒、目を瞑って待つ。更新ボタンを押すと、もう回答が来ている。コインを多めに設定したからだろう。
「何でも良いので相手をほめまくりましょう。」
*
映画館、入場口前。二人分のチケットを握りしめながら難しい顔で何やら考え込んでいる佐助。その横で、道留は大きなポップコーンボックスと飲み物を抱えてふらふらしている。
「ねえ、佐助くん…どれか一つ、持ってもらえると…」
「道留ちゃんてさ」佐助は閃いたように、言った。「なんか全体的な雰囲気がすごくいいよね」
「えっそうかな?うーんと、ありがと」
「髪も、サラサラだし」
「あ、ありがと、天然パーマだけど…」
佐助は一瞬、ひやりとする。先ほどのような沈黙を訪れさせまいとして、まくし立てる。
「ごめん髪じゃなくて、いつの間に、血の話をしてたんだ、血がサラサラそうだなってことなんだ。」
「血…?初めて言われた」
「では16時開始の豚ウォーズ、開場しまあす」
係員の声に飛びつくように、佐助はさっさと歩き出す。道留は溢れ出したポップコーンをボロボロ落としながら、必死に後からついていく。
*
「豚ウォーズ 感想」検索。
「お役立ち度の高い順」クリック。
電波が悪いのだろうか、なかなか結果が表示されない。苛立ちながら、待ち続ける。
*
映画館の出口。佐助と道留が、連れ立って出てくる。若い二人の表情は、満足げに輝いている。
「面白かったね」と道留。
「うん、でもやっぱりあそこで豚肉にされちゃうのは、ちょっと微妙だったな。」
「そう?」
佐助はここぞとばかりにまくし立てる。
「うん、やっぱり七部作の5番目という観点から見ると、ここで主人公を豚肉にしてしまうのは監督の技量不足感が否めないよな。原作ファンからすると時期尚早で乱暴な展開だと思うよ」
道留はしばらくぽかんとした顔で見つめていたが、ハッと我に帰ると、ようやく言った。
「へえ…佐助くん、原作ファンだったんだ。」
「いや、俺は、違うんだけど…」
「へえ…?」
二人の間に、間の抜けた沈黙が流れる。
佐助はすがるようにスマホの時計を見ると、「そうだ、ええと晩メシなんだけど、美味しい店があるんだよ」と言って、スタスタと歩き出した。道留は人ごみの中を、何度も人にぶつかりながら、必死に佐助を追いかける。
*
ラーメン屋「大二郎」。強面の店主が、黙々と麺を茹でている。満席の店内には、麺をすする音だけが響いている。佐助と道留は、図体のでかい客に挟まれながら、縮こまってカウンター席に座っている。
道留がひっそりと体を寄せて、佐助に囁く。
「佐助くん、ここ、よく来るの?」
佐助はドキッとして、さらに身を縮こませる。
「い、いや。」
「え?初めてなの?」
「うん。でも食べロクで、星5つだったから」
「え?本当?」
「うん、でも、星5つだから、大丈夫だよ、何しろ、あの食べロクだからね」
「へいおまち!」
威圧的な声とともに、山盛りのラーメンが二人の前にドカンと置かれる。熱い汁が、道留のチェスターコートに飛び散った。道留は青ざめるが、もうもうと上がる煙のせいで、その表情は覆い隠されてしまう。
「あ、口コミに書いてあったんだけど、残しちゃ駄目なんだってさ。ちんたら食べてても怒られるらしいから、急いで食べちゃおう」
道留は目を丸くして佐助をみる。佐助は麺をすするのに必死で、道留の視線には気づかない。道留は残している人はいないのだろうかと、キョロキョロと辺りを見渡す。しかし店主のギロッとした鋭い眼光に射抜かれて、諦めたように箸を割った。
*
「濃い豚骨ラーメンを食べ過ぎました。みなさん、至急、胃もたれによく効くいい薬を教えてください。コインを50枚差し上げます。」
回答が来るまで、更新ボタンを押し続ける。「新着の回答が一件あります。」震える手でクリック。
「そんなことくらい自分で調べろやボケ!」
*
輸入衣料品店、「エイトアンドエム」。ガラス張りの、いやに明るい店の中、佐助と道留が青ざめた顔をして、トロトロと歩いている。佐助の手には、この場には不釣り合いなドラッグストアのビニール袋が、情けなさそうにぶら下がっている。
二人とも、自分の欲しいものがわからなくて困っているといった表情だ。
道留はしかし、突然手近の黒いニットを半ばやけくそ気味に手に取ると、心ここに在らずと言った様子で眺め始めた。気づいた佐助が、振り返って微笑んだ。
「あ、それかわいいね。黒、好きなの?」
「あんまり好きではないけど…」
「そうなんだ。挑戦してみようかなって感じ?」
「うん、まあ…どう、似合うかな?」
「あ、ちょっと待って」
佐助は道留には目もくれず、素早くスマホを取り出すと、何かを打ち込み始める。そんな彼を、道留は冷ややかに見つめている。
「うん、ネットでもいい評価だよ。アメゾンだともっと安く買えそうだから、後で買ったらいいんじゃない」
黙り込む道留。
「…道留ちゃん?」
道留は静かに、ニットを元の位置に戻した。
「あ、やっぱアメゾンで買うことにした?」
道留は答えない。ただぼんやりと、なんの服も置かれていない空間を、黙ってじっと見つめている。
「…もしかしてさっきのラーメン、きつかった?」
「私は」道留は同じ一点を見つめながら呟いた。「今、ここで、このニットと私が似合いそうかどうか、それを見て欲しかったんだよ」
「うん、だから似合ってたってー」
「嘘。全然見てなかった。」
「そんなことは…」
「映画もお店も褒め言葉も全部、ネットの意見だよね。佐助くんはネットの意見で出来上がってるってこと?」
「ネットの意見は正しいんだよ、いつも、導き出されたベストを教えてくれるからね。」佐助は興奮気味にまくし立てる。「特にパフー知恵袋なんか最高だよ。どんな質問にでも、まっとうな答えを返してくれるー生身の人間に聞くよりずっと早いし、正確だしー」
「いいよ、もう」道留は佐助の方へ向いた。「今日1日、インターネットとデートしてるみたいだったよ」
それから長い沈黙が流れた。今日一番、重たい沈黙だ、と佐助は思った。空気の読めない陽気なヒップホップが、沈黙をさらに助長する。佐助はぎゅっとスマホを握りしめる。ああ、もし時間があるのなら、そのマネキンの陰に駆け込んで、検索するのにー
「ごめん。私、なんか、嫌なやつだね。もう、帰るね」
道留は一方的に言い終えると、つかつかとヒールを鳴らしながら、出口へと歩いて行ってしまった。佐助はその時初めて、道留の踵が擦り切れて、赤い血が滲んでいるのに気が付いた。
佐助はぼんやり考えた。道留はいつから待っていたのだろうか。佐助がそのことに気づくのを。それとも、待ってなんか、いなかったのだろうか。
*
暗闇の中、布団の中で光る一対の眼。しなやかな指先が素早く動いて、画面を素早くタップする。
「今日、初デートに失敗しました。24歳会社員です。相手は同い年の同僚です。豚ウォーズを見て、ラーメンを食べて、エイトアンドエムに行きました。途中までは、いい感じだったんです。でも結局、喧嘩して終わってしまいました。些細なことで、すれ違ってしまったのです。どうしたら立ち直れますか?」
「投稿」ボタンに指が触れると、「ぽろん」という間抜けな音が鳴った。
スマホをベッドのサイドボードの上に置き、充電コードを差し込んで、目を瞑る。回答が待ち遠しくて、うずうずする。どれだけの時間が経っただろうか。窓の外は、うっすらと白み始めている。なかなか眠りにつけない。諦めたように、スマホへ手を伸ばす。冷えた空気の中、この小さな銀色の機械だけが、不自然に熱を持っている。
「新着の回答が3件あります」汗ばむ指先で、「閲覧」をクリックする。
「もう二度と会う必要を感じられません。」「時間の無駄です」「この経験を糧に、次行こ、次〜」
ちらっと、壁にかかる白のチェスターコートを見やる。夜明けの光が、一箇所だけ毛羽立っている部分を、遠慮がちに照らし出す。
「ご回答ありがとうございます。そうですね、もう会うのはやめようと思います。それが一番、いいんでしょう。私にとっても、彼にとっても。今日のデート中、何度かこちらで質問させて頂いて、素晴らしい回答も何個かいただきました。だけど結局、こんな結果になってしまって、申し訳なく思います…」
吐き出されたため息は、濃い豚骨の匂いがする。
「ネットで情報を集めて、朝早く起きて、髪の毛も必死に巻いて、はやりのコートも買って背伸びしていったのに、自分の苦労がバカみたいです。」
道留は、「返信」部分を押そうとして、ためらった。ポツンと、自分に向かって呟く。
「ほんと、バカだよ。」
ポロン、とお知らせの音がなり、ハッとして画面に顔を戻す。
「新着の回答が1件あります」
*
夜明けのホームのベンチ。スマホを弄る男の背中。高速で文字を打ち込み始める。
「もう一度、彼に会ってやってくれませんか。彼は自信がなかったんです」
*
道留は食い入るように光を放つ画面に見入り、震える指でスクロールしてゆく。
「自分の意見にも、知識にも。だからネットという一見確かに見えるものに、頼ってしまったのです…」
道留は思わずため息を飲み込む。
「彼は検索窓の向こうにある、大衆の意見という脆い盾で、自分を守っていたのです。」
道留は最後の一文に、勢いよく起き上がった。
「もう一度、会って欲しいです。今度は、窓のない部屋で。 佐助」
*
スマホの電源が落ちる。ゆっくり滑り込んできた始発電車に顔を上げる。佐助の青白い、しかしどこか吹っ切れたような顔が、朝のホームに浮かび上がる。彼は落ち窪んだ瞳をこすると、力強い足取りで、静かな電車に乗り込んだ。
*
「新着の質問が一件あります。」
「もう、ネットで答えを待つのはやめました。これからは、自分で答えを見つけるような生き方をしようと思います。そこで、みなさんに質問なのですが、どうしたらそういう強い人間になれますか?回答をくださった方にはコインを300枚…」