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仮病を使おう!

作者: 香

「下野さん、三番テーブルにオーダー取りに行って」

「シモツケですっ」

「ハイハイ、急いで」

 ぱたぱたぱた

 乱立するテーブルの合間を縫って、小走りでお客さんのもとへと向かう。

「オーダー入りましたー。三番テーブル、ピラピラピラフ、ツー。すこーんと青空サラダ、ワン。あさりのあっさりスープ、ツー。猛獣ジュース、ワンお願いします」

 ずっと憧れていたウエイトレスも、やってみると肉体労働の上に給料は安いし案外色気はないってことがわかった。店長はいつまでたっても私の苗字を間違って言うし、セクハラする客はいるしで、イメージと全然違った。

 あと少しで八時。もうちょっとであがれる。それまで頑張らなくちゃ。

「あ、下野さん、ちょっといい?」

「シモツケです、店長っ」

「ハイハイ、あのね、これから交代する予定だった深夜の子が遅れるっていうのよ。一時間だけでいいから残業してくれない?」

 もうクタクタなんですけど・・・っていう言葉の代わりに私は、

「いいですよ、別に」

 って答えてた。頼まれたら断れないのは私の一番悪い癖。バイトあがりにクラスメートの紅葉たちとカラオケに行く約束してるのに。

  Pm 4:00~9:00 Part-time job


「遅くなってごめーん」

「鞠、ほんっと遅いよ。八時にはバイト終わるって言ってたじゃん」

 紅葉がほっぺたを膨らませて言った。今日は紅葉の誕生日会も兼ねてのカラオケ。みんなはこっそりビールを持ち込んで飲んでいて、赤い顔して笑ってた。

「鞠も飲みなよ」

「う、うん」

 私は動揺を悟られないように、紅葉から缶ビールを受け取った。実は今日が初ビール。十七歳、高校二年にして。遅いって、だっさーって言われるのがオチだから、誰にも言わなかったけど。だって、この年にもなればほっとんどの子が、イケナイよって大人達が言うことは大体経験済み。あたしはその一つに今日、一歩足を踏み入れた。

「ウ、ウエッ」

「鞠、どした?」

「に、にがい」

「はあ~?あ、もしかして・・・お酒飲むの初めて、とか?」

「んなわけないじゃん」

 私は慌てて缶ビールを一気に飲み干した。そして心の中だけで叫んだ。ビールってにがいー。おいしくないー。うえー。

「鞠、変な顔してないで歌おうよっ」

「うん・・・歌おう。歌ってしまおう・・・」

 pm9:20~1:00 karaoke


「じゃまたねー」

「明日一時間目休むかも~」

「あははっ、おやすみ~」

 笑顔終了。ああ、気持ち悪い。胃の中がおかしいよ。ビール君、外へ出たいって?まだだめっ。ストレス発散しようと思ったのにこれじゃ逆効果だったよ。とほほ。もうビールは飲まない。決定。

 ガチャリ。ソローリソローリ・・・。ママに見つかりませんように・・・。

「あっ鞠っ、どこほっつき歩いてたの!こんな夜中まで!」

 うわあ~。鬼の角にょきにょきのママがネグリジェ姿で台所に仁王立ち。私、しどろもどろ。

「バイトで残業してて・・・」

 そう言いながらママを大きく迂回しながら二階の自室へ行こうとすると、

「高校生は九時までしか働けないんだったわよねえ」

 と、低い声が背中越しに聞こえた。

「それに・・・あらあ~?お酒臭いわねえ~」

 ええっ、あのあとはジュースばっかり飲んでいたし、ガムも飴も食べたのに効果なし・・・?

「そ、そんなことないよ、コンビニで奈良漬買って食べたせいかもっ」

「ちょっと鞠っどこのコンビニよ、奈良漬なんて売ってるのは・・・コラ待ちなさいっ」

 あたしは聞き終わる前に自分の部屋の扉をバタンと思いっきり閉めた。鍵がついていないから追ってこられたら一巻の終わり・・・と思っていたけど、ママはそのまま寝室に帰っていったようだ。

 いいじゃんいいじゃんもう十七だし・・・。言えない言葉を胸の奥に押し込んで、青いソファに沈み込む。十七歳って、でもどうなの?大人じゃないのは確かだけど、もう子供でもない。本当は、私には、どこまでが許されているの?

 ああ、もう二時じゃん。ゲロゲロ。このまま寝ちゃおうか、それとも・・・うん、やっぱり寝ない。寝たら明日の朝絶対後悔する。書きかけの小説、もう少しで結末が見えそうだから書いちゃおう。そして月末の新人賞に間に合うように送ろう。

 今頑張れば、きっと。

 Pm2:00~am4:30  writes a novel


 目玉がずどーんって重くなって、胃がズキズキしだして、私はパソコンの電源を切った。  着ている服を全部脱いでベッドに体を投げ出すと、すぐに眠りが私の体の隅々まで浸透していって、深い深いところに落ちていくのを感じた。

 そういえば、今日って何曜日・・・?

 Am4:30~7:00 sleeps deeply


 ピピピピピピピピピピピピピ

 うるさーい・・・。

 ピピピピピピピピピピピピピ

 誰かなんとかしてよ・・・うるさいよ。

「うるせえっ姉ちゃん早く起きろ!遅刻してもしらねーぞ!」

 耳元でがしゃんと乱暴に目覚まし時計を止める音がして、イヤイヤながら目を開けると、弟がもう制服に着替えて立っていた。

「あーもう、桃太郎ノックしてから入ってよ」

「何回もノックしたのに返事がないからこうやって入ってきたんだろ」

「ハイハイわかったわかった、着替えるから出てって」

「起こしてやったんだから感謝くらいしろってんだ。あ、あと昨日の夜にまた梅原さんから電話あったぞ。実家にまでかけてくるなんて、あいつ結構しつこいな。その気がないならさっさと断れよ」

「もー人のことに口出ししないでよ、早く出てけっつうの」

「トイレは俺が先に行かせてもらうからな」

「えーっ、アンタ長い上に臭いからヤダ」

 私が言い終わらないうちに、桃太郎は部屋を出て行った。そしてすぐにトイレのドアを開ける音がした。上半身だけベッドから起こして、まぶしい朝日が入ってくる窓際を眺めたら、あーあ、ってため息が出た。

今日も一日が始まる。私にはやることが山ほどあるのだ。

「おはよ、鞠」

「おはよー。眠いよー」

「昨日のメンバー、あたしたち以外全員仮病でサボりだってさ。かったるいって。根性ないよねえ」

 紅葉が大きな口を開けて豪快に笑った。頬が初秋の光を浴びててかてか光っている。紅葉は体力あるなあって、その横顔を見ながら思った。

「私も休みたいよ」

「でも、鞠は文化祭の実行委員だもんね。偉い偉い」

「成り行きだよ。引き受けちゃって大後悔・・・あれ?紅葉、髪の毛いつ染めたの?そんなに赤かったっけ」

「茶髪にも飽きたしねー。鞠もいい加減染めたら?」

「いいよ、両親の寿命を縮ませるだけだし・・・あ、ごめん、携帯鳴ってる」

 ディズニーシールをぺたぺた貼った携帯をバッグの底から探し出して、相手も確かめずに出た。

「はい、あ、どーも。昨日電話くれたみたいで・・・いえ、ちょっとバイトで。はい。あ、じゃあ・・・え?明日ですか?えーっと、いいですよ。はい、じゃあ二時に駅前で、はい」

「誰?」

 背の低い紅葉が、大きなどんぐりまなこで私を見上げている。可愛いなあ。私なんてただでかいだけだもんな。

「えーっと、名前なんだっけ・・・生徒会長の・・・」

「梅原先輩?」

「そうそう。学校で話してくれればいいのにうっかり教えちゃったもんだから携帯に・・・」

「えーっ、梅原先輩かっこいいじゃん。実行委員会つながり?」

「うん、でも、しつこいよ?あの人。メールムシってたら家電にまでかけてきたんだよ。教えてもいないのにさあ。どこから調べたんだろう」

「告られたの?」

「うーん、一週間くらい前に。よく知らないし、って断ったら、毎日メールと電話だよ?かなりウザイ」

「で、デートに誘われた、と」

「うん・・・面倒臭い」

「もったいなーい。うらやましーい」

「紅葉には他校のかっこいい彼氏がいるでしょ」

 私が言うと、紅葉はマンネリだもん、ってそっぽを向いた。色々あるらしい。でも、好きな人と付き合えるなんてそうそうないよ。私はそっちの方が何倍も羨ましい。

「日曜日も実行委員会あるんじゃないの?今、大詰めなんでしょ?」

「うん、でも日曜は午前中に入場門の取り付けがあるだけだから平気」

「バイトは?」

「夕方からあるけど、それを口実に早めに切り上げるから全然余裕」

「そっか。もう、その気がないならはっきり断りなよ?あ、このままのペースで歩いていたら遅刻かも!」

 紅葉が携帯の時計を見ながら、小走りになる。

「あっ、今週遅刻撲滅週間じゃんっ、生活委員に見つかったら一週間トイレ掃除らしいよ!」

「うわっ、紅葉、走ろう!」

 pm9:00~3:45 School life

pm4:30~8:30 executive committee


「うーん、何を着ていこう」

 鏡の前で悪戦苦闘。特に楽しみでもないけど、一応デートだし。適当な服、ってどんな服だろう。この選んでいる時間がもったいないのになあ。

 ピピピッ

「あ、京子?どした?番号変えた?うん、へーいいな。私も早く機種変したいな。え?彼氏と別れた?原因は?泣かないで話してみて?うん・・・うん・・・。それはその男が悪いよ。合コン行ったんでしょ、有り得ないよ。京子のせいじゃないって・・・なーかーなーいーのっ」

 pm9:30~11:30 calls with the friend


ピッ。

 恋する乙女に悩みはつきものなのね・・・。その点私は楽だわ。京子、携帯代大丈夫かな。私は受けるだけだからいいけど・・・でも私も梅原先輩から一日に何通もメールが入ってくるから、返さなくても結構かかっちゃってる。もー、勘弁して。明日は絶対はっきり断らなくちゃ。そういえば明日って何曜日だっけ。あっ、来週の文化祭で美術部の部展やるんだ!絵、半分もできてない・・・。また今夜も眠れないな・・・。

 Pm11:45~am4:00 The picture is drawn


「うう・・・眩しい・・・」

 昨日、カーテン閉めて寝なかったっけ?ここ、どこだっけ。私、何してたんだっけ。・・・今何時?夜に絵を描いてて、目覚ましかけて寝たはず・・・ん?

「ギエ~」

 もっ、もう八時だよ!全員集合しちゃうよ!委員会九時からなのに。絶対間に合わないよお。

「鞠、さっきからあくびしすぎ」

「京子ちゃん、ガムテ取って・・・って元気じゃん」

「あのあとね、彼氏から電話あってね、仲直りしたんだもーん」

「よかったね・・・」

 私の助言は・・・?私の時間を返して~・・・。ぼんやりした頭の中でしくしく泣きながらも、校門に取り付ける文化祭用の入場門を作り続けたのであった・・・。

「うう・・・眠い」

「いつも早めに来てる鞠がどうして今日は遅刻?」

 いや、君の電話も遅刻に一役買っているのだがね・・・。

「昨日部展用の絵を描いてて、あんまり寝てないんだわ」

「そんなの適当にやっとけばいいのに。あたしなんて三時間で終わったよ?」

「適当って・・・」

 それができれば苦労はしないよ・・・。双子座のA型はそれができないんだよ、多分。

適当って何?適当って、どうやったらできるの?答えを探して旅にでもでようかな。永遠のテーマになりそうだよ、このままじゃ。

 Am10:30~12:00 executive committee


「あれ?鞠、マック寄ってかないの?みんなお昼食べてくってよ?」

「予定ができちゃって。あ、バス来た。行くね、じゃね」

「うん、明日~」

 京子たちと別れてバスに揺られて自宅まで。眠気がまた私を襲う。昨日は一体いつ寝たんだろう。このままずっと寝ていたい。何もなかったら家に帰って寝られるのにな。恨むよ梅原先輩・・・それよりも、断りきれない自分を。

 忙しくてやめちゃったピアノも再開したいのに。小説も書きたいのに。絵も最後の仕上げをしたいのに。図書館から借りっぱなしの本も読みたいのに。犬の健三郎も洗ってあげなくちゃ。洋服も、二年生になってから買いに行ってないし、それよりなにより、ぐっすり寝た記憶がないよ。全部全部、人のせいにしちゃいたいけど、一番どうしようもない自分を、誰かに止めて欲しい。

「遅れちゃってごめんなさいっ」

「いいんだよ、僕も来たばっかりだしね。さあ顔を上げたまえ。今日も一段と可愛いね」

「は、はあどうも」

 梅原先輩の私服を今日初めて見たわけだけど、どうなのよ、これ。ものすごくサイケデリックな派手シャツ(襟はたててある)に、ぴったりした白いベルボトムパンツ(フリンジ付き)。足元はヒールつきの編み上げブーツって・・・。今にもディスコ(クラブではけしてない)のミラーボールの下で踊りだしそうだよ。ああ恥ずかしいよー。一緒に並びたくないよー。

「ど、どこ行きます?」

 目があわせられない・・・。っていうか直視できない、彼を。

「映画のチケットがあるんだ。どうしたの?午前の実行委員会で疲れたかな?」

「ええ、多少・・・」

「これを見れば、疲れも吹っ飛ぶと思うよ」

「・・・『ウケケ星人の逆襲』?」

 渡されたチケットに書いてある摩訶不思議なタイトルと絵。やっぱり来るんじゃなかった、と気付くのはもう遅い。

 Pm2:10~6:00 Person association


「食事はまかせたまえ。いいところを予約してあるさ」

「ごめんなさいっ、私、このあとバイトなんです。代わりの人がいなくて休めなかったんです~」

 代わりの人がいたとしても無理矢理やってやるわ!早く、一時も早くこの場を離れたいぃ。

「そうか、それは仕方ないね。今日は君と一緒にナイスタイムを過ごせて僕は幸せだったよ。また誘ってもいいだろう?」

 嫌、絶対に嫌。ダメって言って、私の口っ。

「はい・・・」

 私は力なく呟いた。

「じゃッ」

 早くこの場を離れるのよっ。振り向かずに早歩きっ。なんという時間の無駄遣いをしてしまったんだ・・・なによなによあのウケケ星人って、どうして宇宙人がたこ焼き屋でバイトしてるのよっ。キーッ。

 プンプンしながら横断歩道を渡ろうとした時、信号が赤に変わってしまったのを怒りとウケケ星人のせいで気付けなかった。

「危ねえっ」

「え?きゃあっ」

 道路側に一歩踏み出した私の体は、どこからか伸びてきた腕につかまれたまま半回転した。

何、何、何が起こったの?私の前を、猛スピードのトラックが走り去る。

「轢かれるぞ。ちゃんと前見てろ」

「すみませんっ」

 反射的に腕の主の顔を見上げると、自分と同年代くらいの男の人が、一六八センチある私を見下ろしていた。

 か、かっこいい。その人は私とは違う高校の制服を着て、短くて茶色い髪の毛で、整った顔立ちをして(韓流スターのビッグバンのなんとかって人に似てる)いる。私は言葉を失った。

「何じろじろ見てんだよ」

 テノールの声で不機嫌そうに私に言うと、

「顔、白いぞ。ちゃんと食えよ」

 って付け加えた。そして腕を放し、スタスタと横断歩道を渡って人込みに消えた。しばらく、ドキドキして動けなかった。お礼、言うのを忘れちゃった。やっと我に返って歩き出してから、そう気付いた。

今日、初めて出会った人も、敷き詰められた時間の中に消えていく。まっすぐに、今しかできないことをやっていれば、いつか必ず幸せになれる。そう信じて生きてきた。

「下野さん、下野さん、」

「は、はいっ」

「ぼーっとしないで」

「店長、シモツケです」

「ホラ、コーヒー二番テーブルに持っていって。お客さん待ってるよ」

 小学生の頃から、大人になったら可愛いエプロンをかけてトレーを持ってコーヒーを運びたかったんだ。最初は緊張してずっとドキドキして、新鮮だったな。いつからこんな風に面倒臭い、疲れた、しか思わなくなったんだろう。いつから私はため息ばかりつくようになったんだろう。

 Pm5:00~9:00 Part-time job


「下野さん、あがっていいよ」

「シモツケですっ」

「ハイハイ、ご苦労様」

 早く家に帰って、絵を今日中に描き終えないと。終わったら小説を書いて、あ、文化祭のパンフレットの下書きもしなくちゃ。そういえば、英語と数学、来週の頭に小テストだ。受験する大学も決めなくちゃいけない。

「ただいまっ」

 壊すくらいの勢いで家のドアを開け、そのまま部屋へ直行。鞄をソファに投げて、着替えもせずカンバスにかけていた布を払う。

部屋が汚れるから本当は美術室でやりたいけど、時間がないから部屋に絵を持ち込んで床にビニールシートをひいて油絵を描く。

「鞠、ご飯はー?」

「ごめん、いらなーい、朝食べるから」

「朝だって食べていかないでしょ、体壊すわよ!」

「わかった、あとで食べるー」

 口だけ動かして返事をすると、油染みだらけの白衣を羽織って絵に向き直った。

「おい、」

「桃太郎、今は入ってくるなーっ」

 私は振り向かずに言った。部屋は、本やら文房具やら洋服やらで足の踏み場もない上に、青いビニールシートで滑りやすい。

「姉ちゃん最近さ、」

「あーっそれ踏んじゃだめっ」

「え?」

 ズテンという弟が床にひっくり返った音と、ぐにゅう、って嫌な音がして、弟の足元にあった絵の具がビニールシートの上に広がった。

油絵の具があぁ・・・。ぐにゅって、ぐにゅって・・・今から出そうとしていたやつだったのにーっ。

「いてててて・・・あ、出ちゃった」

「出ちゃったじゃないわよ。どうしてくれんのよ」

 私は椅子から立ち上がって桃太郎に向き直った。イライラが、体の隅々まで伝染していくのを感じた。

「いいじゃん、また買えば」

 キョトンとした無邪気な顔で、何も悩みがないような顔で、桃太郎は言った。その顔を見ていたら、あたしはわけもわからず叫んでいた。

「買う暇がないから言ってんじゃないのよ!用もないのに人の部屋に入ってこないで、暇人!」

 桃太郎の顔から、急速に色が消えていくのを、疲れた目の中に映した。叫んで、また体力が失われていく。エネルギーがない。補給するところがない。

「最近姉ちゃん変だから様子見に来てやったんじゃねーかよ。バーカバーカ」

 バタン、と思いっきりドアを閉めて、桃太郎は出て行った。

言い過ぎちゃった。私のイライラを、何の罪もない桃太郎にぶつけてしまった。何で私、あんなこと言っちゃったんだろう。

 桃太郎が投げ捨てるように置いていったミルクチョコレートを見つめた。私はいつから自分のことしか考えられないバカになっちゃったんだろう。いつからこんな・・・。ため息をつきそうになるのを必死でこらえて、そしてまた、絵に向き直った。

Pm10:30~am2:00 The picture is drawn


恐ろしい夢を見て起き上がるソファの上。体の上には毛布がかけられていた。お母さんかな。どんな夢を見ていたのかは思い出せないけど、何かに追いかけられる夢で、全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。後味の悪い夢の余韻は、疲れていることを体が伝えたがっているように感じた。

 それでも私は起き上がって、カンバスを部屋の隅におしやり、机に向かって英単語帳を開いた。

 Am2:15~4:00 studies


「間に合わないっ」

 バスの発車時刻まであと五分。間に合わなかったら一週間便所掃除決定だ。重い鞄を抱えて歩道橋をかけあがる。バス停はもう見えている。なのに、下りの階段で足がもつれた。落ちる、そう思った瞬間、誰かの強い腕に、私の体は抱きとめられた。

「っぶねえなあ」

 あれ?この声どこかで・・・。振り向くと、

「この前の、」

 人が、怒った顔をして私をにらんでいた。

「またお前かよ。死にたいのかよ」

 そうだ、この前のお礼しなくちゃ。

「ありが、」

 プップー。

 あ、バスが来た!間に合う!これに乗らなくちゃ!私は反射的に男の子の腕を振りほどくと、閉まりかけのバスに駆け込んだ。バスの中まで体を押し込んで、つり革につかまった。息を整えて我に返ると、歩道橋の上にさっきの男の子が見えた。二度も助けてもらったのに、またお礼が言えなかった。しかも逃げるようにバスに乗っちゃった。まただ。また私は自分のことしか考えられなかった。罪悪感で、歩道橋が揺らいでいく。

 男の子がこっちを見ている。透明で、湖の底みたいな目で。あ、何か言ってる?くちびるが何かの形を作っている。私はじっと目をこらしてそれを読もうとした。

 ケ・ビ・ヨ・ウ・・・?毛病?


 次の日、同じ時刻、同じ歩道橋。今日は昨日にも増して時間がない。タイムリミットはあと三十秒。もうバスが来てる!

 歩道橋を上りきって、手摺をつかんで熱い息を吐き出すと、昨日の男の子が欄干にもたれてじっとこっちを見ているのに気付いた。腕を組んで、不機嫌そうに。私を、待っていたとでも言うように。

「おい」

 そう言って男の子は私の腕をぎゅっとつかんだ。いつもよりも遠くの方で、バスのクラクションが聞こえた。

「あっ」

 私が走り出そうとすると、男の子は瞬間、私を羽交い絞めにして進行方向をふさいだ。

「は、離してっ、」

 バスが行っちゃった!完全に遅刻だ。でもタクシーを使えば間に合うかもしれない。今日は実行委員会と制服検査と、部長会議もあるのに!

「え?ちょ、ちょっと」

 男の子は私の腕をつかんだまま、ぐいぐいと今上ったばかりの歩道橋を下りていく。私も混乱した頭のままひっぱられるままついていく。

「何?ねえってば、ちょっと待って、」

 男の子は何も答えず、乗ったことのない路線のバスに無理矢理私を乗せ、一番後ろの席に座らせた。

「このバスはどこ行きなの?」

 私は半ばあきらめて男の子に聞いた。

「知らね」

「ええっ、降りようよ。何これ、誘拐?身代金はいくら払えばいいの?そもそもあなたは一体誰?」

 それだけ一気に言うと、きょとんとしていた男の子はいきなり笑い出した。

「お前おもしろいな。そうだな、誘拐。だから俺の言う通りにしないと、家に帰さないからな」

ええーっ。誘拐なんてされたの初めてだから、どうしていいかわからない・・・。私がにわかに慌てだすと、男の子はポケットからミントキャンディーを出して私に渡した。自分は窓枠にひじをついて外を見てる。

「いい天気だな。誘拐日和」

「ほんとだ」

 私も、窓の外に流れていく景色に目を移した。風景をまじまじと見るなんて、最近なかったことに気付いた。水色の高い空に、水彩絵の具で描いたような千切れ雲がぷっかりぷっかり浮かんでいた。道端には金色のすすきが風に揺れていた。

「誘拐犯さん、名前はなんていうの?」

「岩傘」

「それ苗字でしょ、名前は?」

「言うのか?」

「言ってよ。私は下野鞠」

「・・・・け」

「え?聞こえないよ。もっとはっきり言ってよ」

「長之助」

「へー、古風な名前だね。あ、別にばかにしているわけではないよ?うちの弟なんて桃太郎って名前だもん。そのくらいじゃ驚かないよ」

 誘拐犯改め長之助君は、また、大きな口を開けて、目を細めて笑った。

「笑うと雰囲気違う」

「とにかく黙って俺について来いっ」

「関白宣言だよ、それ」

「うるせえ」

 学校をサボる、という十七歳で大多数が経験している行事へまた一歩参加できた気がして、もろもろの不安はいつの間にかワクワクへと変化していた。しかもこんなに(口は悪くて強引だけど)かっこいい男の子付きだし。

「降りるぞ」

 どこだろう、ここ。見慣れない景色だと、時間は思いのほか早く過ぎる。バスに乗ってから一時間が過ぎていた。

「遅い」

 秋草の生い茂ったバス停を背にして立っていた、長之助君の隣に追いついた。

「あ、秋の匂い」

 思わず口に出してしまった。そうだ、季節には匂いがある。夏には夏の、秋には秋の。懐かしい、澄んだ匂い。

まっすぐにどこまでも続く道路の脇には、街灯のように背の高い銀杏が並んでいた。頭上からハラハラと金の葉っぱが落ちてくる。足元にも金の絨毯。歩くたびにカサコソと、柔らかい音を立てた。

「秋の匂いって臭いな」

 私の言葉を、長之助君はギンナンの匂いと勘違いしたようだ。私の秋はこんなに臭くない・・・。

「どこ行くの?」

「どこかに行くの」

 不意に私の方を向いて、優しく笑った。まるで純白の綿みたいに。

「どうして、私を連れ出したの?ほとんど初対面なのに」

「そんなこと気にするな」

「あっ、ちょっと待って、友達に電話して学校休むって言っておく。今、ちょうど休み時間だし」

 長之助君は黙ってうなずき、銀杏の木にもたれた。

 二人で並んで歩いた銀杏並木の果てには、広い広い海があった。波の先がとがってグレーに染まった秋の海。微かな潮の香りは、海が近かったからだったんだ。

「うわー、誰もいないよ!海、独り占めだよ!」

「お前が独占するな」

「じゃあ二人占めだ。海に来るなんて中学生の夏以来だよ。結構近くにあるのにね」

 半円形の湾に沿って続く、白い浜辺。防風林がそのあとを追うように生え茂る。秋の儚い光に暖められた砂は、銀色にきらめいて、その熱を私の手の平に伝えた。

 長之助君を見ると、眩しそうに目を細めながら海に見入っていた。そして手をかざして太陽を仰ぎ見た。その瞳が、太陽よりも何よりも、私には眩しく見えた。どこの誰かもわからない。でも、私は長之助君を受け入れてしまっている。いとも簡単に。この、ずっと前からこの人を知っていたようなデジャヴはなんだろう?

「転ぶぞ」

 その予言通りに私は砂に足を取られてよろけ、浜辺にひれ伏すように倒れた。

「注意力散漫」

 差し出された手をつかんで起き上がると、制服は砂で真っ白になっていた。でも、乾いた砂は何度かはたくと、また元のように砂浜の一部に戻った。

「ここにはよく来るの?女の子連れて」

「たまにな。でも最後のは余計だ」

 寄せては返す波打ち際を歩きながら、二人。

「住んでる所と、高校の近辺しか往復してなかったな、ずっと」

「もっと、違う場所に行けよ」

「そんな暇ない。学校のことで精一杯なんだもん」

「欲張りすぎじゃねーの」

「欲張るのはいけない?」

 少しムッとして問い返すと、長之助君は黙った。だから私も黙った。黙ったまま、貝を蹴ったり海草にからまったりしながら歩いた。そして突然、長之助君は言った。

「休むことは、無になることじゃない。乱れた息を整えるくらいのことだ」

 潮風で、私たちの髪の毛が波のように揺れた。その、心地よさ。空を見れば飛ぶカモメ、地面を見れば這うヤドカリ。海に向かえば流れ着いた流木や、ずっと遠くにテトラポット。何もかもが穏やかで、何もかもが懐かしい。

「聞いてんのか?」

「地球ってひろーい」

 ずっと遠くに見える灯台に届くように叫んだ。ずっと忘れていた感覚が、なんとなく蘇ってきた。

「当たり前だバカ。そんなこともわかんねーのかよ。もう行くぞ」

「バカって言う方がバカなんですぅーっ」

「小学生かてめえは」

 そう言ってスタスタと歩き出してしまった長之助君を追って、砂浜を出た。波の密かな水沫が、私の背中越しに消えていく。綿飴みたいな雲が、私たちを見ていた。

「お腹すかない?」

「もう少し先にコンビニがある」

 そう言う長之助君について行くと、ローカルな、コンビニっていうよりスーパーに近いものがあった。そこで私たちはおにぎりとお茶を買って、近くの公園のベンチに座って食べた。

 木のベンチが二つと鉄棒とジャングルジム、あとは桜の木だけの公園。茶色の葉っぱが、風に揺られて微笑みながら落ちていく。

「あ、違うよ、開け方めちゃくちゃじゃん」

「うるせー。食べられればなんだっていいだろ」

 長之助君は手の平を米粒だらけにして、あっという間におにぎり三個をたいらげた。

「おいしい」

「コンビニのだろ」

「でも、外で食べると何倍もおいしいよ。どうしてだろう」

「景色が違うと気持ちも新しくなるんだよ。同じ景色ばっかり見てたら飽きるだろ」

 昼間の誰もいない静かな公園に、その言葉は余韻を残して消えていった。そのあとにはただ風の音と、それに乗って落ちてゆく秋色の葉っぱだけ。天国がもしあるなら、こんなところじゃないかって、不意に思った。

「基本的なこと聞くの忘れてた!長之助君って何年?どこの高校?」

「雪代高校二年」

「雪代?って遠いじゃん」

 私が住む街からバスで一時間もかかる。

「家は?どこから通っているの?」

「玉前」

「あ、じゃあ隣だね。私と家は近いんだ。そっか、だったらここまで三十分くらいだもんね。でも毎朝一時間半の往復はきつくない?」

「そうでもない。バス、好きだし」

 そっか、私が乗るバス停が乗り換え駅だったのか。

「逆上がり競争しようぜ」

「まだできるかな。最後にやったのは、小学生の頃かもしれない」

 どうやるんだっけ、って黒く錆びた鉄棒の持ち方で悪戦苦闘していると、もう隣では長之助君がくるくると器用に鉄棒と遊んでいる。悔しくて鉄棒に向き直った。冷たい、鉄の匂いと感触。ぎゅって握った時の力強い感じ。そうだ、こうやって足で反動をつけて、腕に瞬時に力を込めて、足を垂直に蹴り上げればいいんだ。

そして、真っ逆さま。桜の木も、長之助君の顔も、青空も。自力で風を起こしたという確信をつかんで、私は鉄棒を離した。

「花柄」

 放心状態の私に長之助君が放った一言で、思いっきり我に返った。

「ぶつこたぁねえだろ、ぶつこたぁ」

「そっちの方がガキじゃん。このエロガキッ」

「見せたのはそっちだろ」

「見せてないし」

 公園をあとにして、次の目的地へと。少し先を行く長之助君の、白いシャツを見つめながら歩いた。今日は、時間がずいぶんゆったりと流れている気がする。

「こういうのって、現実逃避なのかなあ」

「何で」

 私を振り返って、少し歩みを遅くして私に並びながら長之助君は言った。

「だって」

「やってみるまで思ってなかったか?逃げることの方が勇気いるって」

 確かにそうだ。私はずっと一方向しか見ていなかった。そこからはずれてしまうのが怖かった。置いていかれるのが、心底。

「だから仮病を使えって言っただろ」

「あー、けびょうってそのことだったんだ。毛の病だと思って意味がわからなかった」

「はあ?十円ハゲのことじゃねーぞ」

 気付くと、蒼天はだんだんと朱色に染まり始めていた。音もなく、高い空を羊雲が流れてゆく。そこかしこから虫の声が聞こえだす。風が冷たくなってきた。

「寄っていいか」

 長之助君が、商店街の入り口を指差した。

「本屋さん?」

 長之助君のあとに続いて店の中に入ると、人が一人、やっと通れるくらいぎゅうぎゅうに置かれた棚の列。その中には、洋書ばかりが詰め込まれていた。古い本特有の、チョコレートみたいな香ばしい匂いが鼻をついた。店の奥には、眼鏡をかけた白髪のおじいちゃんが置物みたいに座っていた。

「何か買うの?」

 手にした一冊の本に目線を落とすと、長之助君は静かにそれを開いた。

「・・・きれい」

 その本は、空ばかりを撮った写真集だった。早朝の張り詰めたような空、カモメが舞い飛 ぶ真昼の空、細いレンズ雲が浮かぶ秋の空、入道雲が一面を覆っている夏の空、水平線までオレンジに染まった夕暮れの空。いくつもの空がそこにあった。見つめていると、まるでそこに立っているような気分になる、リアルな空たち。

「いいだろ、これ。近くに来ると必ずここに寄って見ていくんだ。買いたいけど、高すぎて買えない」

 値段を見ると、私の二ヶ月分のバイト代くらいだった。長之助君は自分のもののように大切そうに本を閉じ、人が見えないような隅っこにその本を隠した。

「いつか、買うことができたら、見せて」

 長之助君は、嬉しそうに目を細めてうなずいた。外に出ると、夕空は鮮やかな紅に染まっていた。真上をトンボの大群が通り過ぎていく。空のてっぺんがもう紺に染まり始めていた。

「もう、夕日が沈むね」

 長之助君は黙ってそれらを見つめていた。私も同じ空を見つめた。このままずっと見つめていたいとさえ、思った。

「お前は気付かないんだな」

「何を?」

 バス停へ戻る道の途中で、長之助君は突然言った。

「高校に入学してからずっと、同じバスを使っていたこと。だから、俺はお前を初対面だとは思ってない」

「え?あー・・・そっかそっか、そうなるよね。時間はともかく、あのバス停で乗り換えないと雪代高校まで行けないもんね」

「やっぱり気付いていなかったのか」

 つぶやくように言った。何だか寂しそうだった。だから私も寂しくなった。 長之助君は私の存在に気付いていてくれたのに、私はバスの中で一体毎日何を見てきたんだろう。半分寝ているみたいな頭で、きっと何も見ていなかった。何も見えていなかった。

 二人でバスに乗って、来た時と同じ一番後ろに座った。バスの中は私たちしかいなくて、もう、これから帰るのだということを印象付けられた。窓の外はもう、夜のカーテンが閉まり始めていた。

「一番星」

 私が指差した星を見て、そして二つの視線が一つに重なる。

「長之助君、もう一回聞くよ?どうして時間を割いて、私をここにつれてきてくれたの?」

「時間を割いているつもりはない。俺がお前とここに来たいと思った。ただそれだけだ」

「話したこともない私を?」

「時間は逃げないから」

「長之助君は、明日が不安になることはないの?」

「あるよ、そりゃあ。でも、そしたら寝る。寝て明日にすぐ行く。不安になってる時間って、一番無駄って思うから」

「何型?」

「B」

「やっぱり。あ、玉前だよ、長之助君」

 私が肩を揺すっても、長之助君は降りようとはしなかった。ただ、うるせえ、ってつぶやいただけで。

「うわ、長之助君見て見て、おっきなお月様!今日って十五夜だったんだねえ」

 徐々に暗くなっていく空と、徐々に光を増す星々。そして、金色に満ちる月。

 長之助君は指でわっかを作って、そこから月を見て、

「俺のもん、って感じだろ」

 って言いながら笑った。うん、って私も笑った。その時、急に、本当に急に切なさがこみあげてきて、泣きそうになって、眉をぎゅって寄せた。それなのに、バスは乗ってきた場所と同じところで、同じ音をさせて、止まってしまった。

「降りるぞ」

 バスから降りると、もう外は夜だった。家々の窓には明るい照明がつき、夕ご飯の匂いや、お風呂の音が漏れてくる。

「冷えてきたね」

 長之助君は何も言わない。それが冷たさじゃないってこと、もう知ってる。今日という時間が、急速に私たちを近づけたのに、また、急速に離してしまう。私たちは、波間に揺れる貝の欠片だ。

 歩道橋の真ん中で、長之助君は立ち止まった。つられて私も立ち止まった。橋の下を、ヘッドランプとテールランプが過ぎ去っていくのを、少しの間見つめた。寂しかった。ただ、寂しかった。

「お前は知らなかったかもしれないけど」

 ずっと黙っていた長之助君が、急に口を開いた。私はカーランプの天の川を見つめたままの長之助君を見た。

「俺は毎朝、お前を見てた」

「・・・それって、もしかして」

 長之助君は黙ってうなずいた。

「ストーカー?」

 あたしが言うと、長之助君はがくっと欄干に手をついたままひざを折った。

「ふざっ、ふざけるのもいい加減にしろっ」

 長之助君は真っ赤な顔をして、両手をふるわせてぷるぷる震えている。

「何で怒るのー?私は嬉しいんだよ?長之助君みたいなかっこいい人が私のストーカーになってくれて」

「お前は絶対何か間違ってるっ」

 そう言って長之助君は額を押さえてうなった。

 ピピピピピピッ

「あ、誰だろう、バイト先からだ。出るね。はい、もしもし」

「店長です。急だけど、今からバイト入れない?」

 ちらっと長之助君を見ると、けびょう、と口を動かした。

「すみません、今日体調悪くて学校も休んだので、ちょっと無理です」

「そう・・・そうね。あなた最近ずっと元気なかったものね。ゆっくり休んでね、シモツケさん」

「あ、はい」

 プチ。

「やっと店長が私の苗字覚えてくれた!」

「どうでもいいじゃんそんなこと」

「聞きなれないんだもん、シモノって」

「俺にはシモツケの方がずっと聞きなれないぞ」

「あ、今度バイト先に来てよ。こっそりサービスしてあげるよ。えっと、あそこに市民体育館見えるじゃん?あの斜め前の建物」

「何屋?」

「ファミレスだよ。ちょっと変わった」

「ちょっと変わった?」

「ちょっとだけだから大丈夫。長之助君はバイトしてるの?」

「地元の図書館」

「遊びに行き甲斐のないバイト先だね」

「いいよ、来なくて」

「えー、そう言われると行きたくなる」

「お前なあ、いい加減気付けよ」

 長之助君が怒ったようにそっぽを向いた。その後ろに、屋根の合間から満月が昇っていくのが見えた。

「俺は、お前がっ、」

 ピピピピピピッ

「あ、家からだ、ちょっと待ってね。うん、今日は家で食べる、うん、お腹すいたからいっぱい食べる。桃太郎は?あ、うううんいいの、わかった。はーい。ごめんごめん、で何?」

「もういいっ」

「何で涙目なのー?」

「うるせー、お前なんかお前なんかっ、好きだっ」

「へ?」

「そんな目で見るなっ」

 何だかわけのわからないうちに、愛の告白をされてしまった、らしい。今度は、それを聞いてしまった私の方がしどろもどろだ。

「わかってる。いいよ、これから俺のことをどんどんザクザク好きになればいい」

「ザクザクって・・・宝探じゃないんだから」

 長之助君はやっと立ち上がって、制服のほこりをはらった。

「でも、嬉しいよ。とっても。ありがとう。びっくりしたけど」

「言わないでおこうと思ってたのに」

「大丈夫、私も多分好きになるから」

 長之助君は、目を見開いてそして凄い速さでそっぽを向いた。照れ屋なんだ。こんなにかっこよくって、もてるんだろうに、私のことなんか好きになっちゃって。ねえ。

「お、潮の匂い」

 長之助君が、くんくんと鼻を鳴らした。私も真似して少し上を向くと、夜風の中に微かに潮の香りを感じることができた。

「また、連れてってね」

「まかせとけ」

 そして私たちは、織姫と彦星みたいに、橋の両端に別れた。でも、次に会えるのは一年後じゃない。

「バイバイ、明日ね」

「おう、明日な」

 満月が、私たちの道を照らしている。どこにいても、きっと同じお月様が、私たちの上にはある。そう思うと、明日という繰り返しが、なんだかとっても楽しみに思えた。


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