夜が始まる
おひさまがみえなくなるよりも ほんのすこしまえに パーティははじまりました。
ムタは おきゃくさまをもてなすのに おおいそがしでしたが そのことを ちっともたいへんだとはおもいませんでした。
クチナワが起きるかもしれないことが とてもうれしかったのです。
だれもが このパーティはうまくいく そう思っていました。
実際、鍋に火を灯すまで、すべては順調だった。
僕は最初、鍋の具材もこっちで用意するつもりだったのだが、「足りるかアホウ」とゼンマイに叱られ、「参加料の代わりに、一人一つ具材を持ってくること」というタリカの案を取ることになった。
意外にも、彼の案はすぐに受け入れられた。あまつさえ、「持ち寄った具を鍋に入れるかどうかは、私が判断する」という主張さえ認められ、僕はかなり驚いた。
「これが詩人としての私の実力だぜ」
「でも、詩と鍋にどういう関係があるってのさ」
「細かいことを気にするんじゃあない」
そういって、あくまで優雅に笑って見せ、鍋の台座の前で、持ち込まれた具材を評価するタリカの姿に、僕は首をひねっていたが、ゼンマイは馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな様子で、二、三度首を振ると、
「詩人としての実力じゃあない。あいつの、酒飲みとしての実力のためだ」
「どういうこと?」
「あいつ、かなり料理ができるんだよ。酒に合う奴限定だけどね。うまい酒にはうまい料理っていうのが、あいつの人生哲学なんだってさ」
今日の鍋は塩辛くなるな、とぼやいてから、ゼンマイは台座のそばに屈みこんだ。
「それよりムタ、君がぼーっとしてていいのかい。お客さん、待ってるみたいだけど」
良いわけがなかった。自分から会を開いておいて、お客様に何かあれば、それは当然僕の責任になり、その過失はそのままハルシア家の名誉を損ねることになる。僕は必死に働いた。
とはいえ、タリカはこういった宴会の作法や進行を完璧に心得ていて、その実力を存分に奮っていてくれたので、僕のやることと言えば、来訪客に挨拶をして、名簿に名前を書くくらいだったけれど。
騒動が起こったのは、あらかたの具材を鍋に入れ終えた頃だった。
僕とタリカが、紅腕烏賊や行燈鮪のつみれなど、長く煮ると風味が損なわれてしまう(タリカ曰く、そうらしい。僕は全く知らなかった)具材を別の皿にまとめていると、不意にぱあっと背中の方が明るくなったのである。
ぎょっとして振り返った僕らの目に映ったのは、台座の中で吹き上がる炎と、その中にまざまざと浮かび上がる、紅蓮の髪をした女性の姿だった。
「こんなに面白そうな会を開いておいて、どうしてあたしを呼ばないのよッ」
○
より正確に言えば、僕らは彼女を呼ばなかった訳ではない。ただ、彼女の目の届きにくいところに、鍋会のお知らせが張られていただけだ。なんといっても、ポスターを張ったのはタリカなんだから。
けれども、そういった言い訳を彼女が聞き入れるはずもなく、台座から飛び出さんばかりに膨れ上がると、火の悪魔は一気に不満をまくし立てた。
その熾烈さはすさまじく、なるほどタリカが彼女を避けるのも無理はないと思った。体だけではなく、言葉にも烈火が宿らんばかりというほどの強烈な口撃は、主にタリカに向かって放たれた。
対するタリカも、詩人の本領発揮といったところで、炎で出来た槍のような数々の言葉を、華麗にいなし、受け止め、捻じ曲げたり引用したりして、言葉の意味は分からないながらも、なんとなく綺麗で美しく、それでいて人生の役に立つようでもありそうでもなさそうな、とにかく耳に快い何かにすばやく変形させて見せる。その間に立ち入れる者は誰一人おらず、両者の実力は、完全に拮抗しているように見えた。
けれどもそのうち、徐々にだが、タリカの方が押され始めた。火の悪魔が勢いを増すごとに、台座の上の鍋も煮立つので、彼女がどれくらい勢い付いているかは、周りにも一目で分かった。
そのせいか、鍋会に来た客は、これを一つの催し物として見ている節があって、中には火の悪魔が勝つか、タリカが逃げ切るか、賭けを始める者もいた。
当初、僕は水か何かを被ってから、二人の間に割って入るつもりだったが、あまりにも火勢が激しいのと、そろそろ雪の積もり始めたこの季節の水を頭から被ることに気おくれしていて、なかなか手が出せないでいた。
けれども、火の悪魔が何かを叫ぶたびに、ぼこぼこと美味しそうな匂いを立てて沸騰する鍋の様子を見て、タリカがかなりの劣勢に立たされていることを知ると、矢も楯もたまらず、水入りのバケツを取りに行こうと、台所へ足を向けた。
「ちょっと待った」
途端、襟を後ろからぐいと引っ張られ、カエルが首を絞められたかのような「ぐえ」という声とともに、僕はバランスを崩して倒れた。
ゼンマイは僕を転ばせたことを気にする様子もなく、ひょいと上の方を指した。ちょうど、クチナワの寝室の辺りだ。
「うまくいけば、あと少しでクチナワ嬢の目が覚めるよ」
「本当かい?」
思わず飛び上がりかけたが、考えてみれば当然である。今や屋敷の温度は春を飛び越え、真夏の盛りを何倍にもひどくしたかのような、とんでもない暑さになっていた。辺りに置いた螺子巻太陽草は今や完全に開花し、鮮やかなオレンジ色の花弁を、誇らしげに見せつけている。
「うん、予想よりもだいぶ早かったけど、この熱量なら十分だろう」
「そりゃ早くもなるさ、あんな大喧嘩が起こるなんて……」
「喧嘩自体は予定通りだよ?」
「なんだって?」
思わず耳を疑った。呆気にとられたままの僕に向かって、ゼンマイは落ち着いた様子で言葉を続ける。
「魔法陣にわざと隙間を作っといたんだよ。彼女みたいな火の悪魔でも入り込めるように。本当は、彼女の目に留まりやすいところにポスターを貼り付けようとも思ったんだけど、そこまでしなくても、十中八九彼女はやってくると思ってた」
「わざと、って、何もわざわざそんなことをしなくても」
「常識的な熱量じゃあ、クチナワ嬢を起こすのには足りないからね。欲を言えば、後もうひと押し欲しいんだけど……」
「無茶言わないでよ、今だって干からびちゃいそうなくらい暑いのに……だいたい、いくら温かくしたいからって、何もあんなに仲の悪い二人をぶっつけなくても」
一瞬、僕は何かとんでもなく馬鹿なことを口走ったのではないかと思った。何せ、いつも殆ど表情に変化のないゼンマイが、その時の僕の言葉に、ぽかんと口を開けたまま固まってしまったからである。
しばらくしてから、ゆっくりと口角が上がり始め、とうとう今までで一度も見たことのないような笑顔を見せて、ゼンマイは僕の肩をたたいた。
「君ってば、本当に鈍いな! それでよくクチナワ嬢と一緒に暮らすところまで持ってけたもんだ」
散々笑ってから、ふと真面目な顔に戻ると、懐の温度計をちらりとのぞき、もう一度クチナワの部屋を指す。
「さあ、そろそろお目覚めの時間だ。笑ったのは謝るけど、同じことを言ったら、クチナワ嬢もきっと笑うさ」
温度計を渡され、殆ど追い立てられるようにして、僕はドアを開け、階段を上った。
背後では、今に爆発するのではないかと心配になるくらい、鍋が煮立っていた。
○
十分に温まっているはずだが、それでもクチナワの部屋に入ると、鳥肌が立った。
螺子巻太陽草は、まだ開いていない。ということは、あれだけ温まっているにも関わらず、彼女を目覚めさせるには、まだ熱が足りないということだ。
一瞬、太陽草の鉢植えを鍋の近くまで持って行って、開花させてから部屋に置こうかとも考えたが、ゼンマイに「決して鉢植えを動かすな」と釘を刺されているのを思い出して、やめた。きちんと理由も説明されたはずだが、熱力学保存の云々といった理論は、僕には少々難しすぎた。
相変わらず、彼女は眠ったままだ。ただ、気のせいでなければ、彼女の頬に、ほんのりと朱が刺しているように見える。心なしか、呼吸も大きくなってきたようだ。彼女に蒲団を掛けなおしてから、僕は何をするということもなく、ただベッドの端に座って、彼女が目を覚ましたらなんと言おうかを考え始めた。
考えているうちに、ふと、前に僕がタリカと火の悪魔の関係について尋ねた時、彼女がただ笑っていたのを思い出した。
ゼンマイも知っている。クチナワも知っている。喧嘩が始まった際の「なんだ、またか」という雰囲気から察するに、今宵この鍋会に来た人たちも、だいたいは知っているのだろう。とすると、僕は知らないとして、タリカたちは自分たちがどういう関係だと思われているのかを知っているのだろうか。そもそも、あの二人はどういう関係だと思われているのか。
しばらくそうやって二人の関係性を考えていたが、なんだか妙に考えがまとまらないな、と温度計を見て、吃驚した。
部屋の温度は、クチナワが目を覚ますどころか、外気と殆ど変らない程度にまで落ち込んでいたのである。道理で手元が定まらない、などと言っている場合ではなく、僕は震える体を無理やり動かして、ドアを押し開けた。
屋敷の空気は、完全に冷え込んでいた。鍋の煮える音も、出汁の匂いも、何もかもが雪に吸い込まれて消えてしまったかのようだ。不意に、家族が冬眠を始めた日の朝を思い出し、僕はぞっとして、急いで階段を駆け下りた。
鍋の置いてある食堂のドアが凍り付いているのをみて、いよいよ僕の体の震えが止まらなくなった。握りはさながら万年氷のようで、とてもではないが素手では掴んでいられない。
服の袖を握りに結びつけると、えいやっと声をかけて、僕は全力でドアを引いた。
途端、真夏の台風のような、すさまじい熱気がドアから吹き出した。袖はするりとはずれ、僕はまともに吹き飛ばされて、訳の分からぬままに転がった。
○
以下は、僕が実際に見たものではなく、鍋会が終わってから、様々な人に事情を聴いたうえで、推察したあの時の場面である。
僕もクチナワも、詳しい状況が知りたくて、それはもうたくさんの人たちから話を聞き出したが、なんといっても当事者であるタリカと火の悪魔が――今はパンキライヤという名前だが――その時のことを聞きたがるのを、とてつもなく嫌がるので、細かい部分が正確かどうかは分からないままだ。ただ、大筋は外れていないはずである。
僕がクチナワの部屋に向かってからすぐ、二人の喧嘩は最高潮にまで達し、ついに決着が着く、というところで、タリカがある言葉を叫んだのだという。
パン屋の女将さんが言うには「お前なんか嫌いだ」。
酒場「金雄鶏の尾羽」の主人曰く「顔も見たくない」。
郵便配達人のルビの証言では「君のために書いた詩なんか、ひとつもありゃしない」。
どれが本当に言ったものなのかはともかく、その言葉は深く彼女を傷つけたたのだという。
粉ひき小屋のレルベは「一瞬はっとしたかと思うと、一気に体全体が真っ蒼になって、それから何も言わずに縮み始めた」という。
一方でブドウ園のルパによれば「ほんの少しの間だけ黙って、それから声も出さずにぽろぽろと泣き出した」らしい。
火の悪魔は、体全体を奮い立たせることで高熱を発することもできるが、同様に、辺りの熱を吸い取ってしまうこともできたようだ。精神的なショックを受けた彼女は、見る見るうちに屋敷中の熱を吸い取って、それでもなお「目にいっぱい涙を湛えながらも、決して泣かずにタリカを睨み付けて」いた。
タリカもまた、しばらくは黙って彼女を睨んでいたが、ややあって「ひどい悪態をつきながら」、あるいは「僕が悪かったと謝り倒しながら」彼女のもとに近づき、台座の中に入ったという。
ここから、更に話は多岐に渡り、「いきなり彼女を抱きしめて、滔々と愛の詩を詠みはじめた」とか、「何も言わずに懐から詩の束を取り出して、彼女の目の前に突き出した」とか、とにかく様々な目撃証言があったが、総括すると、どうも普段の彼からはあまり考えられないような行動をとったようだ。
彼女の行動に至っては、更にとんでもない証言が山ほどある。「いきなりタリカの頬を引っぱたいてから、同じように抱きしめ返した」とか、「小さな声で「馬鹿」と言ってから、泣き笑いを浮かべてみせた」とかいうのがそれだ。
ただ、そのあとの二人の行動は、皆口を一つにしてこういうのである。
「タリカが鋏を取り出して自らの髪を切り落とし、それを彼女に渡した」
「彼女はそれを受け取って胸に当て、髪を燃やし尽くしてしまうと、にっこりとほほ笑んだ」
「途端、彼女の体が爆発的に広がり、屋敷全体が一気に温かくなった」
そして、その熱波に吹き飛ばされた僕は、食堂のドアの外でひっくり返っていた、というわけである。
○
訳の分からぬままに転がっていた僕を助け起こしたのは、にやにやと笑うゼンマイだった。
「予想以上の大成功だ」
「いったい、なにが、あったって、言うんだ」
あまりに驚きすぎて、一度に言葉が飛び出そうとするのをなんとか抑えながら、僕は途切れ途切れにそう尋ねた。
「後で本人たちから聞くのが一番さ」
もっとも、奴ら、絶対素直に話したりはしないだろうけどね、と笑ってから、
「さあ、温度は完璧。雰囲気も上々。料理は最高。後は主役を待つばかりだ」
「主役?」
「君とクチナワ嬢に決まってるだろ」
何を今さら、と口をとがらせる。
「もう起きてるのかい」
「うん、だから早く迎えに行った方が良い、とは思うが」
そこでしげしげと僕の格好を眺めて、
「しかし、君はなかなかひどい恰好だな。早めに着替えた方が良いと思うよ」
言われて見てみれば、なるほど吹き飛ばされた勢いで、もともとくしゃくしゃだった髪の毛は、とんでもない方向へ爆発し、服の袖はよれよれのびしょ濡れ。とてもではないが、久しぶりに彼女の前へ出る、と言う格好ではない。
「ああ、確かにこりゃあ不味いや。急いで着替えてくるよ」
大急ぎで階段を上ろうとして盛大に踏み外し、何度も転びそうになりながら走り出す僕を、ゼンマイは笑いながら送り出した。
「まあ、そこまで急ぐこともないさ。なんてったって、夜が始まるまでは、まだ時間がある」
「随分気障なセリフだね」
浮かれた僕がそういい返すと、ゼンマイは「タリカがパンキライヤに言ったセリフさ」と言った。
「パンキライヤ?」
「火の悪魔だよ。あいつ、悪魔に名前を付けやがったんだ」
尚もゼンマイは笑っていたが、僕は「夜が始まる」という言葉を、何度も何度も繰り返した。
「夜が始まる」
僕はその言葉を、目を覚ました彼女にかける、最初の言葉に決めた。




