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物語論Ⅰ:具体テキストと抽象テキスト/他者論Ⅰ:読者とは誰か?

 この一連の話も、そろそろ佳境に差し掛かってきたかもしれません。

 早いですね。もともとあまり実がないとも言います。

 前々回は、「意味が広すぎる」言葉を消して、具体的なイメージを喚起させるようにしよう、というお話をさせていただきました。その際、じゃあ「具体的」とは何かという話をします、という予定だった前回は、結局「物語とは変化である」という話に終わってしまった。そこで今回は、「読者とは誰か」というトピックについて話すよう書いてある。

 しまった。ごめんなさい。なんか、いろいろ無茶苦茶ですね。

 いえいえ、でも、この二つは確かに両方今回でお話させていただくのです。

 今回の話の中心、それは「具体テキストと抽象テキスト」です。その観点から、「読者とは誰か」という問題についてお話させていただきます。物語論、他者論にまたがるわけですが、話題としては同根です。


 さて、それでは話を進めていきましょう。

 具体とは何か。

 それは、「実際に触れることができるもの」です。

 

 そして、抽象とは何か。

 それは、「実際に触れることができないもの」です。


 というと、やはり例によって定義が単純すぎます。

 でも、私たちは別に哲学をやるわけでもないんだから、これで十分です。


 こんな場面を想像してください。

 飲み会でもパーティでも何でもいいので、一人の見知らぬ男が近づいてきて、いきなりこう自己紹介する。「俺は、愉快な人間だよ」と。

 あなたはどう感じるのでしょうか。「こいつ、初対面でいきなり何言ってるんだよ」と気分を悪くするのが、大方の反応ではないでしょうか。

 何故、あなたは彼の言動を不快に思うのか。その理由は簡単です。

 彼は実際に、行動をもって「愉快な人間」であることを示していない。つまり、「愉快な行動」を見せずに、「行動が愉快」であると語っているわけですね。「自分が面白いという前に、面白いことを一個ぐらい言ってみろよ!」ということです。

 そして、ここで「俺は、愉快な人間だよ」といった彼の心情を少し邪推してみましょう。彼は、「愉快な行動」を具体的な姿を示すことなく、「行動が愉快」であるという自分の<設定>をあなたに押し付け、そのように取り扱うよう、あなたに暗に要求したわけです。そりゃ、むかつくよね。何様なのだ。

 だから、私たちはふつう、初対面の人間に対して「俺は、愉快な人間だよ」とは決して語りません。礼儀として、です。

 

 つまり、<設定>とは<行動>があってから成立するものだということです。決して、<設定>があるから<行動>があるのではない。

 私たちはふつう、行動に先んじて設定を押し付けるようなことはしません。しかしながら、小説においては、簡単にその過ちを犯してしまう。


 今、ここで一つ、重要なたとえをします。

 この一連のテキストで、幾度となく繰り返される定義です。


 小説を書くとは、誰かに話をするということです。


 もちろん形態は文字であっても、誰かに話をするということです。

 なんて、そんなの当たり前じゃないか。そうです。当たり前なのです。

 しかし、「書く」ということのボッチっぷりは(あの長ったらしいイントロダクションで書いた通り、「書く」ということは基本的に孤独の作業なのです)、しばしばその「誰か」を忘れさせてしまう。

 いいえ、たとえ意識していたとしても、本当に相手と「話す」ときのようにはなかなか認識出来ない。

 そのために、私たちはたとえば、こんなキャラクターを、突然に出してしまう。

 「彼は誰よりも愉快な男だ」。


 もちろん、そういう設定が悪いわけではありません。

 「俺は、愉快な人間だよ」といったさっきの彼に、あなたは一瞬、変なやつだなと眉をひそめながらも、少しは話してみようと立ち止まります。

 「ほらね」と、彼が何か素敵な冗談を飛ばしたり、愉快な振る舞いをしたならば、別にあなたは気にならないはずです。

 あ、本当に面白いんだ、この人。

 自分から言い出すのは自信過剰な気もするけど、まあいいか。


 今回の話の肝は、こうです。

 具体テキスト(行動)は、抽象テキスト(設定)に先行する。 


 たとえば「彼は世界最強の魔王」。という設定があったとして、別にそれは悪くありません。

 でも、もし彼がその実証をしてくれないのならば、つまり「俺は世界最強だ!」と飲み会で行ってきた魔王がそのまま何もせずに通り過ぎてしまったのなら、あるいは突然にその日常の話をし出したなら、あなたは間違いなく、こいつ頭おかしいだろ、と思うはずです。

 そこで何らかの異能を出してきたり、あるいは華々しい栄光の話をしてくれたなら、まだしも。

 いいえ、逆にいえば、その話をすればいい。

 そうしたら、ちょっと順番は変だけれど、納得はしてもらえるでしょう。

 それに、一々相手の言動や立ち振る舞いから「彼は世界最強なんだな」と判断するのも、面倒だし。そんな暇、忙しいあなたには無いはずです。

 だから、本当は設定(抽象テキスト)は行動(具体テキスト)の積重ねの果てにあるはずなんだけれど、この順番を逆転して、あとで行動で示してもいいはずです。


 さて、ここまでは「抽象テキスト」の一例として、「設定」の話をしました。しかし、実はこの話題はこれだけに留まる話ではありません。

 前回述べた「ふつう」の話、そして前々回の「イメージの広さ」……そちらにもつながる話です。

 どういうことか。


 前回、「悲しみ」や「嬉しさ」といったふつうの感情とは、考えられないと言いました。それは何故か。あそこでは、「ふつうの中にいる人間は、ふつうのことを外から考えることは出来ない」としましたが、理由はもう一つあります。

 突然「嬉しさって何?」「悲しさって何?」と聞かれても、その感情が表す意味が広すぎるのです。つまり、前々回の「イメージの広さ」です。

 嬉しさといっても、色んな嬉しさがある。その中のどれかなら答えられるかもしれない。しかし、それを全部まとめたうえで、何らかの意味を答えるよう求められて、果たして可能でしょうか。

 「悲しいとは悲しいことだ!」としか返しようがないのではないですか。


 ですから。

 私たちは「出来事の悲しさ」を最初から狙うべきではないのです。なぜならば、「悲しさ」とは、触れられないから。触れられないとは、正確には「解釈できない」ということです。

 それ故に、私たちは「悲しさ」を説明出来ない。

 それではどうすればよいか。

 「悲しい出来事」を書けばよいのです。つまり、具体テキストとしての「出来事」から、抽象テキストとしての「悲しみ」を作りだせばいい。


 「悲劇」とは、「悲しみ」の劇ではありません。

 あくまで悲劇とは、「悲しい事件」の劇であるはずです。


 同じようによく、抽象テキストに留まってしまうのが、たとえば「愛」です。

 「愛」とは、これもまたやはり、触れられないもの、解釈できないものです。

 言い換えるならば、「愛」とは、個々の「愛したこと」から得られる抽象的な言葉でしかない。つまり、「愛」を書くには、まず「愛したこと」を書かねばならない。 それは、何らかの献身であるとか、恋文を書くであるとか、もちろん性的な関係を結ぶということもそうです。そうした「愛の行為」があって初めて、「愛」は成立する。


 これは別に恋愛関係に限らず、「親の愛」もそうです。「親の愛」を、ふだんから感じている人は、いないのではないでしょうか。

 何らかの行動があったとき、「ああ、自分は愛されているなあ」という気分になる。それが何回も引き続いた結果として、「自分は愛されている状態にある」という感想を持つに至るのではないか。


 あなたの小説を初めて読む人は、この一番最初の「何らかの行動」なし(具体テキスト)では、何の感情(抽象テキスト)も実感できないのです。

 ですから、「俺は愉快な人間だ!」とか、「俺は世界最強だ!」とかは勿論、具体的な「悲しい出来事」がなければ、「悲しみ」は理解出来ないのです。


 川上弘美という小説家に「センセイの鞄」というベストセラーの恋愛小説があります。読んでみれば解りますが、実に細やかな行為の話を書いているのです。

 相手の男と鍋を食ったとか、旅行したりとか、添い寝したりとか、細々と「二人の行為」を書き続けている。この小説には、たぶん「愛」などという言葉は出ていません。しかし、そういった「愛の行為」を積み重ねることで、他ならぬ「愛」を現出させている。だから、「センセイの鞄」は恋愛小説として成立しているわけです。


 「愛」の話をどうしてわざわざするのか。それは、「愛」すなわち「他者」の問題は、小説を書くうえで避けては通れないからです。

 小説を書くうえでの「他者」とは何か。それは言わずもがな、「読者」です。


 あなたの「読者」とは誰ですか、というとき、あなたは名前をいくつ挙げられるでしょうか。この「小説家になろう」というサイトは、奇跡的なほど交流が成立しているので、おそらく「読者」とはよくコメントをくれるお気に入りユーザーさんや、メッセージをやり取りする誰かであるのでしょう。

 もちろん、そういう営為は否定しません。

 いいえ、むしろ私は、そういうこのサイトが、結構好きです。


 どういうことか。

「読者」とは、その言葉だけではあいまい過ぎる、抽象テキストだということです。「俺の小説には読者がいてさ」という発言には、こういう返答が可能でしょう。「その読者って、誰だよ」

 さっき、小説を書くとは人に話すことだと、書きました。

 それでは、その「人」とは誰なのでしょうか。


 私は、この「人」には、具体的な名前があらねばならないと信じています。常に読んでくれる誰かでなくともよい。たとえ読んでもらえないとしても、「この人に読んでもらいたい」という感情があったほうが、よいのではないか。

 なぜなら。もし、具体化されないままの「人」だとしたら、それは結局自分の話を聞いてくれる「都合のいい誰か」に過ぎないかもしれないからです。

 それでは、あなたがするのは所詮「都合のいい話」に過ぎないかもしれない。「都合のいい話」とは、お手軽に、何度でも出来る話のことです。


 もちろん読んでくれるかもしれないけれど、その「誰か」はいつまでたっても現れないかもしれない。その「誰か」とは、触れることの出来ない存在、つまりは、抽象テキストです。

 その解りもしない「誰か」に、何をどう伝えればいいというのでしょうか。駅前のストリートライブは、孤独です。彼らは、伝えるべき具体的な「相手」を持ち合わせておらず、抽象テキストとしての「誰か」を待ち望んでいるだけです。だから、ライブハウスが儲かる。「聴いてくれる誰か」が、今、そこに居る。 それはまだ、名前を知らない誰かかもしれないけれど、とにかく具体的に今、目の前に、触れられる距離で、「聴いてくれる誰か」が、居るのです。

 

 少し言い方は過激になりますが、その「読んでくれる具体的な誰か」にさえ伝えられていない小説は、一体何なのでしょうか。私たちが相手の話を聞けるのは、つまり会話が成立するのは、むこうにこちらへ話したい、という意志があるからではないでしょうか。

 それでは「読んでくれる誰か」に伝わるだけで終わるのかもしれない、と思われるかもしれない。

 いいえ。そんなことはありません。

 その「具体的な読者」への熱意が十二分にあれば、「誰かに伝えたい」という思いがあるのならば、思わず振り向いてしまうのではないでしょうか。

 ストリートライブの話をしていたから、駅前で考えてみましょう。バスが来るのを待っていたあなたの後ろで、「好きです」という告白の言葉が聞こえてくる。その返答がどうあれ、その調子が真剣ならば、あなたはつい聞いてしまうのではないでしょうか。

 それは、告白が恋愛という特別な感情の行為だからではなく、告白が「他者」に伝える意思を強く持ち合わせているからです。

 あなたは、決して「好きです」と伝えられる当事者ではない。

 しかしそれでも、「好きです」という言葉から始まるその会話に、つい耳を傾けてしまうのではないでしょうか。


 極論するならば、「人に話を聞いてもらう」とは、「好きです」と告白することです。たとえばフランスの小説家でバルザックという人が居ますけれど、献呈先に恋人が多いのです。

 「谷間の百合」という傑作があります(本当に素晴らしい恋愛小説です)。

 これは、ある恋人に捧げた「手紙」という形式を取っているのですが、実際にその献呈先は、小説家自身の恋人であるわけです。いわばこれは、最初から小説家自身が、その恋人のために書いた作品なのです。

 にもかかわらず、その小説は、その恋人ではない私にも読めてしまう。

 もちろん、恋愛感情でなくて、友愛感情でも同じことです。優れた小説の多くに、具体的な名前の献呈先があるのは、私はそういう理由からだと思っています。

 相手が誰であろうと、「伝えたい」という意志を持つ人の話に、私たちはつい耳を傾けてしまうのです。そしてそれだけの意志を持つためには、「聞いてくれるかもしれない誰か」ではなく、具体的な「読者」が必要です。

 ですから、最後に繰り返します。


 具体的な「読者」を持ちましょう。

 「読んでくれる誰か」の名前を、挙げられるようにしましょう。


 そうした具体的な「読者」があって初めて、私たちは抽象テキストとしての「読者」を考えることが出来るはずです。それでは、「聞いてくれるかもしれない誰か」に向けて話すことが無駄かといえば、もちろんそんなことはありません。

 この具体的な読者に向けて書くということと、抽象的な、「読んでくれるかもしれない」という読者に向けて話すということを、「話す」という喩えに乗っ取って、簡単に言い換えてみましょう。


 具体的な読者に語りかけるとは、「聞いてもらう」ことです。

 つまり、告白を考えてください。「好きです」という告白は、相手が立ち去った瞬間に、意味を持ちません。具体的な読者に語りかけることには、そういう怖さがあります。言い換えれば、「相手に気に入ってもらうように話す」ということ、「他者のために話す」という事態が起きます。これは、はっきり、不都合です。「相手に合わせる」というのは、お手軽に、何度でも出来るようなことではないからです。

 そしてその分だけまた、「新しい話をする」可能性を持っています。


 一方、抽象的な読者に語りかけるとは、「聞かせる」ということです。スピーチ、講演です。先程ストリートライブの話をしましたが、「誰でもいい相手」を、とにかく自分の魅力をもって引きつける。こちらから相手に近付くのではなくて(「聞いてもらう」)、相手をこちらに近づかせるのが「聞かせる」ということです。

 そしてこの話は、先程にすでに述べたように、実は「都合のいい話」をするに留まる可能性があるのです。都合のいい話という表現は少し大げさなので、「古い話」といいましょう。つまり、どこかで十分に考えた話、自分が既に過去作り上げた「古い話」をするのが、スピーチのはずですね。


 つまり、私たちは、有限の読者を想像すべきか、無限の読者を想像すべきか、という問題があるわけです。特定の誰かに伝えるように書くべきなのか、それとも特定ではない誰かに伝えるように書くべきなのか。

 前述した通り、特定の誰かに伝えるように書くということは、それだけの具体的な意志を獲得できるということです。

 自分のよく知らない人間に向かって語りかけることは、それだけで疲弊します。駅前のストリートライブをもう一度考えてみてください。だからこそ、そこでは得意のナンバーだけを演奏するはずです(「古い話」ですね)。

 つまり、特定の誰かに伝えるように書くことは、自分のモチベーションも保ちやすいし、その人以外に伝わる可能性もあるのです。

 しかしながら、当然問題はあります。その人以外に伝わるのはあくまで「可能性」であって、逆にその人にしか伝わらないかもしれない。畢竟、有限=具体的な読者を想像するということは、「狭い」のです。


 それでは、無限の読者を、聞いてもらえるかどうか分からないという憂鬱さとともに引き込み続けるのか。それは逆に、「広すぎる」のです。

 さらに、前々回で言った通り、「意味が広すぎる」。みんなを引きつけるように書くということは、みんなに意味が通じるように書くということです。

 その結果として「誰もが意味を理解し、否定することができないが、意味のない話」になる危険性さえもが、ここにはあります。


 あるいは、「伝わらない」可能性から考えてみましょう(「病者の光学」ですね)。

 

 「特定の人にさえ伝えられればいい!」という人は、さっきと矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、「別の誰かが偶然聞く」という可能性を忘れています。 つまり、「特定の人」を志向した話は、「正しく」聞いてもらえる確率は、高い。「好きだよ」と告白されて、「え? どいつのこと?」と返す人はいません。「あなた」に決まっているのです。そしてその意味も、もちろん「好きだよ」に決まっています。

 しかしながら、「別の誰かが偶然聞く」という可能性がある。そして、その人が「え? もしかして俺のこと好きっていったの?」という勘違いをするかもしれない。

 ちょっと変な話ですが、ここには、「特定の誰か以外には、正しく伝わらない」可能性はある。さきほどの「狭い」と同じですね。


 それでは、「伝える人をどんどん増やしていきたい!」という人はどうなのでしようか。

 これもまた、おかしい。

 そういう人々は「そもそも伝わらない」可能性を忘れているのです。誰か一人、具体的な読者にさえ伝わっているかも解らないのに(つまり、スピーチをしていて、誰も聞いていなければ、そもそもそれが「伝わる」可能性のある話なのか、よく分からないわけです)、「読者」を想定したところで、やはり、何かが足りないのです。


 それでは、「具体的な読者」を踏まえつつ、「抽象的な読者」つまり、新しい読者を獲得していこう、という両立が良いのか。おそらく、理想的にはそうあるべきです。


 しかし、本当にそのようなことが可能なのか、と考えたとき、私は立ち止まってしまいます。

 スピーチをしながら、聴衆の誰か目がけて話すなど、果たして可能なのでしょうか。あるいは、誰か目がけて話しながら、それがいつのまにか全体への語りかけになっているようなことが……。


 もちろん、そうであればいい。でも、そういう完璧なバランスを取ることは、人間にはなかなか出来ないのではないか。何故ならば、そういうバランスとは、「抽象的」なものだからです。(すでに、ここまでの話がかなり抽象的なのもあるのですが)。


 ですから、私は次の提案をします。

 私たちは時に「具体的な読者」のために書き(「新しい話」をして)、そして時に「具体的な読者」を捨てなければならない。時には、「抽象的な読者」のために書かねばならない(その新しい話を「古い話」として、語り直さねばならない)、と。

 自分に近い人々に語りかけながら、時に彼らとは異なる人々に語りかけること。

 それこそが、もっともバランスの良い「読者を考える」ということかもしれません。


 「読者」というこの言葉は、ほとんど精神論的な使われ方をしています。「読者のことをもっと考えてはどうでしょうか」という批評を、受けたことがある人は少なくないはずです。

 しかし、その人の「読者」とは誰のことなのでしょう。

 その場合の「読者」とは、「私のこと」が殆どなのです。何故ならば、人は本質的に他者にはなりえない。だから、他者と自分の思考は一致しえない。

 私たちが「読者」と口にするときも、その「読者」とは誰なのか、十二分に注意しておく必要があります。「私のこと」であるならば、そう言い切ればいい。

 そのほうが、ずっと誠実です。

 もちろん、あなたがそうしたいならば、その批判者のために「告白」として書いても良いはずです。

 そして彼が「告白」を受けとり、あなたの良い「読者」になってくれたとしたら、その次にあなたがすべきのは、彼以外の人々のために書くことではないでしょうか。

 

 かなり、曖昧な話をしてしまいました。


 具体的な話をするのがモットーのつもりだったのに、何だか根性論みたいな話になってしまいましたね。本当のところは、「どうすれば伝えられる」のを考えるではなく、まずやってみてから「伝わったかどうか」結果から判断するのが良いです。

 何故ならば「伝えられる」ということは抽象テキストであり、私たちには触れられない。私たちにできるのは「伝わるか伝わらない」それだけなのです。


 これを言い換えるならば、「私たちには書けるということはありえない。私たちには、書くか書かないかしかない」ということです。

 これは、要するに抽象テキスト(能力)に最初から触れられるということは無く、具体テキスト(行動)にしか私たちは触れられないということです。

 ここにおいて、イントロダクションの「才能を神秘化しない」と、全く同じことに相当します。繰り返しますが、私たちに関与できるのは具体的なものしかないのです。

 あくまでそこから、事後的に抽象的なものが生まれるだけです。


 次回は、特殊な例として、抽象的なものが具体的なものに先行している文章を取り上げます。具体的な名前を挙げるならば、よしもとばななの小説です。あるいは、小説の「新しさ」とは何か、という話をするかもしれません。そして「心情」とは何か。ぐらいでしょうか……たぶん! 

 今回のお話は、本テキストの中核を占める部分です。「具体テキスト」と「抽象テキスト」の話から、読者の話にまで拡大してみました。

 さて、ここでは具体>抽象であるかのように書きましたが、実はこれは容易に逆転し得る話です。「具体と抽象、どちらがエライのか?」という話は、実は過去中世の世紀から何度も繰り返されてきた。たとえば現代の哲学(の、脱構築と呼ばれる分野です)も、その繰り返しであるに過ぎない――という話が、柄谷行人「政治、あるいは批評としての広告」(「言葉と悲劇」所収)で相当明瞭に書かれています。

 面白いので、ぜひ。


 また、読者云々の部分に関しては、柄谷行人「探究Ⅰ」「マクベス論」(「意味という病」所収)内田樹「レヴィナスと愛の現象学」に多くを負っています(読者の話なんてのは全然出てきませんが、アイデアのルーツは間違いなくこれらです)。特に内田樹と「探究」の柄谷は、第一章だけでも読む価値は十分にあるので、おすすめです。

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