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文章論Ⅰ:「Think,Feel,Say,Do」を消す

 さて。

 小説の書き方「論」といってみたものの、体系的に話を進めるのがとてつもなく苦手なので、この一連のテキストは私自身が書こうという適当な順番で作られていきます。

 後で整理するかもしれません。

 適当ですね。すみません。

 

 ともかく、「具体的な話をしよう」というコンセプトなので、具体的にハウツーを話します。

 テーマは推敲です。いきなり書き終わってからの話ですね。

 まあ、どうせ「小説の書き方」論なんてものを書き初めの最初から読む人なんて居ないので、許してください。


 さて、今回の話はタイトルの通り。「think,feel,say,do」を消していく、という話です。

 日本語にすると「考える(思う)・感じる・言う・する」の四つです。

 言わずもがな、こうした動詞は小説を書くうえで避けることが出来ません。普通に書いていれば、小説を動かすのは登場人物たちの心情、つまり「考える」「感じる」であったり、登場人物たちの会話ないしは独語「言う」であり、そして行動「する」なのです。

 そうです。この四つ(実質三つ)は、「心」「言葉」「行動」という小説の基本的な三要素です。

 とはいえ、そんなことは誰にでも解っているし、問題はこれらの結びつきなのでその話については今はしません。あと、しても意味がありません。


 それらを消すとは、どういうことか。

 要するにこういった概念は、小説を動かしていくうえで極めて基礎的であり、使いやすいというよりは使わざるをえないのです。しかしながら、たとえば次のような文章はどうでしょうか。


 「どうして……、どうして……」

 先生は同じ言葉を二遍言った。私は急に何とも言えなくなった。その言葉は森閑とした昼の中に異様な調子をもって繰り返された。

「私の後をつけて来たのですか。どうして……」

 そう言う先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中には判然いえないような一種の曇りがあった。

 私は私がどうしてここへ来たかを先生に言った。


 「先生」と「私」と妙にドラマチックな雰囲気。そうです、「こころ」です。

 誰でも一度はさわりぐらいは読んだことのあるこの作品の一部を抜き出して、ちょっとグレードがダウンするよう書きかえてみました。いや、夏目漱石は名文家じゃないんじゃない――と言われるとどうなんだらふね――とぼんやり返す他ないのですが、ともかく有名なので「こころ」です。

 何が駄目か。すぐに解ります。「言う」の連発です。

 なんか、ばかっぽいね。いや、そりゃ伝わるけどさ。

 夏目漱石先生の書かれた本当に文章は、こうです。


 「どうして……、どうして……」

 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。その言葉は森閑とした昼の中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応えられなくなった。

「私の後をつけて来たのですか。どうして……」

 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中には判然いえないような一種の曇りがあった。

 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。


 解りますか。短い抜粋ですが、このシーンの核となるのは「言葉」の動作です。

 つまり、「言う」の話をしているわけですね。

 それでは、改悪後で「言う」になってしまった表現をたどると「繰り返す」「答える」「話す」。

 決して「言う」とは言わない。「言う」話なのにね。

 

 「いやいや、そんなの些末な話でしょ。それにオレ、夏目先生みたいに文学やるつもりないから」

 いやいや、そんなの些末な話ではないのです。これは、小説の文章が、どれぐらいのイメージを相手に与えられるか、いわば「文体」の作り方の問題なのです。

 「言う」と、あっさり言い切ってしまってはだめなのには、もちろん理由があります。ばかっぽいのもあるけどさ。


 それは、「言う」という動詞には、あまりに多くの意味がありすぎるということです。

「囁く」「語る」「伝える」「耳打ちする」「叫ぶ」「告白する」「話しかける」「罵る」……今ぱっと思いついたのを並べてみましたが、これらの動詞は皆「言葉」の動詞です。つまりは、「言う」という動詞より派生したものなのです。こんなに様々なイメージを、「言う」という語は同時に現し得る。

 では、何故それがいけないのか。

 それは、意味が広すぎるが故に、何も語っていないに等しいからです。


 このことは、もっと別の次元の例を考えればわかりやすい。

 たとえば、あなたが誰かと喧嘩している。あなたの主張に反論できなくなったその誰かは、「考え方は人それぞれだろ」と最後の捨て台詞を吐く。

 あなたは、たぶん反論できないでしょう。

 何故ならば、それが絶対的に正しい主張だからです。

 確かに人間みんな違う。人の考え方は人それぞれ。それでいいじゃん。


 しかし、よくよく考えてみると、おかしい。

 いやおかしくはないけど、良くない。

 

 「考え方は人それぞれだ」という意見は、この議論においては何の発展も生み出しません。つまり、何の意味もしていない。「考え方は人それぞれだ」というけれど、その「考え方」が何か、「人」とは誰かなんて全く言っていない。具体的な要素を一切入れずに、一般論として「考え方」「人」を使っている。

 つまり、この二つの言葉はすごく広い意味を持っているわけですね。

 しかし、それ故に、それを組み合わせたこの意見は正しく、そして同時に何物も意味出来ない。

 発展性がないのです。そりゃ、人それぞれだよ、考え方。そりゃそうだけどさ。


 「人はなぜエセ科学に騙されるのか」という本を書いたアメリカの科学者カール・セーガンさんが、エセ科学を見抜くコツとしてこんな話をしています。

 「反証可能性。仮説が出されたら、少なくとも原理的に反証可能かどうかを問うこと。反証できないような命題には、たいした価値はない」

 まあ、トピックはインチキ科学だけども、近い話のはずです。


 同じことが、おそらく「言う」のイメージの広さにも当てはまるでしょう。「言う」って、どんな風に言ったんだよ。全然文章から想像できないじゃん。なんだよ適当に書きやがって――という漠然とした思いを、たとえばある読者はこう表現するかもしれません。

「文章中の世界がうまく書かれていなくて、わかりにくい。イメージが目に浮かばない」


 「文章がうまい」と言われている人たちの文章を、ちょっとぱらぱらとめくってください。実は、今回引き合いに出したかったのは、津村記久子という日本の素晴らしい女性小説家の文章だったんですけど、棚から見つからなかったのでとりあえず夏目先生にご登場していただいたのです。

 それらの文章がうまいのは、別に短文だからというわけではありません(この話はまたどこか別のところでしましょう)。いや、短文なのもあるだろうけれど。

 その一つとして、文章が与えるイメージが「狭い」のです。「広い」のではありません。

 イメージが限定されているからこそ、具体的に伝えることが出来るのです。


 とまあ、当たり前の話といえば当たり前なのですが、これが結構ばかになりません。

 もし今偶然にも小説を書き終えたばかりで、かつこのテキストを読んでいるという奇特過ぎる方がいらっしゃったら、もしくはどこかの公募に出す直前で推敲中です――というやはりこれも危篤過ぎる方がいらっしゃったら、まず「言う」が出過ぎていないか、チェックしてみてください。


 同じことが「考える」「思う」にも当てはまります。「する」もそうです。

 さらに基本動詞ならどうか。「使う」「見る」「聞く」「行く」……こうした基本動詞に依存することなく、もっと具体的なイメージを与えられる、意味の狭い言葉があるならば、そちらを使ったほうが――という具合に、前準備なしに書きだすとごくごく安易に使われてしまいます――文章に具体性が増しますし、読者にも正しくイメージを伝えられるでしょう。

 

 いきなり「イメージ」などという意味の分からない言葉が飛び出してきましたが、それの定義や意味はどうでもいい。とにかく「言う」「考える」「する」といった意味の広い基本動詞を消していく。言い換えてもいいし、あるいは「言う」なんて言わなくてもいわずに、会話文だけでもいい。

 それだけでちょっと文章に色合いとか、具体性とか、リアリティが増します。

 イメージがしやすくなれば、読みやすくもなる。

 しかも、そんなに時間かかんないし。いいことだ。


 そんな言い換えの候補思いつかないってひとが普通です。むしろパラパラ一気に何個も思いつけたら変態です(経験値が高いとも表現できます)。なので、アブノーマルではないノーマルの皆さんは、まずは類語辞書(便利なものがあるのです。意味は相当するが、別の語を集めた辞書)で調べましょう。ということで、とりあえず「言う」の例(→http://thesaurus.weblio.jp/content/%E8%A8%80%E3%81%86)。

 同じ要領で、「思う」「感じる」「考える」も検索して、どれがいいかチョイスしてみましょう。


 今回はイメージの広さ、といういきなり曖昧極まりない表現をもって、「具体性」の話をしました。

 ぜんぜんハウツーっぽくないですね。ごめんなさい。

 次回は、「具体性」という観点から、物語を書くうえでの重要だと思われるポイントをいくつかまとめます。

 要はアレです、「小説を書くにはまず物語から」と色んな書き方本に乗ってるけど、「物語」って何なのよ? っていう話です。

一方で、「言う」「考える」「思う」といった基本動詞の「わかりやすさ」も無視できないのは確かです。たとえばそうした意味性の低い、曖昧な動詞を連発することで、かえって文体を特殊化している作家に、ウィリアム・サローヤン、あるいはよしもとばなな(ちょっと怪しいけど)が居るでしょう。そういう「わかりやすさ」の人たちについても、「具体性」にからめてお話します。

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