回りくどい自己紹介と、何故このようなことを始めるか
長い文章に付き合ってくださるという奇特な方のみ、下の文章をお読みください。
面倒臭かったら飛ばしてください(私なら、飛ばします)。
はじめまして。Raiseといいます。
簡単に経歴を紹介するといっても、経歴と言えるほどのものはありません。
「小説を書くのも、読むのもそんなに好きではない」という程度です。これだけではさっぱり分からないので、そのうちに小説をこちらのサイトで投稿するつもりです(もしその際は、お読みいただければ幸いです)。もう一つ付け加えていいかもしれません。私は五年間ほど、あるネット小説サイトに居ました。それから、今はとある大学の文芸サークルに所属していて、新人賞に公募して落ちたら「まあ次があるか」と強引に考え、何次選考まで通った、となればひどいぐらい喜ぶ、という小説を書く人間として果てしなくありがちな人生の軌跡を描いています。たぶん、小説は六年か七年ぐらい書いているでしょう。
六年か七年のあいだ、少しの量の小説を読み、少しの量の小説を書いてきました。
一番最初に「小説を書いてみたい」と思ったのは、O・ヘンリの「最後の一葉」でした。岩波少年文庫版で、小学三年生のときです。
恥ずかしい話ながら、紙の裏に話を書き(たしか、花屋の店員が、祖父の見まいに行く少女にばらの花束を渡してあげる、という筋だった)、自分で完成品に満足し、何故か勝手に小説の才能があると思い込み、件の小説サイトではさらに自分より上手い人に出会って現実を突き付けられ、そして学生用の文芸コンテストに入賞してまた少し自信を回復し、そして文芸サークルに行って同じことを繰り返し、公募で出た少し良い結果に大いに満足し。
というぐらいの、経歴です。同じことですね。
さて。
六年か七年書けば、たぶん大方の人たちと同じように小説の「書き方」を悩む経験を持ちます。
もちろん私もそうです。そしてその人たちがしたように、小説の「書き方」の本を買って、読みました。「一億三千万人のための小説教室」の高橋源一郎(日本の、したたかな老小説家です)とは違って、そういう「書き方」本の「小説」が本当の小説でないなどというような気はしなかったし、「書きあぐねている人のための小説入門」の保坂和志(日本の、もっとしたたかな、中年の小説教師です)は飲み屋のオッサンの愚痴だなと笑いつつもつい真面目に耳を傾け(とてもいい本です)、「冲方丁のライトノベルの書き方講座」の冲方丁の、「書き方」への熱い語りには本気で感動し(物語に「ひねり」を利かせるアイデアもとても素敵です)、「キャラクター小説の書き方」の大塚英志(日本の、したたかだけど時に恥のかき捨ても出来る、カッコイイ評論家です)には、もちろん実践的な手法のあれこれに嘆息させられながらも、最後の二章で鮮やかに「キャラクター」へと変身していく書き手の軽やかさに目を奪わされる。他に、クーンツの「ベストセラー小説の書き方」も読みました。
すべて、いい本です。ただ、「一億三千人のための小説教室」の高橋源一郎だけは、私的に嫌いだし、決して良い本ではない。
では、残りの本の何がいいか。
それは、読んだ人には解るかと思いますが、全て具体的な方法から始まるからです。言ってしまえば、物的な、具体的な習慣の話を、彼らはしている。「人はあるとき突然小説家になるべくして目覚める……」といった使命感など欠片もなく、これでもかと言わんばかりに自分たちの秘術を披露し、(そしておそらくは)観衆の溜息へ満足げな表情をしているのに違いないのです。
それはさすがに邪推か。
ちなみに「一億三千人のための小説教室」は、個人的な読書史のなかでも最低最悪の本で、無茶苦茶に憤った記憶があります。しかし「小説教室」と言わず、「人間教室」といい、彼が引用しているウィリアム・サローヤンと同じく、無根拠の真理じみた語りにさえ耐えられるならば(サローヤンはいい作家ですが)、ある程度以上の価値を有します。
言い換えるならば、彼らは小説を書くうえで「神秘」を求めません(というのは、ちょっと嘘ですけど)。いや、もちろん「神秘」はあるのです。本当のことを告白すれば、小説を書くうえで、ある書き方に最初から最後まで従っている人なんて居ません。こういう言い方は良くないけれど、書くうえで何らかの「逸脱」を経験したこと、必ずあるはずです。
「自分が意識していないのに、キャラクターたちが勝手に動き出した」
「前もって予想していた筋書きと、物語が全く違う方向に動き出した」
そういう「神秘」を、もしかすると小説家としての「天分」「才能」と言い換えるべきなのかもしれない。「面白い物語が書ける」ということも、おそらくそうでしょう。「能力」とはそうです。
今、ここで、はっきり言いたいことがあります。
「小説の才能」などという曖昧なものは、考えるに値しない。
もう一つ、私が今ここで、はっきり主張したいことがあります。
この世の中に「書ける」などということは存在しない。
正確には、考える意味がない。「書くか、書かないか」の二択。それだけしかない。
上記に挙げた本が優れているのは、「才能」の話を一切しないことです。
彼らは皆具体的な話をします。それはつまり、「書ける」という話をしないことです。
彼らの小説論にはある共通した事項がある。それは、「書く」話しかしないということです。
本当の話、そんな主張をするには、私は何らかの実績を持ち出すべきです。「才能なんてもの、考える意味がない!」と言っていいのは、「才能がある」と見なされて当然の人々だけです。なので、正直なところ、あまり自信はありません。「才能、ないのかな」と立ち止まってしまうこと、しばしばです。
にもかかわらず、私がこのような小説の「書き方」論を立ち上げ、かつこのような場で発表しているのは、まさに私が一切の実績を持ち合わせていないからに依るのです。
というと、さすがに大げさだし、大見得を切ってるの、ばれてしまいますね。ごめんなさい。小説の「書き方」論をそこそこ読んできて、後は自分の考えとかも付け加えてまとめたかったけれど、小説サイトに長年在留していたからか、読者が一人も居ない状況だと寂しくて死んでしまいそうなので、こうした広場で恥ずかしい文章をつらつら書き連ねてます。ごめんなさい。反省します。
でも、「持ち合わせていないから」こそ書く、というのは、嘘ではありません。
なぜかというと、私の意見は「実績がない」からこそ、容易に間違いを指摘することが出来る。あるいは、私は誰かの意見を参考にしたり、それについて考えたりすることが出来るし、修正も、訂正も、自分の主張を「間違いである」と述べることも出来る。「冲方丁のライトノベルの書き方講座」をお読みになった方なら解るでしょうが、(あそこで「書き方」論、もっと書いてほしいな。経験則が集まったら、みんながやりやすいよね)という冲方丁の発言に、もちろんこの企画は大いに影響されているわけです。でも私は、彼のように素晴らしい作家兼売れっ子なんかでは当然なく、数年か小説を書いてきただけのしがない身分です。だから、私は「みんな」のことなんて考えられません。
本当のところは。
全部「自分」のための話です。言ってしまった。ごめんなさい。
でも、もしそれが、偶然にも、小説の「書き方」に悩まされてきた誰かのためになるなら、まあぶっちゃけウィン・ウィンっぽくていいよね。というぐらいの軽いノリです。
もう少しきれいな話をするならば、私は皆さんがどういう小説の書き方をしているのか気になるからです。「小説を書く」という趣味は、結構人口が多いようで少ないジャンルなのではないかと内心感じているのですが、とにかく、書くというのは(こんな大規模サイトに居ても)結構寂しい。なぜなら、その作業は究極的には一人でやるしかないからです。もちろん色んな人と合作するのも可能だけれど、それでだって一人だ。ある集団に居て影響を受けるにしても、結局は一人なのです。書く、それはぼっちの定め。
だからこそ、だ。
だからこそ、せめて「書く」話を、聞きたい。それも、「書くってこんなにすごいんだ!」みたいな話ではなく、「私は書くとき、いつもデスクにコーヒーを置いています。書きだすのはいつも深夜で、翌日の仕事に響かないように二時までには終えようとしていますが、つい熱中してしまい翌朝遅刻寸前になるのもしばしばです」みたいな具体的な体験談を、聞きたいのです。そうすることで、楽しいにもかかわらず常に一人になってしまう「書く」という作業に、自分以外も従事しているということを、数量的に知りたい。誰かが書いているということを、知りたいのです。
そういう話は、別に私だけではなく、「書く」人全員にも足しになると思います。
ですから、お願いが一つあります(こんな文章の最後まで読んでくださって、嬉しいです)。
もしこの一連の文章を読んで、何か疑問に思ったこと、「これは違うだろ」ということがあったら質問してほしい。というのはどこの小説の「書き方」にもあるので飛ばすとして(もちろんいただけると嬉しいですが)、
もしお暇があれば、「小説を書くうえでの<習慣>」を教えてもらいたいのです。
それはもちろん、「どんなキャラクターを活躍させるか」でもいい。あるいは「物語を作るとき、こうした観点に着目する」といった、いわゆる「小説の書き方」でもいいでしょう。でも、さっき言ったみたいに「いつも~を飲みながら小説を書く」とか、「人がいると集中できないから、一人になれる場所を探して書く」といった「習慣」も、それも間違いなく「書き方」なのです。というか、「物語の作り方」なんかより、よほど具体的な「書き方」でしょう。
これからつらつら書き続けていくわけですが、もし、そのようなお手紙をいただければ、必ず返信します。そして、お許しを取ってこちらのテキストにその「方法」を付け加えることもあるでしょう。そのときは、快く掲載を許していただければ、と思います。
それでは、あまりまとまりのない挨拶に引き続き、やはりまとまりのない小説の「書き方」が続きますが、お時間あれば、どうぞよろしくお願いします。
「これについてはどう思う?」
「ここは間違ってます」
「こんな小説の書き方の本があるので読んだほうがいい」
「私は小説を書くときいつもこんな癖があります」
等々あれば、なんでもご連絡ください。なるべく早く、返信します。