午前十一時半
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午前十一時半という時間は、あたしたち会社の女性社員にとって一番楽しみな時である。何せ昼食に有り付けるのだから。ランチ店はこの時間帯になると混み始める。あたしも午前中の仕事を片付けて、それからはゆっくりとランチを食べに行く。同じ職場で友達の奈那子もあたしに向かって言う。「今日のお昼何食べる?」と。あたしもさすがにずっとそればかり考え続けていたのだが、やがて、
「今日はいつもの日替わりじゃなくてピザにしましょ」
と言った。奈那子が頷き、デスクから立ち上がって、
「そうね。じゃあ今から行きましょう。早く行かないと食べ損ねちゃうわよ」
と言ってきた。あたしも応じて彼女に付いていく。普段からずっと一緒だった。会社では同じ事務職をやっていて、どうしても上司からうるさく言われるのだ。だけどいつも昼になると、皆がランチ店へ向かっていた。空腹には勝てない。それに空腹状態じゃ肝心の仕事への力が出ない。だから食事は必ず取る。絶対に曲げないのだ。特にお昼を食べられないと、午後からの仕事に差し支える。幸い会社の近くにあたしたちぐらいの女性社員が好みそうなランチ店が一軒あった。<ビートワールズド>という変わった名前の店で、いつもそこに食事をしに行っている。さすがにオフィスで缶詰にされると疲れるのだが、お昼は職場でのことを忘れて、ある程度ゆっくりするのだ。オフィスにいれば、ずっと仕事が続くからである。確かに職場での事務職は楽なようできつい。でも別によかった。あたしも奈那子も同じような感じで毎日を過ごしていたからである。倦怠するというがまさにその通りだった。ずっとパソコンの画面を見ながら、データなどを打ち込んでいく。単純作業だった。事務や経理もマシーン上でオンライン化されている。一々紙に印字することはない。全社員に個別に一台ずつパソコンが支給されていて、いつでも社に関する情報を見ることが出来る。ただし機密事項である個人情報だけは見ることが出来ない。アクセス権がない人間が見ようとすると、一定のガードが掛かるからだ。そういったことは心得ていた。単に一地方の企業でもこれだけ事情が複雑なのである。淡々と仕事が続くのだし、別にそう変わった点はない。あたしも職場ではなるだけ頭をニュートラルにしてやっていた。事務も経理も全てオンラインとなっている以上、もはや会社の業務としてやるにはかなりの速度が要求される。それに株も買われていた。うちの社の筆頭株主はいつもは社に来ずに、ずっと自宅マンションからメールやスカイプを使っていろんな必要事項なり、会社の運営方針なりを要求してくる。あたしもそういったことは知っていた。気に掛かることなのだが、いつもその人間は自宅から指令してくる。まあ、あたしたちには興味も関心も何もないことだったが……。
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ビートワールズドに入ると、昼時とあってか満席である。さすがにどうしようもない。カウンター越しにマスターを呼ぶと、
「おう、玲奈ちゃんに奈那子ちゃん。いらっしゃい」
と返し、カウンター席を勧める。マスターの日高は確か四十代後半のはずだ。三十代前半のあたしたちとは一回り以上違う。この街に店を持ったのも随分昔のことだ。確か大学卒業後、十年とちょっと勤めた会社を依願退職して、イタリアに洋食料理修業に出かけたらしい。あたしもその辺りの事情は知っていた。イタリアでピザやパスタなどの料理の作り方を学び、帰国後、ここに店を構えてからもう長い。あたしたちも<玲奈ちゃん>や<奈那子ちゃん>などとちゃん付けされるほど若くはないのだが、何せ一回り以上世代が違えばそれも普通になるだろう。あたしもずっと仕事が続いていたのだが、ここに来ることが出来るたびにゆっくりと構えられる。別に今の職場から転職することなどないのだし、簡単にコロコロと仕事を変わるほど尻軽でもないのだ。腰掛などという言葉が死語になったのと同じように、あたしたちも同じ会社にずっと勤めているのだし、実際今の職業から脱することは不可能だ。単に大卒の肩書きはあったとしても、持っている資格などは普通自動車の運転免許や教員免許などで特に何かを出来るようなものはないのだし、別にいいのだった。この先どのぐらい働けばいいのかは分からなかったが、今の会社で普通に仕事をしているだけでいいと思う。そのうち、国があたしたちみたいな女性への新たな雇用政策などを考え付いてくると思うから、別に心配は要らない。あたしも奈那子も先行きは明るかった。ゆっくりと歩いていけばいい。気にすることなく。悩み事など気にし出したらキリがないのだ。あたしもずっと仕事をしているのだが、これからのことなどを考えても仕方ない。なるようになると思っていた。人生は考えようによっていくらでも変わるのだし、今考えたところでどうにもならないことだらけだと思う。ゆっくりとやっていくつもりだった。今は食事時なので、食事を取ることに専念するつもりで。
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「このシーフードピザ、美味しいわね」
「うん。あたしもそう思った。ピザ生地に載せてある具もなかなかいける」
食事を取りながら、お互いいろいろと言い合う。疲れていても食事は結構いけていた。夏場だと食欲が落ちがちだが、あたしたちはそうでもない。互いに食事を美味しく取りながらゆっくりと寛ぐ。この時間が実に至上であり、至福のときだった。あたしも奈那子も互いに食事を取り続ける。ゆっくりと。そしてアイスコーヒーで流し込み、あたしの方が日高に向かって、
「ご馳走様」
と言うと、奈那子も、
「ご馳走様でした」
と言い、レジで食事代を支払って、揃って店外へ歩き出す。また管理される場所に行くとなると、足取りは重たかったのだが、別に構わなかった。そんなに気にする必要はない。単に食事を取るところから働く場所であるオフィスへと移動するだけだ。それだけなのである。平常心で臨むつもりでいた。ゆっくりと歩きながら……。キーを叩くのが仕事で合間に休憩時間があるにしても、コーヒーメーカーからカップにコーヒーを注いで飲むことぐらいだった。作業にも慣れている。あたしも奈那子と隣り合わせのデスクに座っていて淡々と作業を続けた。パソコンのキーを叩くのが仕事なのだし、迅速に進めるべき仕事は迅速に進める。女性社員は特に必要な技能などない。あえて言うとすれば、マウス検定を持っているぐらいで、後は特に何も要らなかった。きついこともあったのだが、それも何とか乗り越えられそうだ。あたしも奈那子と一緒に仕事をしながら歩き続ける。確かに仕事振りは幾分遅々としていた。だけど、そういったこともあってこその会社員だ。そう思って上司から言われるがままに仕事をこなしている。疲れはするのだけれど……。それにしても今日の昼、ビートワールズドで出されたピザは美味しかった。あたしもああいった食事を取りたいと思っている。常日頃からランチタイムだけは美味しい物を食べるのだ。何もかもを忘れてしまって。それにキーを叩きながら、こなす仕事がいろいろとあるのだし……。そういったことは入社時と全く変わっていなかった。単に加齢したというだけで。そしてあたしも決まって奈那子と食べに行くランチを楽しみにしている。午前十一時半という時間帯に差し掛かるのを狙って。仕事の合間の楽しみの時間だった。変化のない日常にメリハリを付けるのは可能だからである。淡々とキーを叩き続けながらでも……。
(了)