Code:087 晴天①
* * *
白い天井が、靄のかかった視界にゆらゆらと浮かんでいた。
瞼が重い。まるで深い水底から浮上するように、ミラフィスの意識はゆっくりと覚醒していく。
規則正しい機械音が、生きているという現実を告げていた。
点滴の針が刺さった腕の違和感、身体を締めつける包帯の圧迫感、それらが徐々に認識されていく中で、記憶の断片が繋がり始める。
耀魔鉱採掘場。災魔の咆哮。炎に包まれる坑道。
そして——炎の向こうから現れた、小さな影。
「アルト……!」
その名を口にした瞬間、ミラフィスは全身の痛みなど無視して、勢いよく上体を起こしていた。
心臓が早鐘を打つ。あの時、自分を救い出してくれた少年の姿が、鮮明に脳裏に焼き付いている。
震える手でシーツを剥ぎ取り、足に巻かれた包帯を引きずるようにして、よろめきながらも病室のドアへと向かう。
廊下に出ると、午後の陽光が窓から差し込んでいた。
消毒液の匂い。どこか遠くから聞こえる食器の音や、誰かの笑い声。
何事もなかったかのような日常の風景が、ミラフィスの目にはひどく遠く、色褪せた背景のように映った。
壁に手をつき、引きずるような足取りで廊下を進む。
すれ違う患者や見舞い客が驚いたような視線を向けてくるが、彼女の瞳には映らない。
ただひたすらに、アルトの姿を探し求めて。
「あの、フロレンシアさん!」
程なくして、病室からの脱走に気付いた若い看護師が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「まだ足の怪我が治ってないんですから、ベッドで安静にしていてください!」
だが、ミラフィスは聞く耳を持たなかった。
看護師の肩を掴むと、鬼気迫る表情で詰め寄る。
その目には、狂おしいほどの必死さが宿っていた。
「アルトは!? アルト・ツヴァイラインはどこにいるの!? 無事なの!?」
その気迫に押されて、看護師はたじろいだ。
しかし、すぐに職業的な冷静さを取り戻すと、困ったような表情を浮かべながら口を開いた。
「あの子なら、もう……」
「え……」
最後まで聞けなかった。
血の気が一気に引いていく。
「そんな……嫌……」
信じたくない。
聞きたくない。
踵を返し、彷徨うゾンビのような足取りで再び病院内を探し始める。
走ることはできない。でも、止まることもできない。
「まったく、術式師の方は話を聞かない人ばかりね」
背後で看護師が何か言っていたようだが、それは耳に届かなかった。
ミラフィスは病室を一つ一つ覗き込み、休憩室、ナースステーション、リハビリ室まで確認する。
どこを探しても、アルトの姿はない。
自然に流れ落ちる涙で、視界がぼやけていく。
(「ウチのせいだ……ウチが足を引っ張らなければ……こんなことには……っ」)
自責の念が胸を締め上げる。
あの時。
もっと早く災魔を倒せていれば。
もっと的確な判断ができていれば。
後悔ばかりが頭の中をぐるぐると回り続ける。
最後にやって着いたのは、最上階のオープンテラスだった。
昼下がりの陽射しが、世界を優しい橙色に染めている。
風がそよぎ、どこか遠くで鳥が鳴いていた。
あまりにも穏やかな光景が、ひどく残酷だった。
ミラフィスはついに膝をついた。
怪我の痛みに耐えかねてか、それとも心が折れたのか。
冷たいコンクリートの感触が、包帯越しに伝わってくる。
「嘘だよ……嘘って言ってよ……ウチなんかのために……死なないでよ……」
絶望に打ちひしがれ、天を仰ぐ。
涙で霞む視界の中、雲一つない晴天の空だけが無情に広がっている。
悲痛な空気の中で、テラスに繋がった廊下からは慌ただしい足音と声が聞こえてきた。
「治療中の重傷患者が逃げたわ!」
「あの包帯だらけの子よ! 見つけ次第連れ戻しなさい!」
看護師たちは白衣を翻しながら、慌ただしく周囲を見回している。
膝をついて泣いているミラフィスの耳には、その騒ぎも届かなかった。
「アルト……アルト……!」
名前を呼び続けるミラフィスの声は、嗚咽混じりで震えていた。
もう何も聞こえない。何も見えない。
ただ、失ってしまった大切な存在への想いだけが、胸を焼いていた。
その時——
「隠れてるのがバレるから呼ばないで下さい」
聞き慣れた声、少し呆れたような優しい声が、頭上から降ってきた。
ミラフィスは恐る恐る顔を上げた。涙で濡れた目を何度も瞬かせる。幻聴だろうか。いや、違う。
自販機の上に、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた少年が座り込んでいた。
手に持っているのは自販機で売られている棒状の栄養食だろうか、頬を膨らませた小動物のようにもぐもぐと齧っている。
「アル……ト……?」
名前を呼ぶ。本当にそこにいるのだろうか。これは夢ではないのだろうか。
アルトは栄養食を口に詰め込むと、自販機の上から颯爽と飛び降りた。
着地の瞬間、少し顔をしかめたが、すぐにいつもの調子で微笑む。
「全くもう、僕は今、お尋ね者なんですよ? そんなに何度も呼ばれたら、気付かれちゃうじゃないですか」
その声を聞いた瞬間、ミラフィスの中で何かが決壊し、身体が勝手に動いていた。
立ち上がると同時に、覆い被さるようにアルトへ飛びついた。
包帯越しに伝わる体温。確かにここにいる。生きている。
震える腕でぎゅっと抱きしめる。
まるで二度と離したくないというように、強く。
「良かった……本当に、本当に良かった……!」
涙が止まらない。声も震えて、言葉にならない。
アルトは困ったような、それでいて、どうしようもなく優しい顔をして、そっとミラフィスの頭を撫でた。
いつもと変わらず優しくて、まるで泣いている子供をあやすような温かさのある手のひらの感触。
その優しさに、ミラフィスは抱きしめる腕の力を込める。
自販機の陰に隠れるようにして、二人はしばらくそのままでいた。
アルトを探す看護師たちの足音が遠ざかっていくのを確認しても、ミラフィスは離れようとしない。
やがて、夕陽が二人を優しく包み込み、時間だけがゆっくりと流れていく。
「それで……いつまでこうしているんですか」
しばらくして、アルトが控えめに声をかけた。
「もう少し、だけだから……」
アルトの胸に顔を埋めたまま、ミラフィスは小さく首を横に振った。
まるで、駄々をこねる子供のように。
「今日は泣き虫の日ですか、ミラフィス先輩」
「……うるさい」
「お姉ちゃんなのに、甘えん坊なんですね」
「……うるさいってば」
背中をぺちぺちと叩かれる。アルトは小さく笑って、お返しとばかりにミラフィスの背中へ手を回した。
ようやく落ち着きを取り戻したミラフィスは、袖で涙を拭いながらアルトの全身をじっと見る。
「本当に……心配したんだから……っ」
「ミラフィス先輩だって、包帯だらけじゃないですか」
苦笑交じりに指摘される。
「ウチは平気。アンタが無事なら、それでいいの」
アルトは目を瞬かせた後、小さく肩をすくめた。
「それ、僕のセリフですよ。ミラフィス先輩の方がよっぽど無茶してたじゃないですか」
「ごめん……心配かけて」
「謝るくらいなら、最初から無茶しないでください」
ぷいっとそっぽを向くアルトに、ミラフィスは思わず苦笑した。
年下の後輩に叱られている状況が、なんだかおかしくて。
「今度から気をつけるってば」
「本当ですか?」
「うん、約束する」
「……まあ、僕も人のこと言えませんけどね」
そう言って空を仰ぐアルトの横顔を、ミラフィスはそっと見つめていた。




