Code:086 選んだ道のその先へ
* * *
「お前に一つ、言ってなかったことがある」
デバイス越しのアルトの声は、それまでと違って不思議なほど冷静だった。
「……何だい、改まって」
ヴァラムが、一拍遅れて応じる。
対してアルトは、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべながら、言った。
「俺はレイザークが、昔から大嫌いなんだよ」
その言葉を口にした瞬間、まるで長年の呪縛が解けたかのように、アルトの表情が変わった。
——レイザーク・ファシエル・フォン・アークガルム。
《焔血王》アルスフリート・ヴァレルレイドと肩を並べ、最強の名を二つに分けた、生涯のライバル。
ヴァラムにとっての誤算、いや、勘違いは二人の関係性だった。
転生を経て再会したアルトとレイザークを見て、ヴァラムは彼らを「認め合ったライバル」だと思い込んでいた。
無論、それは決して間違いではない。しかし、肝心な点が抜け落ちている。
黒い鉤爪を倒すという目的が合致したからこそ手を取り合った二人だが、基本的なスタンスは犬猿の仲だ。
どちらも、自分のほうが格上だと信じて疑わない、天性のエゴイスト。
姿形や立ち位置が変わろうと、相手の意見をそのまま受け入れて行動に移すなど——《焔血王》としてのプライドが許さない。
だからこそ今、アルトは動く。
「アルト、君はまさか——」
「じゃあな、行ってくる」
ヴァラムの言葉を遮るように、通信を切った。
そして、駆け出した。
警告されていた危険な坑道へ、一直線に。
靴底が地面を蹴る音が狭い通路に響き渡り、幾重にも反響して陣太鼓のように増幅されていく。
前方から押し寄せる熱気は、最初こそ生温い風程度だったが、次第に肌を焼く灼熱へと変わっていった。
やがて、紅蓮の炎が視界を朱に染め始める。
煙が立ち込め、肺が焼けるような痛みを訴えながらも、アルトの足はむしろ加速していく。
まるで、炎の中にこそ求めるものがあるかのように。
その瞳に宿る決意の光だけが、周囲の業火よりもなお激しく燃え上がっていた。
* * *
崩落。
巨大な岩盤が、重力に従って落下する。
数トンはあろうかという質量が、容赦なくミラフィスへと迫る。
絶望、或いは諦観が心を侵食しようとしたその瞬間。
もはや逃げることもできない彼女の頭上に死の影が迫る、その刹那——
赤い世界が、切り裂かれた。
「——《叛天の焔剣》……!』
行く手を塞いでいた炎の壁が、神話の剣に両断されたかのように真っ二つに割れる。
その余波で落下してきた岩盤も粉砕され、石の破片が花火のように四方に弾ける。
煙が晴れた先に、一つの影が立っていた。
ここにいるはずのない、居てはならないはずの影。
肩で息をしている。額には汗が光り、桃色の髪は煤で汚れている。
それでも、その立ち姿に揺らぎはなかった。
背筋をまっすぐに伸ばし、まるで英雄譚の主人公のように。
「アル、ト……?」
炎に照らされたその表情は、いつもの愛らしい少年のものではなかった。
普段の人懐っこい表情も、あどけない笑顔も、そこにはない。
代わりにあるのは、まるで別人のように雄々しい覇気。
小柄な体躯からは想像もつかない、圧倒的な存在感。
「どうして……戻って……来たの……?」
ミラフィスの口から、声を出すのもやっとのような呟きが零れる。
瞳は驚愕に見開かれ、動揺を隠せないように揺れていた。
アルトは無言で歩み寄る。
その足取りに迷いはない。
瞳はまっすぐに、彼女だけを見つめている。
そして——優しく、それでいて力強く、ミラフィスを抱き上げた。
いわゆる、お姫様抱っこの形。
壊れやすい宝物を扱うような慎重さで、決して落とさないという確かな力強さで。
「ちょ、ちょっと! 何、してんの!?」
反射的に抵抗しようとするミラフィス。だが、その動きは中途半端に止まった。
自分がどれほど弱っているか、改めて思い知らされたから。
炎に囲まれているはずなのに、ここだけが安全な場所のように感じてしまったから。
そして何より、アルトの腕の中にいることが、不思議と心地良かったから。
「あまり格好付けるのは、あんたに似合わないよ」
静かな、それでいて大人びた口調と声。
幾多の戦場を駆け抜けた伝説の術式師・《焔血王》アルスフリートの面影が、そこにはあった。
* * *
地獄絵図——その言葉が、これほど相応しい場所があるだろうか。
坑道は完全に炎に包まれていた。
天井からは絶え間なく大小の岩が降り注ぎ、熱波と組み合わさって視界も霞む。
ミラフィスを抱えたままでは思うように動けない。
普段なら軽々と避けられる障害も、今は紙一重でかわすのがやっと。
地鳴りのような音が聞こえて来たかと思えば、背後の通路が崩落していた。
「アルト、やっぱり、ウチを置いて——」
「黙ってろ」
短く、しかし有無を言わさぬ強さで言い放つ。
ミラフィスは言葉を失った。普段のアルトとは、まるで別人だ。
「でも、このままじゃアンタまで——」
「それを決めるのは、俺だ」
言い切って、ミラフィスを抱き直す。
その腕に、微かな震えが走った。疲労の色は隠せない。
それでも腕の力だけは、一瞬たりとも緩ませなかった。
しばらく進んだところで、前方の通路が轟音と共に崩れ落ちた。
道が、消えた。退路はとうに断たれている。左右の壁からも亀裂が走る音が聞こえていた。
前も後ろもない。アルトの歯が、ぎりっと鳴った。
だが、その時、DOC通信の音声が聴覚に届いた。
『——聞こえるか、アルト』
それはヴァラムの声だった。
アルトは小さく頷く。返事をする余裕すらない。
『君がいる地点の前方、約三メートル先の壁に注目しろ。崩落の影響で岩盤が薄くなっている。術式の出力を集中させれば——』
ノイズ交じりの音声は重要な部分だけを伝えて、すぐに途切れてしまった。
けれども、それで十分だった。
(「礼を言うぜ、ヴァラム」)
坑道の前後が塞がれた今、脱出口はそこしかない。
指定された壁に近づき、ミラフィスを肩の上に担ぎ上げて片手を空ける。
「ここから脱出する。しっかり掴まってろ」
「え、ちょっ、どうやって……!?」
「強行突破だ! 来い——《叛天の焔剣》!」
焔剣の牙突が壁を穿つ。岩壁の層が砕け、土煙が噴き出す。
しかし、まだ厚い。一撃では貫通しきれない。
背後から、地鳴りのような音が迫る。
振り返る余裕はない。時間との勝負だった。
「もう一発……行けぇぇっっ!!」
二撃目で、遂に岩壁を貫いた。
辛うじて人が通れる程度のサイズの穴から、光が差し込む。
外の安全を確保してから脱出したいところだが、坑道には巨大な炎の塊が津波のように迫っている。
迷う暇はない。握った術式を解き、猪突猛進に穴から飛び出した。
直後、坑道が紅蓮の業火に呑み込まれ、背中に焼けるような熱風を感じる。
そして、同時に感じたのは、全身から力が抜けるような浮遊感だった。
眼下に広がるのは、垂直に切り立った岩肌と、地面を覆い尽くす深い森。
脱出した場所が断崖の中腹だったことを、落下しながら理解した。
地面まで数十メートル、重力に引かれて落ちていく数秒間のフライト。
それでも、両腕で抱きかかえたミラフィスのことは、最後まで離さなかった。




