Code:083 無我の一閃②
あの忌まわしき感覚が、再び全身を支配する。
支配領域が、再展開されたのだ。
しかも以前とは比較にならないほど強大に、より広範囲に。
「くっ……!」
よろめきながら、ミラフィスは素早く後退した。
支配領域の境界線を見極め、ぎりぎりのところでその影響圏から脱出する。
だが、安堵する間はない。
暴走状態に移行した上位個体。その戦闘能力は、もはや別次元のものと化している。
強化された支配領域が再展開された今、迂闊な接近は即座に死を意味するだろう。
次々と飛来する光と闇の弾幕を術式槍で払いのけながら、思考を巡らせる。
(「あと一撃……確実な一撃さえ与えられれば」)
外殻を失った今、防御力は格段に低下しているはずだ。
問題は、その一撃をどう与えるか。
遠距離からの術式を使おうにも、威力が低いものは弾幕に阻まれて届かず、威力が高いものはそもそも構築する余裕がない状況だ。
かといって接近すれば、支配領域の餌食となる。
客観的に見れば、追い詰められたとしか言いようのない状況だった。
「アルト……」
先へ行った後輩の顔が、鮮明に思い浮かぶ。
きっと今頃、坑道の出口で自分を待っているのだろうか。
あの真っ直ぐな瞳で、自らの無事を信じて。
「ねぇ、アンタだったらこの状況、どうする?」
ミラフィスは、心の奥で問いかけた。
「充分、時間は稼いだよね……?」
記憶の中のアルトが、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。
「そろそろ逃げても、いいかな……?」
きっと彼なら、頷いてくれるだろう。
「もし、ウチが逃げ出したとしても、アンタはウチを責めないんだろうね」
でも、だからこそ——
「そんな格好悪いところ、もう見せたくないじゃん……!」
声が、誰もいない坑道に吸い込まれた。
いつから自分は、たった一人の後輩の目を気にするようになったのだろう。
先輩としての威厳など、もう残っているかも分からないというのに。
それでも——いや、だからこそ、最後くらいは格好つけたいと思ってしまう。
馬鹿げている。命を天秤にかけてまで見栄を張るなんて。
しかし、その馬鹿げた想いこそが、今の自分を支えている唯一のものだった。
思考に耽る間にも、状況は刻一刻と悪化していく。
操術種は着実に距離を詰め、支配領域が坑道内の逃げ場を侵食していく。
飛来する弾幕の密度も増し、防御だけで精一杯になりつつあった。
そして、ついに——支配領域の境界が、ミラフィスの足元にまで達した。
これ以上の後退は、物理的に不可能だった。
背後は既に坑道の行き止まり。逃げ場は、もうない。
震える手で術式槍を握り直しながら、ミラフィスは最後の自問をする。
(「こんなに強い災魔を一人で倒したら、ちょっとは見直してくれるかな?」)
幼稚な考えだと、自分でも分かっている。
けれど、その幼稚な願望が、恐怖に竦む心を奮い立たせた。
「頑張ったんだから、褒めてくれるよね、なんて。ふふっ、そんなこと考えてるから、先輩の威厳が無くなるんだっての」
自嘲の笑みと共に、渾身の力を込める。
《閃き輝く光穿天槍》が応えるように激しく明滅し、太陽にも匹敵する光芒を放つ。
逆転の一手とは言い切れない。恐怖は消えない。足は震え、心臓は早鐘を打っている。
「……そうだ」
ふと、何かが腑に落ちた。まるで霧が晴れるように、一つの戦術が脳裏に浮かび上がる。
「それしかない……!」
呟くと同時に——ミラフィスは前へと踏み出した。
自ら、支配領域へ飛び込む。
境界線を越えた瞬間、全身を無数の針で刺されるような痛みが襲った。
視界は明滅し、平衡感覚が狂う。
頭蓋の内側に冷たい指を突っ込まれるような感覚が這い回り、意識を根こそぎ奪おうとしてくる。
だが、ミラフィスは止まらなかった。
歯を食いしばり、血が滲むほど唇を噛み締めながら、一歩、また一歩。
無数の弾幕が、暴風雨のように襲いかかる。
もはや、全てを避けることは不可能。
ミラフィスは即座に判断を切り替えた。
完璧な防御を諦め、致命傷となるものだけを避ける。
光の弾が掠め、隊服が裂けて鮮血が噴き出す。
闇の弾が突き刺さり、深い裂傷を作る。
「ぐっ……あぁっ!」
苦悶の声が漏れる。全身が悲鳴を上げ、本能が撤退を叫んでいる。
それでも、足は前へと進み続けた。
《閃き輝く光穿天槍》が目まぐるしく舞い、急所の直撃だけは辛うじて防いでいく。
それ以外の傷は、甘んじて受け入れる。
血に塗れ、傷だらけになりながら、ミラフィスは突き進んだ。
足を止めない。止められない。止まったら、二度と動けなくなることが分かっているから。
10メートル、8メートル、6メートル——
操術種との距離が、確実に縮まっていく。
狂気に歪んだ一つ目が、接近するミラフィスを凝視していた。
そこに浮かんでいるのは嘲笑ではなく、初めて見せる——困惑、だったのかもしれない。
5メートル、3メートル、そして——
ついに、ミラフィスは操術種の眼前に辿り着いた。
「ようやく、捕まえた」
血の滲む顔で、凄絶な笑みを形作る。
「術式を受けなければ、アンタは透明化できない。そうでしょ?」
それこそが、全てを賭けた読みだった。
操術種の一つ目が、驚愕と憤怒に見開かれる。
間合いは既に術式槍の射程圏内。
攻撃を仕掛ければ、文句なく直撃させられる。
しかし、攻撃の態勢に入れば、その瞬間は完全な無防備になる。
訪れた賭けの最終局面。ミラフィスは、迷わず防御を捨てて術式槍を構えた。
その代償として、複数の弾丸が左脚を貫通する。
「があぁっ!」
肉が裂ける音と共に、激痛が全身を駆け巡る。左脚から力が抜け、体が傾く。
だが、ミラフィスは止まらなかった。
残った右脚で渾身の力を込めて地面を蹴り、崩れ落ちそうになる体を槍に預けて前へと押し出す。
痛みも、恐怖も、全てを光の穂先に集約させて——
「《流星刺突》!」
全てを賭けて一撃を放つ。
《閃き輝く光穿天槍》に込められたすべての魔導粒子が臨界を超えた。
光芒が坑道を白く染め上げる。
狙いは、亀裂の入った巨大な一つ目——急所にして、唯一の弱点。
術式槍が、災魔の一つ目を貫く。
言葉では表現できない金属音が、一帯を震わせた。
それは断末魔というより、存在そのものが崩壊する音だった。
天秤が砕け散り、制御を失った力の奔流が、凄まじい爆発となって周囲を呑み込む。
衝撃波がミラフィスの身体を宙に投げ出した。
壁に激突し、地面に崩れ落ちる。
身体中が痛い。左脚はもう感覚がない。指先すら動かすのが億劫だった。
それでも——混濁する意識の中で、ミラフィスは確かに見た。
操術種が魔導粒子の霧と化し、ゆっくりと、ゆっくりと消滅していく様を。
「やった……の、かな」
小さく呟き、天井を見上げる。
(「褒めて、くれるよね……アルト」)
血に濡れた顔に、小さな笑みが浮かんだ。




