Code:078 不可視の天秤、操魂領域②
「くっ、離して……!」
必死にもがくが、びくともしない。
ザイルは術式師ではないが、30年以上に渡って鉱山の肉体労働に従事してきた男の腕力は伊達ではない。
それが支配領域の影響でリミッターまで外された今、ミラフィスの細腕で振りほどけるはずもなかった。
万力のように締め上げられ、骨が嫌な音を立てる。
このままでは何かが折れてしまう。
やむなく術式でザイルを弾き飛ばそうとした。
そんなタイミングで、支配領域下の頭痛が再来した。
「あ……が……!」
頭の内側を掻き回されるような激痛が、術式の構築を根こそぎ阻害する。
指先に集束しかけた魔導粒子が形を失い、霧のように散っていく。
そこへ追い討ちをかけるように、ザイルの太い前腕が首元に回った。
「か……は……」
気道、そして頸動脈を強く圧迫され、意識が朦朧としていく。
視界の端から黒い染みが滲み出し、じわじわと中心に向かって広がっていく。
酸素を断たれた思考が泥の中に埋もれるように鈍く、重くなる。
術式を組もうにも集中力が保てない。
指先に意識を集めようとするたびに、組みかけた術式の構造が歪み、崩れ、手のひらから砂が零れ落ちるように消えていく。
耳の奥で血流がごうごうと鳴っている。
自分の心臓の音なのか、坑道の反響なのかも分からない。
(「このままじゃ……」)
薄れゆく意識の中で、ミラフィスは固定された視界の先を見上げた。
頭上で優雅に浮遊する異形の災魔を。
闇色のエネルギーを溜め込んだ天秤が、ゆらり、ゆらりと揺れている。
皿の縁から黒い雫が滴り落ちる。
一滴、また一滴。
ゲームオーバーまでの残り時間を刻む秒針のように。
巨大な一つ目が、三日月のように歪んだ。
嘲笑、しているのだろうか。
(「こいつ……この状況を……楽しんでる……?」)
まるで、悪趣味な人間がそうするように。
獲物が息絶える過程を、美酒でも味わうかのように。
最後の力を振り絞って抵抗しようとするも、もはや指先すらまともに動かない。
(「このまま意識を手放したら……ウチも……消えちゃう……」)
術式師が持つ支配領域への抵抗力。
それは、意識を保っているからこそ機能する最後の防壁だ。
意識を手放し思考を飛ばした瞬間、全身の魔導回路は沈黙し、消えていった鉱夫たちと同じ末路を辿るだろう。
魂を抜き取られた肉体が、塵のように消滅する。
それが奴の、災魔としての、捕食方法なのだから。
(「もう、ダメかも……」)
唇から色が抜け落ちていくのが、自分でも分かる。
白い霞が視界を食い潰し、意識と無意識の境界線が溶けていく。
遠くなる。すべてが、遠くなっていく——
——消えた。
肉体が、ではなく。
頭を掻き回す痛みが、嘘のように。
同時に首を絞める力が緩んだ。
ザイルの腕から力が抜け、拘束を失ったミラフィスの身体が地面に崩れ落ちる。
「ゲホッ、ゲホッ……! はぁ……はぁ……」
喉を押さえながら激しく咳き込む。
坑道の空気が、焼けつくような痛みと共に気管を通り抜けた。
呼吸のたびに喉の奥が痛み、涙が勝手に溢れてくる。
それでも酸素が血流に乗って四肢の末端まで染み渡るにつれ、白く潰れていた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
「ミラフィス様! 大丈夫ですか!?」
正気を取り戻したザイルが、蒼白な顔で覗き込んできた。
ミラフィスの肩に触れようとした手が途中で止まり、指先が小刻みに震えている。
自分の両手を見下ろし、それから喉に赤い痕が残るミラフィスの首筋に目をやって、何をしたのか悟ったのだろう。
血の気が引いた顔が、さらに白くなった。
「アンタがやったんでしょ……」
少し苛立った声で言いかけて、ミラフィスはザイルの目を見る。
恐怖と罪悪感に揺れるその目を見て、続きを飲み込んだ。
彼はただ、操られていただけだ。責めたところで何も変わらない。
それに、ようやく頭が回り始めていた。
絶体絶命の状況で何が起こったのかは分からなかったが、結果としてどうなったかは眼前の光景を見れば分かる。
振り返った先に、操術種が地面に叩きつけられている。
あれほど悠然と浮遊していた巨体が、無様に横倒しになっている。
巨大な一つ目には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、先ほどまでの嘲笑の色はどこにもなかった。
天秤の片方が折れ曲がり、闇色のエネルギーが傷口から漏れ出すように地面へ滴り落ちている。
その傍らには、風属性の術式で作られたと思わしき球体が地面に突き刺さっていた。
内部で何かがもぞもぞと蠢いている。
鉱夫たちの視線が一斉にそこへ集まった瞬間、風の球体が弾けるように四散し、中から人影が勢いよく転がり出てきた。
「な、何だ今のは!?」
「あれは……子供か!?」
災魔のダウンで支配領域から解放された鉱夫たちが口々に叫ぶ。
ミラフィスの視線だけも、転がり出た人影に縫い止められていた。
現れたのは、随分と小柄な体躯。見覚えのある隊服。
砂埃にまみれながらも、どこか不敵に口角を上げた、あどけない顔。
こんな場所に、いるはずのない人間。
「まさか……どうして……嘘……」




