Code:077 不可視の天秤、操魂領域①
* * *
坑道の奥で、二つの影が対峙していた。
ミラフィスと、天秤のような触腕をゆらりと揺らす異形の災魔。
眼前の怪物は、魔眼を思わせる巨大な一つ目でこちらを見ている。
ミラフィスは慎重に間合いを測りながら、指先に魔導粒子を集束させた。
風属性の術式弾が瞬時に形成され、空気を裂いて放たれる。
続けて二発、三発。連射された光弾が、正確に異形の巨体へ吸い込まれていった。
着弾。だが、鱗とも皮膚ともつかない奇怪な体表に弾かれ、霧散する。
それでも、完全に無効というわけではなかった。
巨大な一つ目が不快げに瞬き、瞳孔がきゅっと収縮する。
天秤の皿がカタカタと震え始め、耳障りな金属音が坑道に反響した。
「効いては、いる、みたいだけど……」
そう呟いた時には、既に指先に新たな術式弾を形成している。
だが、それらを放とうとした瞬間、異変が起きた。
異形の天秤に、灼熱の赤が収束し始めたのだ。
溶岩のように煮え沸き、血管のように脈打つ赤。
その光は急速に強さを増し、熱気で周囲の景色が歪曲する。
(「反撃が来る——!」)
身構え、回避の姿勢を取る。
しかし、攻撃は飛んでこなかった。
代わりに起きたのは、さらに異質な現象だった。
異形の巨体が、水面に溶けるように透明化していく。
まず輪郭がぼやけ、次いで内部の器官までが透けて見え、やがて、完全に姿を消した。
最初からそこには何も存在しなかったかのように。
「消えた……!? いや、違う。これは——っ」
ランプの明かりだけが照らす空間に、見渡す限り敵はいない。
だが、ミラフィスの感覚は、そこに「何か」がいると告げていた。
空気の流れが不自然だ。
時折、見えない何かが動くたびに生じる微かな風圧が、肌を撫でていく。
構えを解かず、全神経を張り巡らせる。
足音も、呼吸音も、魔導粒子の揺らぎさえも感じ取れない。
ただ首筋だけが、ちりちりと焼けるように疼いている。
肉食獣に背中を見られている——そんな、本能の底から湧き上がる怖気。
完璧な静寂の中で、自分の心臓の鼓動だけが坑道に反響しているような錯覚に陥る。
数秒が、引き延ばされたように過ぎた。
このまま膠着を続けるよりは——ミラフィスはザイルたちに一時撤退を促すべく振り返った。
「皆さん、今のうちに下がって——」
言葉が、喉奥で詰まって止まった。
ザイルと残された鉱夫たちの様子が、明らかにおかしい。
さっきまで恐怖に顔を蒼白にしていた彼らが、今は虚ろな目でゆらゆらと体を揺らしている。
それは水中を漂う海藻のように不規則で、人間の動きとは到底思えない不自然さな動きだ。
「う……あ……」
鉱夫の1人が、意味を成さない呻き声を漏らした。
それに呼応するように他の鉱夫たちも同じ声を上げ始め、坑道が不協和音の合唱に満たされていく。
そして——痺れるような痛みが、ミラフィスの頭を叩く。
「っ……! また、この——」
鈍器で殴りつけられたような衝撃。
視界が白く弾け、平衡感覚が崩れる。
膝が折れかけ、咄嗟に壁へ手を伸ばした——その瞬間、背後から悍ましい気配を感じた。
振り返るまでもなかった。そこに何かがいる。本能がそう叫んでいる。
立っているというより、浮遊している気配。
音もなく、異形の災魔がミラフィスの真後ろに出現していた。
巨大な一つ目が、獲物を見下ろすように細められる。
天秤に溜め込まれた赤のエネルギーが、一気に解放された。
赤色、属性は、炎。
憎悪と殺意を物質化したかのような、紅蓮の奔流。
「くっ——!」
飛び退こうとする。
頭痛に蝕まれた身体は反応が遅い。
足がもつれ、体勢が崩れかける。
それでも——長年の訓練が刻み込んだ反射が、意識より先に動いた。
即興で光属性の術式盾を展開する。
紅蓮の奔流が煌めく障壁に激突し、衝撃波が坑道を揺るがした。
「なんて、威力……っ!」
数秒の拮抗。やがて、即席の術式盾が悲鳴を上げるように消滅し、残った炎の余波がミラフィスの身体を包み込んだ。
吹き飛ばされる。背中から坑道の壁に叩きつけられ、肺の中の空気が根こそぎ搾り出された。
視界に赤い火花が散る。呼吸ができない。全身が燃えるように痛い。
「がはっ……!」
口の中に鉄の味が広がる。唇の端を血が伝い落ちた。
「透明化……なるほど、そういうことね」
荒い呼吸の合間に、思考を組み立てる。
この災魔は透明化の能力で不可視のまま坑道を徘徊し、自らの領域に踏み込んだ獲物を狩っていたのだ。
あの呻き声——それがこの災魔の発するものなのか、操られた鉱夫たちの断末魔だったのか、それすらも判然としない。
だが、分かったこともある。
極めて特異に見えるこの災魔も、超常的な力ではなく魔導学の範疇で動いているということ。
ロジックが通用するなら、打つ手はある。
震える手で壁を押し、身体を起こす。
指先に再び術式弾を形成した。
今度は炎属性。赤い光を帯びた弾丸を、正確に異形の巨体へ撃ち込む。
着弾と同時に、興味深い変化が起きた。
天秤のエネルギーが、赤から青へと変わったのだ。
深海を思わせる濃い青。水面のように揺らめきながら、不気味に脈動している。
「やっぱり……属性が変わった」
再び巨体が透明化していく。
今度は注意深く観察していたため、その過程がよく見えた。
体表から霧状の何かが立ち上り、全身を包み込むと、光が屈折して姿が消える。
同時に、ミラフィスの頭の中で仮説が輪郭を持ち始めた。
最初の風属性の攻撃の後は、炎で反撃してきた。
炎属性の攻撃の後は、水に変わった。
天秤のエネルギーは属性を表している。そしてそのパターンは——
(「攻撃された属性に対して、優位な属性で反撃してくる……!)
炎→風→地→雷→水→炎……
術式師なら誰もが叩き込まれる属性相性の基本環だ。
ミラフィスは立ち上がりながら、ザイルたちから距離を取るように移動した。
確かめたいことが、もうひとつある。
この災魔が移動しながら狩りをしてきたのなら、その支配領域も一緒に動くはずだ。
案の定——ミラフィスが離れると同時に、ザイルたちの瞳に正気の光が戻った。
先ほどまでの虚ろな表情が嘘のように、彼らは困惑した様子で辺りを見回し始める。
「はっ!? 俺たちは何を……」
その声を聞いた直後、再び頭痛が襲ってきた。
今はミラフィスは動いていない。
つまり、支配領域の方からこちらにやって来た。
——それを、待っていた。
痛みの到来は、姿を消した災魔が背後に現れる合図。
それはもう、証明済みだ。
水属性に優位な雷属性の術式槍は、既にミラフィスの手の中で組み上げられていた。
「喰らえっ——《ボルトジャヴェロット》!」
振り返りざまに突き出す一閃。
電撃の槍が、災魔の繰り出した水属性の奔流を真っ向から貫通し、そのまま巨体の腹部を抉った。
雷光が異形の体内を駆け巡り、無数の火花が弾ける。
「全員、走って!」
ミラフィスの叫びに、ようやく正気を取り戻した鉱夫たちが慌てて後退を始めた。
さっきまでの記憶がないのか、困惑を浮かべながらも、本能的に危険を嗅ぎ取って走り出す。
その時、異形の巨大な一つ目が、ぎろりと動いた。
憎悪に歪んだ眼光がミラフィスを射抜く。
天秤のエネルギーが変質していく。
今度は——黒。
光を呑み込むような、深淵の黒。
見ているだけで意識の縁を侵食されるような、不吉な色。
(「闇属性……? さっきの順序とは違う。けど、それなら——光属性で!」)
上位属性である光と闇は相互に有効な関係にある。
相性は五分。だが、頭痛のタイミングから相手の出現を先読みし、カウンターを合わせられれば、今度こそ致命傷を叩き込めるはず。
ミラフィスは槍の属性を転換した。魔導回路に新たな術式を流し込み、槍身が黄金の輝きを帯びていく。
「属性転換——《ルクスジャヴェロット》」
再び異形が透明化する。もう、そのパターンは読み切っている。
数秒後——予想通りの鈍痛。
ミラフィスは流れるような動作で振り向き、光の槍を振るった。
「えっ……?」
しかし、そこにいたのは災魔ではなかった。
撤退したはずの鉱夫たちが、再びゾンビのような足取りで迫ってきていたのだ。
鶴嘴や掘削用のハンマーを振り上げ、虚ろな瞳でミラフィスに群がってくる。
「そんな……支配領域が広がった……!?」
一般人を傷つけるわけにはいかない。光の槍を慌てて引き、横っ飛びに躱す。
鶴嘴が空を切り、岩壁に火花を散らして突き刺さった。
鉱夫たちの動きは、先ほどより明らかに速い。
人間の限界を踏み越えたような異常な身体能力——精神支配によって、生体のリミッターが外されているのだろう。
後退しながら、ミラフィスは腹を括った。
このままでは埒が明かない。最小限の威力で、無力化するしかない。
「ごめんなさい……でも、これしかない——!」
風属性の術式波を展開。
掌から放たれた突風が、鉱夫たちをまとめて吹き飛ばす。
多少の怪我は負わせてしまっただろう。だが、これで——
「……うぐっ!」
太い腕が、背後からミラフィスの身体を捕らえた。
万力のような力で締め上げられる。呼吸がつかえ、苦痛の声が漏れた。
「ザイル、さん……?」
振り返った先に、災魔に操られ、虚ろな目をしたザイルの顔があった。




