Code:075 鉱山の異変③
一方その頃、先頭集団では。
坑道の奥から差し込む光が、鉱夫たちの汚れた顔を照らし出していた。
土埃にまみれた頬に涙の筋を作りながら、彼らは歓喜の声を上げる。
「やった! 外だ! 生きて出られるぞ!」
「おお、神様、ありがとうございます!」
死の淵から生還できる喜びに、先頭を走る男たちの足取りは羽が生えたように軽い。
つい先ほどまで絶望に打ちひしがれていた彼らの表情は、今や希望に溢れていた。
崩落の恐怖、生き埋めになる不安——全てが過去のものになる。そう信じて疑わなかった。
しかし、その希望は残酷な形で打ち砕かれることになる。
先頭集団の一人、ゴルドが突如として足を止めた。
いや、止めたというよりは、見えない壁にぶつかったかのように動きが鈍くなったのだ。
「どうした、ゴルド?」
仲間の問いかけに、彼は答えない。
ゆっくりと、まるで水中を歩むような動作で振り返ったその顔には、もはや人間らしい表情が微塵も残されていなかった。
瞳孔は開ききり、焦点の定まらない虚ろな目。
口元からは涎が一筋、顎を伝って落ちていく。
だらりと垂れ下がった両腕は、まるで糸の切れた操り人形のようだ。
「う……あ……」
ゴルドの喉から漏れるのは、もはや言葉とは呼べない呻き声。
人間の声帯が発しているとは思えないほど、無機質で空虚な音だった。
「おい、何だかヤバいぞ!」
「待て、あいつも変になってる!」
「こっちは危険だ! 一旦戻るぞ!」
「戻るって、どこにだよ!」
答えは出なかった。戻ったところで崩落で塞がれ、前方には様子のおかしい仲間。
逡巡が彼らの足を縛る。
その数秒の停滞が、致命的だった。
ゴルドの隣にいた男が、不意に膝から崩れた。
続いてもう一人、さらにもう一人。まるで疫病が空気を伝うように。
「うわぁぁぁっっっ!」
先頭集団の方から響いてくる声が、騒めく足音を掻き分けて後方まで届いた。
恐怖、困惑、絶望——あらゆる負の感情が綯い交ぜになった咆哮は、さらなる異常事態の到来を告げている。
「なんだ、あの悲鳴は!?」
「急ぎましょう!」
射し込む光を頼りに、ひたすら前へ。しかし、いくら走っても、少し先にいたはずの鉱夫たちの姿が見えない。
「くそっ、どこまで行ってしまったんだ……」
ザイルが荒い息を吐きながら壁に手をついた時、ミラフィスの視線が岩場の陰に向けられた。人の気配だ。
「あなたは……?」
駆け寄ると、そこには数人の鉱夫が身を縮こまらせていた。
怪我をしている様子はない。ただ、何かに怯えるように、がたがたと震えている。
「大丈夫ですか!?」
ミラフィスが近づくと、彼らは弾かれたように身を竦ませた。
その瞳には、見てはいけないものを見てしまった人間の、狂気じみた色が宿っていた。
「あ、あれを……あれを見てくれ……」
震える指が前方を指す。
その先に広がる光景は、ミラフィスとザイルの理解を超えていた。
十数人の鉱夫たちが、そこにいた。
先ほどまでの狼狽ぶりが嘘のように、整然と歩いている。
いや——歩いているというよりは、何かに引きずられているような足取りだった。
全員の動きが完全に同期しており、統合された意思に操られているかのよう。
両腕は力なく体の横で揺れ、頭部だけが前後に不規則に振れている。
糸の切れかけた操り人形を、無理やり動かし続けているかのような不気味さ。
そして何より恐ろしいのは、彼らの表情だった。
瞳孔に光はなく、顔面から一切の生気が抜け落ち、人間としての感情が根こそぎ剥ぎ取られている。
「どうした、お前たち! しっかりしろ!」
異変を感じ取ったザイルが、仲間たちの名を呼びながら駆け寄ろうとした。
しかし——
ある見えない境界線を越えた瞬間、彼の動きに異変が生じた。
勢いよく走っていた足が急激に速度を落とし、深い沼地に嵌まり込んだかのように重くなる。
次の瞬間には、彼の両腕もまた、他の鉱夫たちと同じようにだらりと垂れ下がっていた。
「ザイルさん! ダメです、下がって!」
ミラフィスの叫びも虚しく、ザイルの瞳から理性の光が褪せていく。
口元が半開きになり、唾液が顎を伝い始めた。
魂が肉体から引き剥がされていくような、空虚な変容だった。
「くっ……!」
ミラフィスは躊躇なく前へ踏み出し、ザイルの腕を掴もうとした。
その時、鈍い衝撃が頭蓋を叩いた。
術式の過負荷でバーストした時の感覚に似た、グワングワンと脳を揺さぶられるような振動。
視界が白く灼け、膝が崩れかける。
(「これは……何!?」)
痛みの中でなお、ミラフィスは思考を手放さなかった。
この感覚は錯覚ではない。足を踏み入れた領域そのものに、何かが作用している。
渾身の力でザイルの体を引きずり、後退する。
一歩、また一歩。境界線から離れるにつれ、頭痛が薄れていくのを感じた。そしてある地点を越えた瞬間——
「はっ!? 何だ、今のは……」
ザイルの瞳に正気が戻った。
自分の身に何が起きたのか、朧げながら悟ったようだった。
「どうなっているんだ……」
「恐らく、何らかの支配領域が張られています」
「そ、それはいったい、何なのですか?」
「簡単に言えば、上位の災魔が使う結界のようなものです。ウチら術式師は魔導回路があなた方より遥かに発達しているため、支配領域に対してある程度の抵抗力がありますが……」
彼らには抗う術がない。
精神を完全に乗っ取られ、肉体だけが動かされている。
ミラフィスの視線が、屍のように歩き続ける鉱夫たちに向けられた。
「あのまま長く留まっていたら、彼らと同じ状態になっていたでしょう」
これほど強力で広範囲な精神支配を行えるものは、そう多くない。
手練れの術式師か、あるいは高位の災魔か——いずれにせよ、非常事態であることに変わりはない。
ミラフィスはギルドへ救援要請を送るべくDOCの通信機能を起動させようとしたが、鉱山の最深部に近いこの場所では外部への接続は叶わなかった。
「あ、あれは……」
ザイルが何かに気付いたように、前方を指差す。
今度は歩く鉱夫たちではなく、その先の地面を。
ミラフィスが目を凝らすと、薄暗い坑道の奥に何かが散乱しているのが見えた。
「失踪現場と、同じ……」
作業服、ヘルメット、安全靴、ベルト、水筒——鉱夫たちの装備一式が、脱ぎ捨てられたように地面に散らばっている。
それも一人や二人分ではない。少なくとも十数人分。
散り散りだった点と点が、一本の線で繋がっていく。
それを裏づけるように——前方でコトン、と装備一式が地面に落ちた。
見渡すと、頭数がひとつ少ない。たった今、目の前でさらに一人が消えたのだ。
一人が消えたら後は雪崩を打つように、また一人、また一人。
操られた鉱夫たちの肉体は眼前で溶けるように消えていき、数十秒と経たぬうちに装備だけが坑道に山積みとなった。
そして——
坑道の奥、薄明の光射し込む開けた空洞から、巨大な影がゆらりと立ち上がる。
「……そういうことね」
それは、人智を超えた異形の存在だった。
全高は優に3メートルを超え、人間など容易く押し潰せるほどの巨躯。
その姿形はおよそこの世の摂理に則ったものではない。
両腕があるべき場所には、巨大な天秤のような触腕が生えている。
体表は鱗とも皮膚ともつかない奇怪な質感に覆われ、所々から触手のような器官が蠢いている。
黄金色に輝く天秤の皿からは不気味な燐光が漏れ出し、周囲の空気を陽炎のように歪ませていた。
——間違いない。あれこそが、彼らを誘い、消し去った者の正体だ。
「災魔……それにあれは……魔眼?」
頭部の上にはぷかぷかと浮遊する球体がひとつ。
それはミラフィスたちの姿を捉えると、ぐるりと一回転した。
真っ直ぐにこちらを凝視する、血走った巨大な一つ目。
術式師の異能のひとつに数えられる魔眼に酷似する、威圧感に溢れた容貌。
「こいつが、全ての元凶かっ……!」
ミラフィスは即座にDOCを起動し、解析を開始する——が。
『アーカイブに該当データはありません』
無情なエラー音が鳴った。データが存在しない完全な新種。
——アーカイブに登録されていない災魔と遭遇した場合、決して交戦せず、直ちにその情報を持ち帰れ。
ジュリアナの厳命が脳裏に蘇る。
上官の命令は絶対だ。ここは撤退すべき。理性がそう告げている。
しかし、目の前の状況がそれを許さない。巨大な災魔は、残された坑道の出口方面を完全に塞いでいた。
「ふぅ——命令違反、するしかないっての……!」
ミラフィスは吐き捨てるように呟いた。
命令違反になることは分かっている。だが、術式師の使命は人々を守ること。
先行した鉱夫たちは救えなかった——けれど、後ろにはまだ、逃げる途中の鉱夫たちが残っている。
救える命を見捨てる選択肢など、彼女の中には端から存在しない。
「ザイルさん、無事な人たちを連れて、できるだけ後ろへ!」
毅然とした声で告げると、ミラフィスは術式構築の態勢に入った。
全身の魔導回路が活性化し、指先に魔導粒子が集束していく。
「術式駆動!」




