Code:074 鉱山の異変②
程なくして、地の底から湧き上がるような轟音が、坑道全体を激しく揺さぶった。
続いて天井から降り注ぐ不吉な音の連鎖。バキバキと軋む支柱、ゴロゴロと転がり落ちる岩塊、そして何よりも恐ろしいのは、頭上の岩盤そのものが発する巨大な圧力の唸り声だった。
「うわあああ! 崩れるぞ!」
「逃げろ! 全員逃げろ!」
つい数分前まで「天使の鼾」と軽口を叩き、特別手当に浮かれていた鉱夫たちの顔が、一瞬にして蝋人形のように青ざめた。
現場監督のゴルドは真っ先に器具を投げ捨て、部下たちを押しのけるようにして出口へ駆け出す。
「おい、待てよ!」
「順番に行け、順番に!」
狭い坑道の入り口に鉱夫たちが殺到し、阿鼻叫喚の様相を呈した。
互いの肩がぶつかり、転倒する者、踏みつけられる者、這いつくばって進もうとする者。
人間の本能が剥き出しになった光景がそこにあった。
「ザイルさん、これは一体!?」
ミラフィスは激しく揺れる地面に膝をつきそうになりながら、必死に声を張り上げた。
頭上から降り注ぐ小石が、彼女の金髪を土埃で汚していく。鋭い痛みが額を走った。温かい液体が頬を伝う——血だ。
「逃げろ! 今すぐに!」
ザイルの顔は死神を見たように歪んでいた。
普段は落ち着いた責任者としての矜持を持つこの男が、今や恐怖に呑まれた一人の人間と化している。
「これは……これは災魔なんかより、ずっと恐ろしいことだ!」
坑道を走りながら、ザイルは息も絶え絶えに叫んだ。
声は裏返り、時折咳き込みながらも言葉を繋ぐ。
「この地鳴りは……山が動いている証拠だ! 崩落の前兆……いや、もう始まっている! 一刻も早く第三区画から離れなくては……このままじゃ全員、生き埋めになる!」
その言葉を裏づけるように、背後から巨大な崩落音が轟いた。
ドドドドッという連続的な衝撃が坑道を震わせ、濃密な砂塵が津波のように押し寄せてくる。
しかし、ミラフィスの意識は別のところに向けられていた。
走りながら振り返る彼女の瞳が捉えたのは、先ほどまで調査していた壁面だった。
あの不自然な爪痕のような傷跡、石が物理法則を無視して跳ね返った場所。
そこに確かに在ったはずの「何か」の気配が、煙のように掻き消えている。
(「気配が、消えた……?」)
「ミラフィス様! 何をボーッとしているんですか!」
ザイルの怒鳴り声が鼓膜を打った。彼の顔は土埃と汗で泥のようになり、目だけがギラギラと光っている。
「呻き声の正体なんてどうでもいい!」
確かに、今は推理をしている場合ではない。ミラフィスは奥歯を噛みしめ、全速力で坑道を駆け抜けた。
狭い通路の壁に肩がぶつかり、鋭い岩肌が隊服を引き裂く。
それでも足は止められない。背後から迫る崩落の音は、巨大な獣の咆哮のように彼らを追い立てた。
やがて前方から、絶望的な叫び声が響いてきた。
「ダメだ! 出られない!」
「嘘だろ……嘘だと言ってくれ!」
ミラフィスとザイルが鉱夫たちに追いつくと、そこには地獄のような光景が広がっていた。
正規の脱出ルート——第三区画から第二区画へと続く唯一の通路が、天井から崩れ落ちた巨大な岩塊によって完全に封鎖されている。
瓦礫の山は優に三メートルを超え、隙間という隙間から白い砂埃が噴き出していた。
「くそっ、俺たちは……生き埋めになるんだ!」
誰かが膝から崩れ落ちた。続いて、次々と鉱夫たちが打ちひしがれていく。
ある者は瓦礫に拳を叩きつけ、血を流しながらも掘ろうとした。
別の者は地面に額をつけて神に縋り始めた。
「助けてくれ! 誰か助けてくれ!」
「まだ死にたくない! 家族が待ってるんだ!」
過呼吸を起こし、苦しそうに胸を掻きむしる。
泣き叫ぶ声、怒号、祈りの言葉——それらが混然一体となって坑道に反響する。
「皆さん、落ち着いて! 落ち着いてください!」
ミラフィスは声を張り上げたが、恐慌状態に陥った男たちの耳には届かない。
それどころか、現場の最高責任者であるはずのザイルまでもが、正気を手放しかけていた。
「あの呻き声は……あれは山の神様の警告だったんだ……」
ザイルは虚ろな目で宙を見つめ、譫言のように呟き続ける。
額には玉のような汗が浮かび、全身が小刻みに震えていた。
三十年以上も鉱山で働いてきた男の経験は、最悪の結末が刻一刻と迫っていることを、誰よりも正確に理解しているのだろう。
(「違う……これはただの自然現象じゃない」)
そんな状況でも、ミラフィスは確信していた。
あの壁面に潜んでいた「何か」。不自然なタイミングで起きた崩落。そして、忽然と消えた気配。
すべてが、偶然の皮を被った作為だ。誰かが、あるいは何かが、意図的に彼らをこの地下深くに閉じ込めようとしている。
だが今は、精緻な論理よりも一本の藁が必要だった。
ミラフィスは素早くDOCを起動させ、普段はあまり使わない特殊な機能を呼び出した。
「魔導粒子追跡モード、起動」
画面に浮かび上がったのは、坑道内を流れる魔導粒子の動きを可視化した立体マップだった。
光の筋が、まるで生きた血管のように坑道を巡っている。
その流れは一定ではなく、ある方向へ向かって緩やかに収束していた。
「皆さん、聞いてください!」
今度はDOCのスピーカー機能で声を増幅させた。
坑道全体に声が響き渡り、ようやく鉱夫たちの目がこちらを向く。
「見てください、この魔導粒子の流れを!」
ミラフィスはDOCの画面を高く掲げた。立体投影された光の筋が、暗い坑道を幻想的に照らし出す。
「魔導粒子は完全な閉鎖空間では循環しません。必ず外界との接点を求めて流動します。つまり、この流れが向かう先には——別の出口があるはずです!」
「本当か!? 本当に出口があるのか!?」
鉱夫の一人が、縋るような声で叫んだ。
「ええ、これは魔導学の基本原理です。ウチの言うことを信じて、ついて来てください!」
「おおっ、流石は術式師様だ!」
「頼む、俺たちを助けてくれ!」
「子供が……まだ小さい子供が待ってるんだ!」
絶望の淵から一転、彼らの目に生きる意志が蘇った。
ミラフィスは頷くと、魔導粒子の流れが示す方向——普段は使われていない古い横穴へと足を向けた。
狭く薄暗い横穴は、何十年も前に掘られて放棄された坑道だった。
天井は低く、大柄な鉱夫たちは腰を折って進まなければならない。
壁面には古い採掘跡が残り、所々で水が滴っている。
足元は泥濘と化し、一歩ごとに不快な音を立てた。
それでも、この先に出口があるという確信が彼らの足を前に運ばせている。先ほどまでの蒼白な顔に、わずかながら血の色が戻りつつあった。
やがて、坑道が大きく開けた。前方から、ほんのわずかな光が射し込んでいる。
「光だ! 出口があるぞ!」
「あそこまで走れっ!」
「待って、皆さん、慌てないで!」
一部の鉱夫たちはミラフィスとザイルと追い越して、我先にと一斉に駆け出した。
助かる——その安堵が全身に力を漲らせている。
しかし、ミラフィスの表情だけが、晴れなかった。
DOCに映る魔導粒子の流れが、光の射す方向へ向かっていない。
粒子が収束する地点は射し込む光の方向と重ならず、不自然に淀んでいる。
そして、次の瞬間。DOCが耳をつんざくような警告音を発した。
画面が真っ赤に染まり、点滅を始める。
ミラフィスは走りながら数値を確認し、愕然とした。
「これは……!」
魔導粒子濃度の数値が、見る見るうちに跳ね上がっていく。
(「なぜ、このタイミングで……!?」)
指先から、急速に温度が引いていく。これほどの濃度上昇は、通常では有り得ない。
崩落とは別の理由。そして、その原因を作った何者かが——この先にいる。
「いったい、どうしたんです!?」
「そんな、まさか……」
「ミラフィス様?」
「みんな、止まってっ!!」




