Code:073 鉱山の異変①
* * *
翌日、ミラフィスは宿舎の外でザイルと合流した。
鉱山の朝は早い。入り口付近では既に早番の鉱夫たちが準備を始めており、金属のぶつかる音と男たちの野太い声が辺りに木霊していた。
冷たい山の空気が肺を刺すように流れ込み、吐く息が白い靄となって掻き消えていく。
「おはようございます、ミラフィス様。よく眠れましたか?」
ザイルの問いかけに、ミラフィスは曖昧に頷いた。
実際のところ、夜通し頭を悩ませていた違和感のせいで、まともに眠れたとは言い難い。
ベッドの中で何度も寝返りを打ち、天井の木目を数えるともなく数えながら朝を待った。
しかし、それを表に出すつもりはなかった。
「今日も第三区画の調査を?」
「ええ。やはり何かあるとすれば、あの区画でしょう」
ミラフィスはDOCを確認しながら答えた。
画面に表示される魔導粒子の測定データは、昨日とほぼ同じ数値を示している。
だが、数値が正常であることと、安全であることは同義ではない。
彼女の直感は、その隔たりをしきりに訴えていた。
二人は再び坑道へ足を踏み入れた。
ランプの光が、湿った岩肌をぬるりと照らし出す。
「昨日と同じルートで進みましょうか」
ザイルの提案に頷きながら、ミラフィスは周囲に目を配った。
そして、しばらく歩いて再び第三区画のゲート前に到着した瞬間——またあの呻き声が耳を打った。
ウゥゥ……オォォォ……
低く、規則的な唸り。まるで巨大な獣の寝息のようだ。
短い時は数十秒、長い時は数十分の間隔で繰り返されるその音は、坑道の奥からチューブで絞り出したように、途切れ途切れで響いてくる。
ミラフィスとザイルは顔を見合わせ、互いの不安を確かめるように視線を交わした。
「やはり聞こえますね」
「ええ……昨日と全く同じです」
二人は慎重に歩を進める。ランプの光が届く範囲を隈なく照らし、影の中に潜む何かがいないか確認しながら。
しかし、相変わらず視界に入るのは薄暗い坑道と、壁に食い込んだ耀魔鉱の輝きだけだった。
「本当に、何もいませんね……」
ミラフィスが呟いた時、前方から複数の声が聞こえてきた。
男たちの笑い声と、金属音が入り混じった喧騒。
振り返ると、ザイルが苦い表情を浮かべている。
「特別手当目当ての連中です。恐怖に打ち勝つ最良の薬は金だと言いますが……まさかこれほどとは」
第三区画では、今でも十数人の鉱夫たちが採掘作業を続けていた。
鶴嘴を振るう音と、時折交わされる下品な冗談。
意外にも、汗にまみれた男たちの表情には、恐怖の色など微塵も見られない。
最初はどうだったか知らないが、今の彼らにとって、不気味な呻き声はもはや日常の一部と化していた。
「おい、今の聞いたか? またまた、お目覚めだぜ!」
「ははっ、今日も稼がせてもらうとするか!」
鉱夫たちの軽口が飛び交う中、ミラフィスは眉を顰めた。
人間の適応力というものは恐ろしい。最初は恐怖の対象だったものも、利益と結びつけば親しみの対象にすら変わってしまう。
重点的に採掘が行われている場所へたどり着くと、ミラフィスの目が壁面の一点に釘付けになった。
「これは……」
採掘の痕とは明らかに異なる、不規則な傷が岩肌に刻まれている。
まるで巨大な爪で引っ掻いたような、あるいは何かが這いずり回ったような痕跡だった。
傷の深さは不均一で、ところどころ岩が抉れたようになっている。
「ザイルさん、これは?」
ミラフィスが指差す壁面を見て、ザイルは眉根を寄せた。
「ん? ああ、それは……」
彼は傷に近づき、指先でなぞるように確認する。
「確かに、以前はなかったはずですが……いつ頃からでしょうか」
「最近ですか?」
「おそらく。ただ、採掘中にこういった傷がつくことは珍しくありません。別の場所を掘った際の振動で、このような痕跡が生じることもあるでしょう」
彼の説明は理にかなっていた。
しかし、ミラフィスの術式師としての直感は、これが単なる採掘の副産物ではないと告げている。
傷の配置、深さ、角度——どれを取っても、鶴嘴や機械工具の掘削痕としては説明のつかない歪さがあった。
思考を巡らせていると、ザイルは近くで作業していた鉱夫の一人に声をかけた。
「ゴルド! ちょっと来い!」
ゴルドと呼ばれたその男は、日焼けした顔に人懐っこい笑みを浮かべながら近づいてきた。
筋骨隆々とした体躯に作業服がぴったりと張り付いている。
どうやら彼が、このエリアの現場監督であるらしい。
「ザイルさん、どうしたんです?」
ゴルドの視線がミラフィスに移った。
「へぇ、お嬢ちゃんがギルドから来た術式師か? 思ったより若いんだな」
「ゴルド、最近の状況はどうだ? 皆、大丈夫か?」
ザイルの問いに、ゴルドは豪快に笑った。
「ははっ、最高ですよ! いやぁ、最初はあの呻き声にビビってましたがね、今じゃ俺も他の連中も全然平気さ。慣れってのは恐ろしいもんで、今じゃあの声が聞こえないと逆に不安になるくらいだ」
「不安に?」
ミラフィスが口を挟むと、ゴルドはにやりと笑った。
「そうさ。あの声が聞こえる限り、特別手当が出るからな。むしろ感謝してるくらいだ」
「感謝だと?」
ザイルの声に怒気が混じる。
「そうですよ。特別手当のおかげで稼ぎが倍になったんだから。女房も喜んでるし、ガキどもにも良いもん食わせてやれる。あの呻き声は『災魔の呼び声』なんかじゃない、『天使の鼾』ってもんだ!」
周りの鉱夫たちも同調するように笑い声を上げた。
「そうだそうだ! 天使様々だぜ!」
「もっと大きな声で鼾かいてくれりゃ、手当も増えるってもんだ!」
「馬鹿者どもが……!」
ザイルは怒りを抑えきれず、顔を真っ赤にして叫んだ。
「お前たちは仲間が行方不明になったことを忘れたのか!?」
「だからこそ、俺たちは働いてるんじゃないですか」
ゴルドの表情から笑みが消えた。
「グラッドとホークの分まで、俺たちが稼がなきゃならねぇ。あいつらの家族のためにもな」
重い沈黙が坑道に落ちた。
ザイルは悔しそうに唇を噛み、やり場のない感情を堪えきれず、足元に転がっていた石を思い切り蹴り飛ばした。
カンッ!
石は勢いよく壁に当たり、鋭い音を立てた。そして——
カン、カン、カン……
何度か跳ね返りながら、地面に落ちる。
その瞬間、ミラフィスの表情が凍った。
(「今の軌道……何かがおかしい」)
石が壁で跳ね返る軌道——それが途中で明らかに不自然な挙動を見せたのだ。
最初の跳ね返りは通常通り。
だが二度目、三度目で、まるで見えない何かに弾かれたかのように、物理法則を無視した角度で逸れた。
術式師としての訓練で研ぎ澄まされた動体視力が、一瞬の異常を捉えていた。
「ザイルさん」
ミラフィスはザイルの肩を引く。
「作業員を退避させてください。今すぐに」
「え? どういうことですか?」
ザイルは困惑した表情を浮かべる。
「あの壁面に……何かがいるんです……!」
ミラフィスは奥の壁面を指差した。
しかし、そこには何も見えない。ただの岩壁。あるとすれば、先ほどの不気味な傷跡が残っているだけの、どこにでもある坑道の壁だ。
「先ほどあなたが蹴った石、あの壁面で異常な跳ね方をしました。二度目と三度目の跳ね返りで、角度が物理的にあり得ない方向に変わったんです」
「それは……確かに凄い動体視力ですが、それだけで皆を撤収させるわけには……」
ザイルが言葉を濁す。責任者として、確たる証拠もなく作業を中断させることはできない。その立場は理解できた。
「こう言っては失礼ですが、何もなかった場合、責任を取って頂けるのですか?」
少し無礼な物言いだった。けれどもミラフィスは怒りを見せるどころか、それを遮るようにDOCの画面を突きつけた。
「これを見てください!」
ミラフィスが声を荒げるのは、珍しいことだった。
「石が変な跳ね方をした瞬間、魔導粒子濃度が急上昇したんです! 通常の十倍以上の数値……これがどういう意味か分かりますか?」
ザイルの顔から血の気が引いた。
誤差範囲を大きく逸脱する魔導粒子濃度の急上昇は、強力な術式の発動か、災魔の活動を示す——そして、この場所で術式を使える者はミラフィスただ一人。
彼女が何もしていないということは。
「まさか……」
何か言おうと口を開いた、まさにその時——
ゴゴゴゴゴッ!
轟音と共に、第三区画全体が激しく揺れた。
「うわぁぁぁ!」
「地震だ!」
鉱夫たちの悲鳴が坑道に反響する。
天井から小石が雨のように降り注ぎ、支柱が悲鳴じみた音を立てて軋む。
地響きは収まる気配を見せず、むしろ、一拍ごとに強さを増していく。
ピキッ、ピキピキッ……
ミラフィスが指差していた壁面に、亀裂が走り始めた。それは蜘蛛の巣のように広がり、岩肌を容赦なく引き裂いていく。
「総員、退避! 今すぐ坑道から出ろ!」




