Code:072 呻き声②
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明け方の冷たい空気がギルド【オルフェウス】の窓ガラスを震わせる頃、アルトはとうに目を覚ましていた。
ベッドの上で腕を組んだまま、天井を見つめている。
昨晩から胸裏に引っかかっていた棘が、夜明け前の静寂の中でいよいよ無視できない大きさになっている。
窓の外はまだ群青に沈んでいる。
彼は身を起こし、手早くDOC端末を操作して通信チャンネルを確立した。
「起きてるか、ヴァラム?」
「生憎、寝てすらいないよ」
いつもの皮肉めいた声色が返ってくる。
額に垂れた黒髪を掻き上げ、ヴァラムは眠そうに目を擦った。
画面の背後に散らばる空き缶の数が、削った睡眠時間を物語っている。
「君から連絡なんて、珍しいね。しかもこんな時間に」
「聞きたいことがある」
アルトは前置きを省いた。
「ミラフィスがリドフォードへ向かったことは知っているか?」
「へえ、そうなんだ、まったく知らなかったよ。極秘任務ってところかい?」
嘘を吐いているようには聞こえない。否、この状況で駆け引きをするメリットが彼にはない。
「耀魔鉱採掘場での任務らしい。何でも、災魔みたいな呻き声が聞こえてくるってことで、ジュリアナの命令で出発したみたいだ。あんたも知らないってことは、ギルドのほとんどには知らされていないんだろうな」
「なるほど、リドフォードか」
声のトーンが一段低くなった。
皮肉の色が消え、地の知性が剥き出しになる瞬間——アルトはこの男の、こういう切り替わりが嫌いではなかった。
短い沈黙。それから、キーボードを叩く音が端末越しに走った。
速い。迷いのない打鍵だ。次の瞬間、アルトのDOCに新たなデータが転送されてきた。
「これを見てくれ」
画面に投影されたのは、ルーネスハーベンを中心とした地脈の分布地図だった。
複雑に蛇行する線が何層にも重なり合い、その太い一本が、リドフォード採掘場の真下を貫いている。
「耀魔鉱が大量に採れる場所だけあって、太い地脈の上に位置している。それ自体は自然、いや当然だ。しかし——」
ヴァラムは地図を拡大し、赤い×印で示されたいくつかの座標を指し示した。
「これまでの仮面の集団の出現地点を重ねてみてほしい。奴らはまるで地脈をなぞるように移動している。その流れで行きつく先の候補は幾つかあるが——リドフォードの耀魔鉱採掘場へも繋がっているんだ」
アルトは眉を寄せ、投影された地図に視線を縫い付けた。
複数の赤点と地脈の曲線。重ね合わせた途端、そこに浮かび上がる法則性は明白だった。
偶然で片づけるには綺麗すぎる。
「……いつからこのデータを?」
「纏め始めたのは二週間ほど前さ。ただ、確信が持てたのは今だよ。君の話を聞いて、最後のピースが嵌まった」
ヴァラムは独りで、地脈と仮面の集団の行動パターンを照合し続けていたということだ。
報告もせず、確証が得られるまで黙っていた——その執念深さは、敵に回したくない類のものだった。
「呻き声の正体は、災魔だと思うか?」
「それは、僕にも分からない」
ヴァラムはその一点に関しては率直に認めた。
「だが、そこは重要じゃない。重要なのは、仮面の集団が何らかの実験を行っている可能性が高いということ。呻き声の正体が災魔であろうとなかろうと、本質は変わらない」
「出てくるのは、手練れの刺客か、摂理に反いた災魔か——どちらにしても、碌な話じゃねぇな」
アルトの声は冷静さを装いつつも、その底には焦燥がにじり出ていた。
もし、二人の懸念が正しければ、ミラフィスは単独で敵と交戦せざるを得なくなる。
採掘場には屈強な男たちが大勢いるだろうが、その殆どは一般人、戦闘時の役に立たないどころか、守ってやらねばならない対象だ。
彼女のことだから、そういった者たちを守ったり逃がしたりするために無茶もするだろう。
その結果、どうなるか。それは、アルトにとって最も据わりの悪い想像だった。
「……俺も今から現地へ向かう」
「何のために?」
「奴らを叩き潰す」
「司令官の出撃禁止命令は?」
「知らねぇな」
即答だった。ヴァラムは小さく笑い声を漏らす。
「流石は焔血王だね。乗りかかった船だ、手伝ってあげるよ」
「任せた」
通信はそこで途切れた。
アルトは最低限の荷物だけ掴んで部屋を飛び出し、ヴァラムは拡張された無数のディスプレイを睨みながらキーボードを叩く速度を上げる。
程なくしてデータが転送され、アルトのDOCには採掘場周辺の詳細な地図が展開された。
「準備はできているね?」
「ああ」
ミラフィスと同じく、高速魔導トラムの乗り場へ向かう。
ただし、VIP専用車両ではなく一般用の廉価な列車を選び、雑踏に紛れるように身を滑り込ませた。
狭い車内はすでに立ち客で溢れ、饐えた汗と安い煙草の残り香が充満していた。
隣には仕事場へ向かうらしい労働者たちが身を寄せ合い、疲弊した表情を晒している。
高速魔導トラムが動き出し、窓の外で景色が後方へ流れ始める。
ヴァラムからの情報、仮面の集団と地脈の相関。それらの断片を繋ぎ合わせれば、真実の輪郭が浮かび上がるはずだ。
車両が大きく揺れ、隣の乗客の肩がアルトにぶつかった。しかし、彼の意識は微塵も乱れない。
思考はただ一点。リドフォードの坑道の奥に、何が待っているのかだけに向けられていた。
車窓を睨み据えるその眼差しには、かつての焔血王の翳りが、確かに宿っていた。




