Code:066 動き出す狂気の予兆①
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時計の針が真上を指す頃、アルトは窓辺から満月を見上げた。
「さて、そろそろ行くか」
DOCの画面表示を頼りに、ヴァラムとの待ち合わせ場所まで向かう。
アルトは目立たないよう隊服の上にコートを重ね、寮の影に溶け込むように静かに歩き出した。
呼び出された先、西エリア・オレイア区の最深部。
華やかな商業地区から見れば、まるで裏返しの世界のようなスラム街の入り口で、アルトは顔をしかめる。
「本当にここで合ってるんだろうな?」
腐敗した食べ物と安酒の匂いの混ざり合う空気が、肺の中まで侵入してくるようだった。
路地の隅に転がる酔っ払いたちと、壁の影で違法な薬物に溺れる者の虚ろな目。
それらをすり抜けるように、アルトは深く息を吸って前進した。
「遅いよ、迷子にでもなっていたのかい?」
薄暗い街灯の下、バケットハットを被ったヴァラムが壁にもたれかかっていた。
「わざわざこんな場所を選ぶなんて、お前の趣味か?」
「んなわけないだろう。だが、重要な情報は闇の中にこそ眠っているものさ」
「勿体ぶらずに話せよ」
「……とある男に、会いに来た」
ヴァラムは周囲を確認すると、声を落として告げた。
「かつて、《黒い鉤爪》に所属していた末端構成員。組織壊滅時に捕まって服役し、最近出所した人物だ」
《黒い鉤爪》——その名は、アルトの心に眠る怒りを一瞬で呼び覚ました。
三年前、すべてを奪われた記憶が脳裏を焼く。
彼の眼差しに宿る復讐の炎にヴァラムは気づいたのか、何も言わずに細い路地へと歩みを進めた。
「そいつはどこにいる?」
「こっちだ」
小道は迷宮のように入り組み、喧騒からはますます遠ざかっていく。
スラム街の最奥へと足を踏み入れるにつれ、独特の押し潰されたような重い空気が、より鮮明に感じられるようになる。
「ちょっと待てよ、そこのガキども」
不意に前方から、酔いに任せた荒々しい声が聞こえて来た。
よろめく足取りで近づいてくる男たちの集団は、この場所に似合わない二人を明らかに標的としていた。
「こんな時間に散歩とは、関心しないねェ」
先頭の男が二人の前に立ち塞がり、特にアルトの姿を眺めると下卑た笑みを浮かべた。
「随分と可愛い子を連れてるじゃねえか、ちょっと貸してくれや、兄ちゃん」
「誰が女の子だ、ぶっ飛ばすぞ」
転生後の外見から可愛い扱いされるのにはもう慣れたが、いくら慣れても群がる蝿は鬱陶しいものだ。
過去の自分だったら、こんな小者、一瞬で叩き潰せただろう。
外見に似合わぬ強烈な殺気が無意識に放たれる。
生憎にも、酩酊状態の彼らにそれを感じ取ることはできなかったようだが。
その時、ヴァラムの手がそっとアルトの肩に置かれた。
「まあまあ、ここは穏便に行こうじゃないか」
ヴァラムはアルトを制して前に出ると、腕をだらんと垂らして無防備に男たちへと近づいていく。
「やんのか、兄ちゃん。面白れぇ、言っておくが、俺らはストリートの喧嘩じゃ負けたことが——」
彼らを率いるリーダー格の男が腕を振り上げたその瞬間、ヴァラムの指先が閃いた。
「術式駆動――《昏く蝕む絶影》」
以前にも一度見たことがある黒い霧の術式が指先から噴出し、男たちを包み込む。
それは、這い回る虫のように全身に纏わりつき、彼らはあっという間に人間の形をした黒い塊に変貌してしまった。
「何だこれっ! 何も見えねぇ!」
「ここはどこだっ!? お前ら、どこにいるっ!?」
「うわぁぁっ、助けてくれぇっ!」
彼らは地上で溺れるかのように、藻掻きながら霧の中で右往左往し始める。
「殺してないよな? 一般人だぞ?」
アルトはドン引きした様子で尋ねるが、ヴァラムは冷ややかな笑みを浮かべたままだ。
「流石に僕も豚箱に入りたくはないんでね。心配しなくても、数時間で解けるさ。まあ、その時まで正気を保っていられるかは保証できないけどね」
しれっと怖いことを言い放つと、ヴァラムは何事も無かったかのように路地を進んでいく。
アルトもまあ良いか、と後に続いた。
スラム街の奥へと進むにつれ、通りはさらに狭く、薄暗くなっていく。
行き止まりのような場所に、廃墟の中に取り残されたような小さな露店が一つ。
古びた看板の下、黄ばんだランプの光が細く揺れていた。
無数の小さな部品や道具が所狭しと並べられているその店で、白髪交じりの中年男が生気のない目をして座り込んでいる。
「失礼、ちょっといいかな?」
ヴァラムの軽やかな声に、中年男はゆっくりと顔を上げた。
疲れ切った表情で急な来訪客を一瞥すると、羽虫を払うように手で仰いでくる。
「帰れ。今日はもう店じまいだ」
「そこを何とか、聞きたいことがあるんだ……なぁ、元《黒い鉤爪》、鉄槌小隊のゼルグさんよぉ」
ヴァラムがかつての所属を口にすると、その表情が一瞬で強張った。
中年男・ゼルグは急いで周囲を見回し、舌打ちをした。
「どこでその名を……誰だお前ら……俺に一体何の用だ……?」
「君らの部隊を壊滅させた術式師・レイザークの弟子と言えば分かってくれるかな?」
ゼルグはあからさまに機嫌を悪くし、敵意を露わにする。
アルトは思わず身構えるが、どうやらこの場で一戦を交えようという雰囲気でもなかった。
「裏に来い」
露店の裏手は人が一人住める程度の小さな居住空間になっていた。
年季の入った寝具と、わずかな生活用品だけが物悲しく置かれた空間だ。
「何が聞きたい」
「ルーネスハーベンを中心に出没している仮面の集団、その正体についてだ」
「存在は知っているが、詳細は知らん」
「嘘を吐け。お前は知っているだろう? 何せ、奴らを造る技術は《黒い鉤爪》が開発したんだからな」
「……どういうことだ、ヴァラム」
「それを、今からこいつに喋らせる」
ヴァラムの言葉にゼルグの顔から血の気が引いた。彼は全身を震わせ、後ずさりする。
「……ダメだ、その話はできん! お前らも、命が惜しければ今すぐこの件から手を引け! さもないと……」
「さもないと?」
「奴らに、殺される……!」
ゼルグの恐怖は明らかだった。
かつてその組織に所属していた者特有の、何かに怯える目つき——アルトにはそれがよく分かる。
「妙だな、組織は13年前に壊滅したんじゃないのか?」
ヴァラムが答えを知っているかのようにわざとらしく問いかけると、ゼルグは嗚咽するように首を振った。
「壊滅? そんなわけがあるか……!」
彼の声は震え、恐怖に引き裂かれていく。
「確かに、13年前の一斉捜査で建前上は崩壊した。だが、切られたのは傀儡の幹部と俺らのような蜥蜴の尻尾だけ。雑草の根っこを丸ごと残したように、奴らは水面下で今も暗躍している。何も、終わっちゃいないんだ……」
大の男が幼子のようにぶるぶると震えながら泣きそうな声で語っている姿は、それらを真実だと感じさせる重みがあった。
アルトとヴァラムは顔を見合わせる。
「つまり、《黒い鉤爪》の残党と仮面の集団が関わっていることは、否定しないんだな?」
ヴァラムの問いにゼルグは両手で耳を塞ぐように身を縮こまらせた。
「アレを造る技術力とトチ狂った倫理観の組織が他にいてたまるか……!」
「待てよ、あんたの言い方だと、仮面の集団は……人間じゃないのか!?」
アルトは戦慄を覚えながら尋ねる。
脳裏に浮かんだのは、かつて一戦を交えた術式師殺しと呼ばれる機械兵士の刺客だ。
「おそらく、そうだろう。組織は人間に代わる兵士の開発を進めていた。尤も、導き出された最適解は混じり気のない機械では無かったようだが……」
ゼルグは苦悶の表情を浮かべ、しばらく沈黙した後、とある言葉を口にした。
「奴らは……世界をひっくり返すための“実験”を行っている」
「実験?」
「仮面の集団を使った活動も、その一環だろう。だが、俺はただの下っ端、それ以上の詳しいことは分からない」
それだけ吐き出すと、ゼルグは立ち上がり、よろよろと後退していく。
「もう俺に関わらないでくれ。もし、俺の居場所が組織の残党に知られたら、俺は消されるんだ!」
そう叫ぶと、彼は裏口から逃げるように飛び出した。
追いかけようとしても、既に彼の姿はスラムの闇に消えていた。
二人は静まり返った路地裏に立ち尽くし、夜空を見上げる。
「世界をひっくり返す……実験、か」




