外伝(セティリア編) 凍てつく氷の楽園は、灼けつく想いの深淵へ
* * *
日付が変わる頃。
夜の闇が廊下に深く沈み込む中、ギルド【オルフェウス】本館から出たセティリアは視界の両端に視線を走らせ、人目がないことを確かめる。
寒空に揺れる銀色の長い髪は彼女の表面的な美しさを際立たせるが、その雰囲気は、普段とは微妙に異なっていた。
彼女の足取りはいつもと同じように規律正しく、凛然としている。
しかし、よく見れば何かが違う。
全身に纏うのは、緊張感。警戒心というより、秘密を抱える者特有の鋭敏さ。
自室の扉の前に立ったセティリアは、足を止め、再び周囲を確認する。
ゆっくりと懐からカードキーを取り出し、リーダーに翳した。
機械音が、開錠の合図を送る。
だが、それだけではない。
続いて彼女は、古い錠前の鍵穴へと別の鍵を差し込む。
「……」
現代的なカードキーシステムと古式の錠前が併存する奇妙な光景。
金属が擦れあう音は、不協和音のように響いた。
セティリアは素早く室内へ滑り込み、振り返って扉を閉める。
カチリ、ガチャリ——二重の錠前が、異なる音を立てる。
今、彼女の姿からは隊長としての風格が徐々に剥がれ落ちつつあった。
銀髪を耳にかける仕草ひとつをとっても、公の場で見せる彼女の動きとは違っていた。
肩の緊張が解け、表情に人前で見せない柔らかさが戻る。
深く息を吐き出すと、セティリアはゆっくりと左目を覆う眼帯型のDOCに手をやった。
滑らかな金属の感触を指先に感じながら、彼女はそれを取り外す。
まるで長い間つけていた仮面を脱ぐように、慎重かつ解放感に満ちた所作で。
覆いを失った左目が赤く妖しく輝き、ルビーのような深い色合いを放った。
誰にも見せることのない素顔が、この部屋でだけ息をする。
部屋の照明はまだ点いていない。セティリアは扉の脇にあるスイッチに手を伸ばす。
――カチッ。
光が室内を照らし始めた瞬間、そこに広がる光景は——
壁一面に貼られた写真の数々だった。
天井から床まで、あらゆる空間を埋め尽くすように、一人の男の姿が収められた写真が無数に貼られていた。
それはかつて、ランクS術式師として名を馳せ、《焔血王》と呼ばれた男の肖像。
笑っている姿、厳しい表情の姿、模擬戦闘のシーン、術式師たちに講義する姿、休息する姿——場所によっては何層にも重なり合い、その全てが、壁という名のキャンバスに執拗なまでに貼り付けられていた。
まるで、壊れてしまった少女の記憶を視覚化したような空間。
彼女にとっての、楽園。
部屋の隅には、小さな棚が置かれ、その中には埃を被った手紙の束、壊れたオルゴール、赤いリボン、革製の手袋、古びた本——全てが彼との思い出に関連する品々だった。
それらは不気味なまでに綺麗で、埃一つなく、神経質なまでに大切に扱われていることが一目で分かる。
部屋自体は、決して整理整頓されているとは言えない。
衣類も椅子の上に無造作に置かれている。
しかし、彼に関するものだけは、まるで聖遺物のごとく丁寧に扱われ、異様な執着を感じさせた。
セティリアの表情が緩み、女性らしいふんわりとした笑みを浮かべる。
その姿は、冷徹な隊長としての顔を脱ぎ捨て、素の自分を取り戻したかのようだった。
彼女はゆっくりと部屋の中央へと歩み寄る。
その姿は隊長として振る舞っている時のそれではなく、身体の線がしなやかに揺れていた。
壁に貼られた一枚の写真の前で立ち止まる。
笑みを浮かべるアルスフリートの姿。
撮影者を、セティリアをまっすぐに見つめるような角度で撮られている。
「ただいま、おにいちゃん」
その声は、彼女が普段使うクールな声色とは全く異なり、幼さの残る甘ったるい響きを持っていた。
まるで子供が大好きな相手にすり寄るような、無邪気さと純粋さに満ちていた。
「ねぇ、聞いて聞いて、さっきね、別の部隊の人たちが褒めてくれたの」
セティリアは写真に向かって、当たり前のように語りかけ始める。
まるでそこに本物のアルスフリートがいるかのように。
「『隊長があなたみたいな人だったら、どんなに心強いか』って言われたんだよ。わたし、ちゃんと立派な隊長になれてるかな?」
彼女は日々の出来事を、まるで本当にそこにアルスフリートがいるかのように報告していく。
時折、首を傾げ、微笑を浮かべる。
あたかも、写真の中の彼とコミュニケーションを取っているかのように。
「ふふっ、今日も頑張ったよ。隊のみんなにも、胸を張れるくらいに」
彼女は誇らしげに言う。写真に向かって。虚空に向かって。
「でもね、本当は、おにいちゃんに褒めてもらいたいんだ……」
その言葉が部屋の静寂に吸い込まれた瞬間、屋外で風に煽られた小石が跳ね、コツンと音を立てて窓ガラスの外側に当たる。
か細くも、確かな現実を知らせる音が、鳴った。
セティリアの表情に刹那の揺らぎが生じる。
まるで深い催眠から覚めるように、ハイライトの消えた彼女の瞳にうっすらとした光が差し込んだ。
笑みを湛えていた唇が引き締まり、霞んでいた視線が徐々に焦点を取り戻し、目の前の写真を本当の意味で「見る」。
そこにあるのは、ただの紙に印刷された像。
話しかければ応えてくれる存在ではなく、単なる思い出の痕跡。
言ってしまえば当たり前の事実が、彼女の意識の端に浮かび上がった。
セティリアはふと、言葉を詰まらせる。
彼女の手が写真に向けて伸びかける——しかし空を切るように止まった。
身体が一瞬だけ強張り、その視線が写真と自分の手の間を迷うように行き来する。
そこには誰もいない。
彼女もそれを知っている。知っているはずなのに——
「みんな言うの、『《焔血王》は死んだ』って」
彼女の眼差しが鋭く変わった。
そこにあるのは凍りついた湖のような冷たさ。
普段の冷たさとは異なる、激情に満ちた冷たさ。
「……信じない、絶対に」
彼女は握り締めた拳で、机をバン、と強く叩きつけた。
今や彼女の瞳には、揺るぎない確信と、狂気の淵に立つ者だけが持ち得る輝きが宿っていた。
それは愛情と妄執が融け合った、危うい均衡の上に成り立つ感情だ。
「だって、おかしいよね? 確かにあの日、おにいちゃんは行方不明になった。でも、遺体は今でも見つかってないんだもん」
その声には、自分を納得させようとする強引さが含まれていた。
論理的思考で埋めようとして、どうしても埋まらない空洞を抱える者の悲痛な叫びのようでもあった。
セティリアの手が写真に触れようとして、空中で止まる。
その指先が震える。まるで火傷を恐れているかのように。
そこに「誰もいない」――彼女もどこかでそれを理解しているはずなのに。
「嘘つき……っ」
現実との境界線が見え隠れし、セティリアの表情が歪む。
冷風が心の奥底を吹き抜けたかのように、彼女の瞳に一瞬だけ理性の光が戻る。
だが、彼女は振り払うように首を横に振った。
現実を、拒絶するかのように。
「でも、大丈夫。わたしはね、信じてるよ。おにいちゃんは、きっと戻ってくる。だって、約束したじゃない? ずっと、一緒にいてくれるって」
セティリアの声は、再び甘く蕩けるような音色を取り戻していく。
彼女は静かに写真立てを持ち上げ、顔の前に近づけた。
「だから、早く帰ってきてね」
薄明かりに照らされたセティリアの影が壁に映り、シルエットの口と手に持った写真が重なり合う。
「ずっと、ずぅっと、待ってるから」
彼女の囁きは神への祈りのようでもあり、あるいは遥か彼方の愛しい人への密やかな呼びかけのようでもあった。
その仕草には、少女の初々しさなど欠片もない。
あるとするなら、何年もの間繰り返されてきた儀式のような荘厳さ。
それは愛情の表現というには余りに重く、執着と信仰が融合し、常軌を逸していた。
「大好きだよ、おにいちゃん」
セティリアは再び写真を元の位置に戻し、そっと目を開けた。
左目の赤い魔眼が、闇の中で輝いている。
月の光が雲に隠れ、部屋はより深い闇に包まれた。
しかし、セティリアの瞳の輝きは消えることなく、むしろ強さを増していく。
それは彼女の心の闇——決して消えることのない、灼けついた想いが成す深淵だった。
【第2章-①完結:あとがき】
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