Code:035 ミラフィス先輩①
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翌日、寮の部屋の窓辺にて、アルトは昨夜の出来事を反芻していた。
漆黒の霧に包まれた空間での密談が、未だに生々しく脳裏に焼き付いている。
ヴァラムという男もまた、《黒い鉤爪》への復讐を誓う者だという事実。
そして何より、誰もが疑いの対象になり得るというヴァラムの警告が、今も耳底で反響していた。
「どこにスパイがいるか、分からない……か」
セティリアの顔が浮かぶ。
彼女が敵だとは思わない。思いたくもない。
だが、100%の確証がないことと、信じることは、別の話だ。
感情で判断を曇らせるわけにはいかない——それが、かつてランクSとして戦場に立った者の矜持だった。
吐息まじりの独白が、薄暗い部屋に溶けていく。
その時、腕に装着したDOCが控えめな通知音を奏でた。
『寮の1階に集合。――ミラフィス』という簡潔な文面が浮かび上がる。
昨日のミーティングで指導役を任された彼女からの、最初の指示だろう。
アルトは急いで支度を整えると、窓から差し込む朝日に目を細めながら部屋を出る。
朝陽に照らされた寮の玄関口にて、金色のポニーテールが風に揺らめいていた。
凛として佇むミラフィスの姿には、近寄りがたい美しさが宿る。
知的な印象を与えるつり目の横顔は、朝の光を浴びて一層艶やかに見えた。
「おはようございます、ミラフィス先輩」
意図的に明るく投げかけた声に、彼女の肩が微かに震える。
ゆっくりと振り返る仕草には躊躇いが混じり、琥珀色の瞳が一瞬だけ揺らめいた。
視線が定まるまでの少しの間、彼女の表情には奇妙な緊張が漂っていた。
「あ、えっと……おはよう」
少し上擦った声で返された挨拶は、不器用なほど生硬だった。
ミラフィスは両手を胸の前で組み、目を逸らしたまま、続けて口を開く。
「あの、昨日の件だけど……しばらくの間、私が指導役を務めることになったから。ウチじゃ不満だと思うけど、司令官の命令だから、その、我慢して」
強がっているような調子で言い切ると、僅かに肩を落として俯く。
アルトは彼女の機微を読み取って、内心で思考を巡らせた。
(「B3ランクの実力者ってわりには、どこか控え目な奴だな。とりあえず、敵ではなさそうだし……よし、味方にしておくか」)
アルトは咳払いをして、仮面を塗り固めたような愛想の良い笑みを浮かべる。
意外かもしれないが、猫を被って心にもない振る舞いをすることは得意だった。
かつてギルド【フリューゲル】に引き取られる前の日々で会得した、忌々しい記憶の引き出しが、彼の一挙手一投足に自然体の滑らかさを纏わせる。
「そんなことないですよ?」
躊躇いのない声で告げると、アルトは彼女の手を両手で包み込んだ。
「え、ちょ、ちょっと……!」
ミラフィスの声が露骨に裏返る。
慌てて手を振り解こうとするが、アルトが両手で絡ませた指ががっちりとホールドして離そうとしない。
逃げ道を失った彼女の瞳が、右往左往と泳ぎ始めた。
「僕は、ミラフィス先輩が指導役で良かったです」
真摯な眼差しと共に紡がれる言葉に、ミラフィスの顔がみるみる上気していく。
白磁のような頬から耳まで真っ赤に染め上げられ、まるで少女漫画の主人公のように蒸気を吹き出しそうな熱を帯びている。
普段の少し威圧的に見える表情の面影は殆ど残っておらず、純情な乙女そのものの姿がそこにあった。
「も、もう! そんな上目遣いで見つめないでよ! 反則でしょ、そういうの!」
理性の糸が切れたのか、ついに素の声が漏れ出す。
その瞬間、自分の素が出てしまったことに気付き、ミラフィスは目を丸くした。
硬派な一匹狼を気取ってきた彼女の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
「って、そうじゃなくてっ、今日は任務の説明をしにきたのっ!」
慌てて取り繕おうとする声は、完全に動揺を露呈していた。
「と、とりあえずっ、ウチについてきてっ! これ、先輩命令だからね!?」
「はい、ミラフィス先輩!」
誤魔化すようにそっぽを向いて歩きだしたミラフィスの後を、アルトはぴょこぴょこと跳ねるようについていく。
(「かわいい……かわいすぎるでしょ! なんなのよ、この天使は!? どうしてそんな無邪気な笑顔で見つめてくるの!? ああもう、抱きしめたい! でも抱きしめちゃダメ! ウチはクールな先輩を演じるって決めてるんだから!」)
内なる葛藤に喘ぐミラフィスは、ところどころが濡れた小道を足早に進んでいく。
昨夜のヴァラムとの会話の後、雨でも降っていたのか、石畳には水たまりが点々と残っているようだった。
しかし、まるで心ここにあらずといった様子の彼女の視線は、前方を捉えていない。
「あぅっ!?」
水たまりに足を取られた勢いで街灯に正面衝突したミラフィスは、間の抜けた声とともに尻餅をついて転んでしまう。
「ミラフィス先輩、大丈夫ですか!?」
「べ、別に! 大丈夫だからっ!」
羞恥に染まった表情の彼女は、差し伸べられた手を取らずに慌てて立ち上がると、わざとらしい咳払いをしながら足を早めた。
その姿を眺めながら、アルトは内心でぼやく。
(「さてはこいつ……ポンコツだな?」)
ミラフィスはパタパタと埃を払いながら姿勢を正すと、つり目に気迫を宿す。
先ほどまでの動揺は影も形もなく、まるで別人のように凛とした空気を纏い始めた。
いつもの「クールな先輩」を演じる時の仮面が、少しずつ表情を覆っていく。
それを見たアルトは、この切り替えの速さにある種の感心を覚えた。
つい先ほどまで照れまくっていた様子が嘘のようだ。
「こほん、それじゃ、任務の説明を始めるよ。ギルドの術式師として、最初に覚えるべき場所は2つ」
キリっとした声が響く。
その横顔には、失いかけていたB3ランクの実力者としての威厳が戻り始めていた。
「まずはギルド本館の受付。任務の受注から報告まで、全ての手続きをやる場所はここ。次に演習場。ここは任務前に必ず立ち寄る場所。災魔に有効な術式を試し撃ちしたり、初めてのペアで任務に向かう時は、必ず事前に術式の相性や連携の順序を確認しておくこと。これは鉄則」
「あっ、演習場は昨夜、行ってきました。セティリア隊長に、術式を見てもらったんです」
「へぇ、アンタ、術式はかなり使えるんだっけ?」
「まあ、少しくらいは」
「謙遜しなくていいよ。ここに来る前、パトリックと一緒に上位個体と戦ったんでしょう?」
ミラフィスは更に一歩近づき、まるで秘密を共有するかのような声音で続ける。
「正直言って、アイツが1人で上位個体に太刀打ちできるはずはないからね。つまり……アンタが相当の実力者だってことは、みんな分かってる」
アルトは愛想笑いを浮かべながら、交換条件の口封じも無意味だったなと思いつつ、内心でやれやれとため息をつく。
「さ、あそこがギルド本館だよ。早く行こっか」
しばらく歩くと、朝陽を浴びて輝く白亜の建物、ギルド本館の前に到着した。
上品な装飾が施された外壁は春の光を反射し、正面の広い階段には既に多くのギルドメンバーたちが行き交っていた。
アルトはどこか懐かしさを胸に秘めながら、ミラフィスに続いて階段を上る。
(「さて、久々の任務と行きますか」)




