Code-034 屋上と黒猫と
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ヴァラムの姿が夜の闇に溶けるように消えた後、アルトはその場に立ち尽くしていた。
月が厚い雲に隠れ、風が止み、静寂だけが残された空間で、アルトは動くことができずにいた。
やがて雲が流れ、再び月が姿を現すまでの間、ただ虚空を見つめている。
頭の中では、先ほどまで交わした言葉が、鈍い鐘の音のように重く響いていた。
——誰に対しても、100%という言葉は使わない。
ヴァラムのあの一言が、脳裏にこびりついて離れない。
セティリアが《黒い鉤爪》側の人間だとは、思わない。思いたくもない。
あの子の笑顔を、温もりを、信じたい。
けれど、3年前、アルスフリートの死後——彼女だけが知り得た白鬼面の男の情報を、なぜ誰にも話さなかったのか。
復讐のため。それが最も自然な答えだろう。
だが、それだけでは説明しきれない不自然さが残っているのも、また事実だった。
誰がスパイであってもおかしくない。
セティリアでさえ——いや、考えるな。今は、まだ。
アルトは頭を振り、思考を断ち切った。
疑うことと、確かめることは違う。
ヴァラムの言葉を借りるなら、盲目的に信じることが危険なのであって、疑うこと自体が目的ではない。
今すべきは、彼女の本心を知ること。沈黙の理由を、この目で確かめること。
それだけだ。
「……セティ」
無意識に呟いた名前が、夜風に攫われて溶けていく。
かつての教え子への疑念を抱くことへの苦痛が、胸を締め付けるように疼いた。
まるで自分で自分の心臓を握り潰そうとしているような、そんな自虐的な痛みだった。
考えを整理しようと、アルトは重い足取りで歩き始めた。
石畳を踏む靴音が、宵闇に響く。
方向も定めず、ただ足の向くままに進んでいると、気がつけば本館の最上階へと続く螺旋階段を昇っていた。
一段、また一段と昇るごとに、胸の内の重圧が増していくような気がした。
屋上への重い鉄扉を押し開けると、急に冷たい夜風が頬を撫でる。
肺に流れ込む冷気が、熱を帯びた思考を冷ましていく。
月光が再び雲間から差し込み、屋上の石畳を銀色に染め上げていた。
まるで薄い光の絨毯が敷き詰められているかのような、幻想的な光景だった。
屋上には小さな花壇と、年月を経て角が丸くなったベンチがぽつんと置かれている。
花壇には名も知らぬ野花が、夜露を纏いながら静かに咲いていた。
アルトはゆっくりとベンチに腰を下ろすと、深い溜息をついて暗い空を見上げた。
雲の切れ間から覗く月が、まるで全てを見透かしているような冷たい光を投げかけている。
その時、足元に何か温かいものがそっと触れた。
柔らかい毛の感触が、衣服の生地を通して伝わってくる。
「……猫?」
振り返ると、そこには一匹の黒猫がいた。
月光を吸い込んだような漆黒の毛並みが、夜の闇と溶け合うように佇んでいる。
よく見なければ、影と見紛うほどに黒い。
イエローの瞳が爛々と輝きながら、じっとこちらを見つめていた。
アルトが動かずにいると、猫は慎重に、少しずつ、少しずつ近づいてきた。
一歩進んでは立ち止まり、安全を確認してからまた一歩。
まるで見えない境界線を越えることを恐れているかのような、慎重な足取りだった。
やがて手の届く距離まで来ると、鼻先でアルトの手の匂いを嗅ぎ、何度か首を傾げる。
その仕草は、まるで何かを思い出そうとしているかのようだった。
長い逡巡の後、猫は気を許したのか、そっと頭を擦り付けてきた。
温かく、柔らかい感触が掌に伝わる。
「人懐っこい奴だな」
そう言いながら耳の後ろを優しく撫でると、猫は喉の奥で小さくゴロゴロと音を鳴らして目を細めた。
野良猫にしては毛並みが整っており、随分と人に慣れている。
誰かが定期的に世話をしているのだろうか。
黒い毛は月光に照らされて、濡れたような艶かな光沢を放っていた。
黒猫と静かに戯れていると、不意に屋上への扉が開く音がした。
古い蝶番が立てる、錆びた金属特有の不快な音。
振り返ると、餌入れのような小さなケースを手にしたセティリアが立っていた。
「アルト?」
呼びかける声は、普段通りで自然。
しかし、アルトの膝の上で丸くなっている黒猫を見た時、表情が変わった。
いつもの人形のような無表情が崩れ、純粋な驚きが顔に現れる。
「この子が、初対面の人に懐くなんて……」
信じられないという表情で、セティリアは猫とアルトを交互に見つめる。
彼女は眼を瞬かせながら、まるで幻覚でも見ているかのように首を小さく振った。
「そんなに珍しいですか?」
わざと他人事のような口調で問いかけると、セティリアは困惑したように小さく首を横に振った。
「人見知りなの、とっても」
そう言いながら、セティリアはゆっくりとアルトの隣に腰を下ろす。
その距離は、かつての関係性が既にないことを実感させる、微妙な間隔。
手を伸ばせば触れられるが、普通にしていれば触れることのない、絶妙な距離感。
かつて【フリューゲル】で、アルスフリートとセティリアが並んで座っていた時と比べると、とても遠くに感じられる。
セティリアが小さなケースを開けると、猫はすかさず彼女の膝の上に飛び移った。
前足で器用にバランスを取りながら、慣れた仕草で餌を食べ始める。
その姿を見て、アルトは自然と柔らかく微笑んだ。
銀髪の美少女と黒猫。月光の下で織りなされる、幻想的な光景だった。
「セティリア隊長には、随分と懐いてますね」
「わたしとはもう、3年の付き合いになるから」
3年、というワードに引っかかりつつも、黙って話を聞く。
セティリアは猫の頭を優しく撫でながら、まるで独り言のように言葉を紡ぐ。
「この子はね、生まれて間もない頃に事故で親を亡くしてるんだ。建物の崩落に巻き込まれて……」
その時、猫が餌の欠片を零して、コロコロとアルトの足元に転がった。
屈んで拾い上げ、掌の上に乗せて差し出すと、猫は一瞬躊躇しつつも、アルトの手から直接食べ始めた。
ざらついた舌の感触が、掌をくすぐる。
「ふふ、あなたはきっと、心が綺麗な人なんだね」
セティリアの声が、涼やかな夜風に乗って耳に届く。
「そんなこと……ありませんよ」
「ううん、この子には分かるんだと思う。本当に優しい人が誰なのか、きっと本能で」
「それを言うなら、セティリア隊長も同じでしょう」
アルトがそう返すと、セティリアは物憂げに首を横に振った。
月光が彼女の横顔を照らし、長い睫毛が頬に影を落とす。
「違うよ。わたしは、その痛みがよく分かってあげられるだけ。大切な存在を失って、ひとりぼっちになってしまった痛みを」
守ってくれる存在を失った喪失感。
そして、残された者だけが背負う、終わりのない孤独。
同時に、ある推測が頭をよぎる。
この猫が事故で、それも建物の崩落で親を亡くしたというなら、それは——
(「3年前の【フリューゲル】襲撃事件……もしかすると、この子は」)
アルトの脳裏に、かつてギルド【フリューゲル】の屋上で日常的に見かけた黒猫の姿が朧げに蘇る。
あの頃、屋上には一匹の気難しい黒猫が住み着いていた。ギルドメンバーが近寄れば威嚇の唸り声を上げ、餌を置いても見向きもしない、まさに野良猫の中の野良猫だった。
ところが奇妙なことに、その黒猫はなぜかアルスフリートにだけは妙に懐いていた。
初対面の時から警戒心を見せず、むしろ自分から擦り寄ってくることさえあった。
アルスフリート自身、特に動物好きというわけではなかったが、屋上で一人考え事をしている時に膝の上で丸くなる猫の重みは、不思議と心地よかった。
他のギルドメンバーが羨ましがる中、なぜ自分だけに懐くのか、最後まで理由は分からなかった。
セティリアを保護してギルドに連れてきた当初、黒猫は彼女に対しても他のメンバー同様、完全な塩対応だった。
餌を差し出しても無視、撫でようとすれば逃げる、典型的な拒絶の態度。
しかし、セティリアは諦めなかった。
毎日毎日、雨の日も風の日も、決まった時間に屋上に通い、根気よく餌を置き、優しく話しかけ続けた。
その献身的な世話が実を結んだのか、数ヶ月後にはようやく猫も少しずつ心を許すようになった。
警戒しながらも餌を食べ、時には撫でることも許すように。
完全に懐いたとは言えないが、それでも大きな進歩だった。
そして、アルスフリートが命を落とす数ヶ月前、その猫に子供が生まれた。
小さな黒い子猫は、親猫の血を引いてか、やはり人見知りの激しい性格だった。
ギルドメンバーには相変わらず塩対応で、近寄ろうものなら小さな体を震わせて威嚇した。
けれども、生まれた時から毎日世話をしていたセティリアには、心を開いていた。
まだ生まれて間もない頃だったが、セティリアが屋上に来ると、よちよちと歩み寄ってくる姿を何度か目にした。
あの頃のセティリアの、子猫を抱き上げて頬ずりする無邪気な笑顔が、今でも記憶の片隅に残っている。
やがて、餌を食べ終えた黒猫が、満足そうに二人の間で丸くなった。
黒い毛玉のような姿で、安心しきって目を細めている。
温かな体温が、ベンチを通して膝に伝わってくる。
まるで示し合わせたかのように、二人は同時に手を伸ばした。
黒猫の頭を撫でようとして、指先が触れそうになる。
月光に照らされた二つの手が、黒猫の上で交錯しかける。
「あっ」
「……すみません」
慌てて手を引く二人。
月光の下、少し気まずい沈黙が流れた。
風が止み、夜の静寂が深まる。
猫だけが満足そうに喉を鳴らし、その小さな振動音が静寂を優しく満たしていく。
規則正しいゴロゴロという音が、まるで時を刻む振り子のようだった。
「不思議、だね」
不意にセティリアが小さく呟く。
夜風が強まり、銀髪を優しく揺らす。
髪が舞い上がる度に、月光がその一本一本を透かして、幻想的な光の軌跡を描いた。
横顔に憂いの影を落としながら、彼女は続けた。
「こうしていると、なんだか懐かしい気持ちになるの。ずっと昔に、同じような夜があったような……」
「懐かしい、ですか?」
「うん。昔、大切な人と一緒にいた時のことを思い出すの。もう、会えないけれど」
セティリアの声は穏やかだったが、その奥には深い悲しみが沈殿していた。
月明かりに照らされた彼女の瞳が、一瞬潤んだように見える。
涙ではない、けれど涙に近い何かが、瞳の表面で揺らめいていた。
二人は再び猫に手を伸ばした。
今度は遠慮がちに、けれど自然に、二人の手が小さな黒い体の上で並んだ。
柔らかな毛並みの下から伝わる温かな体温が、掌を通して伝わってくる。
小さな命の鼓動が、規則正しく二人の手の下で刻まれている。
月が雲に隠れ、辺りが一瞬闇に包まれる。
そして再び姿を現した時、二人の手は猫の背中で優しく交差していた。
触れるか触れないかの距離で、互いの体温を微かに感じながら、黒猫を撫でていく。
この瞬間だけは、疑念も、警戒心も、全てが月光に溶けていくような錯覚を覚えた。
ヴァラムの警告も、セティリアへの疑念も、すべてが遠い世界の出来事のように思えた。
ただ、月光と、黒猫と、かすかに触れ合う温もりだけが、確かな現実として、そこにあった。




