Code:014 オーバーラップ①
2人は振り返ることなく、ただ前を見て必死に走り続けた。
しかし、人間の脚力では災魔の追跡から逃げ切ることはほぼ不可能に近い。
術式で強化されていない身体では、追い詰められるのは時間の問題だった。
やがて、巨躯の影が二人を捉え、巨大な体で覆いかぶさるように飛びかかってきた。
「くそっ!」
レスターは咄嗟にアルトの背中を押し、自分は反対側に飛び退いた。
その瞬間、災魔の巨大な腕が彼らのいた場所に叩きつけられ、地面が陥没し、周囲の木々が無残にも薙ぎ倒された。
砂埃が舞い上がる中、レスターは体勢を崩しながら叫んだ。
「アルト、逃げろ! ここは俺が食い止める!」
「でも、レスターさんは術式師じゃ……!」
アルトが言い終わる前に、レスターは災魔に向かって突進した。
手に握りしめていたのは、修理用に持ってきた鉄製の工具だ。
「うぉぉっ!」
渾身の一撃が災魔の脚部を薙ぐ。
しかし、分厚い外殻に覆われた災魔にとっては、人間の直接攻撃など蚊に刺された程度の痛みですらない。
災魔は不快そうに首を傾げ、腕を軽く振るうだけで、レスターを弾き飛ばした。
「ぐあっ!」
それは人間で例えるなら、デコピンをした程度の力に過ぎないだろう。
けれども、レスターの体は軽々と宙を舞い、10メートルほどの距離の先の大木に激しく打ち付けられた。
文字通り、生物としての格が違う。
その光景を目の当たりにして、アルトは思わず二の足を踏んだ。
(「どうする……!?」)
死の恐怖と傍観者に与えられた責任感が相克を起こす。
記憶はなくとも、彼には生まれながらの術式の才能があった。
戦おうと思えば、戦えないことはない。
しかし、才能があっても特別な訓練を受けたことのない彼に、災魔と渡り合える力などあるはずもない。
使える術式など、せいぜい子供騙しの小技がいいところだ。
(「いや、やるしかない……!」)
それでも、アルトは逃げることを選ばなかった。
災魔の注意はレスターに向かっており、今なら術式を構築するチャンスがあるかもしれない。
彼は右手を前に突き出し、左手で支えながら、手のひらに強く力を込めた。
「ダメだ、アルト! 術式を使えば、災魔は君を狙ってくる! 私に構わず、逃げろ!」
レスターは痛みを堪えながら、アルトに向けて叫ぶ。
術式を使えば、術者の体内にある魔導回路が活性化し、魔導粒子を感知する災魔の格好の標的となることを彼は知っていた。
アルトもそのリスクを理解していたが、目の前で命を懸けて戦う大切な人を見捨てることはできなかった。
「術式駆動!」
アルトは迷いを振り払い、詠唱を始めた。
右腕の紋様が淡く光り、彼の周囲に魔導粒子が集まり始める。
儚く不安定な光芒に過ぎない淡い光は、静かに燃え上がる種火のように膨らみ、やがて揺らめく小さな火炎を形作る。
「──《フレアスパーク》!」
炎属性の術式波、《フレアスパーク》。
アルトの手を離れた波状の炎は空気中の魔導粒子の影響を受けて拡散し、弾ける火花となって次々と災魔に命中した。
動きにぎこちなさはあれど、術式の構築から展開まで澱みなく進行させる手技はなかなかのもの。
これが術式を学ぶアカデミーでの一幕であれば、級友や教師からの賞賛が得られたことだろう。
──しかし、ここは学校ではなく戦場だ。
「くっ、ダメか……!」
災魔は術式の一撃に反応してアルトの方へ向き直る。
その姿から、効いている様子は見て取れない。
無論、レスターが工具で殴りつけた一撃と比べれば有効だが、それは例えるならヒットポイントが100の相手に1ダメージを与えたか0ダメージを与えたか程度の違いだろう。
その程度のダメージを与えた代償に、災魔は目の色を変えたように腕を振り上げた。
人間で言うところの条件反射、美味しい食べ物の匂いを嗅いで涎が垂れるが如く、災魔は無数の牙を打ち鳴らしながら猛烈に襲いかかってくる。
「うわあぁっ!」
巨体に見合わない俊敏さで接近し、唸りを上げて振り下ろされる巨腕。
アルトは身体を捩って直撃を回避したが、腕の先に突き出た鋭い刃まで躱し切ることはできず、鮮血とともに小柄な身体が宙を1回り。
三半規管が揺れてレスターの叫び声が歪んで聞こえ、そのままぼとりと音を立てて地面に崩れ落ちた。
「ぐ……あ……」
辛うじて意識は残っていたが、既に戦えるような状態ではない。
這いつくばるようにして顔を上げたアルトの目の前には、大きく口を開けた災魔が、まるで獲物を前にした捕食者のように迫っていた。
逃げなくてはと全身の細胞が叫びを上げるが、身体は言うことを聞いてくれない。
それどころか、額から流れる血が視界を遮り、瞬きをするたびに意識が朦朧としていく。
アルトは成すすべもなく、絶望的な光景を呆然と見つめていた。
(「ここで、終わるのか……」)
圧倒的な力の差を前に、恐怖すら超えた諦めの感情がアルトの脳内を支配する。
いっそこのまま目を閉じてしまえば、楽になれるだろうか。
そう思いながら瞬きを止める──その時だった。
「……っ!」
全身を激しく震わすような感覚が、閉じようとした五感を呼び戻す。
心臓の音がやけに五月蠅い。拍動の度に全身に衝撃が走る。
そんな感覚に戸惑う暇もなく、アルトの脳内に知らない記憶が溢れ出す。
まるで堰を切ったように、見たことのない景色が脳裏を駆け巡った。
走馬灯のように次々と流れる記憶の断片、そして、その最後に現れたのは黒装束に身を包み、白い鬼面をつけた不気味な男。
男は嘲笑うように、こちらを見下ろしていた。
(「誰だ、お前は……!?」)
違う、自分はこの男を知っている。
流れ込んだ記憶が、この男を倒せと全身に語りかけている。
(「なぜ、ここにいる……?」)
混濁する記憶が徐々にまとまり、世界が再び動き出す。
白鬼面の男の姿は掻き消え、今まさに自分を喰らわんと立ち塞がる災魔がそこにいる。
威圧するような黒と白の外殻が、過去に自分を殺した倒すべき宿敵の姿と重なり合う。
(「お前は、俺が倒す……!」)
呻き声を上げながら、アルトはよろよろと立ち上がった。
その瞳には今までとは全く異なる、鋭い光が宿っていた。
災魔はその変化に気付かない。
まだ息がある獲物を完全に無力化するべく、巨腕を振るう。
しかし、その一撃が地面を割った時、アルトはそこにいなかった。
「遅い」
死にかけていた子供とは思えない閃光のような速さで、災魔に向かって突進する影。
次の瞬間、アルトが繰り出した攻撃が災魔を捉えた。
鈍い音と共に、巨大な怪物の体が大きく揺さぶられ、後ろに倒れ込んだ。
「な……何が起きたんだ……?」
呆然と震える声を上げたのはレスターだった。
彼が見上げた先には、災魔と対峙するアルトの姿があった。
アルトが何をしたのか、レスターには分からなかった。
しかし、災魔にダメージを与える方法がこの世界に1つしかないことくらい、小さな子供でも知っていることだ。
「今のは、術式……か!?」
レスターは思わず、アルトの横顔を二度見する。
そこに立っているのは、可愛らしい顔つきをした少年であることは間違いない。
けれども、瞳に湛える眼光は幾度の修羅場を潜り抜けた術式師のように精悍に映る。
「行くぞ」
たったの一言、それに合わせて、魔導粒子の粒子が渦を巻く。
アルトの、否、アルスフリートの魂が、反撃の狼煙を上げた。




