Code:012 山奥の村にて①
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天が蒼く染まる夜明けの刻、世界は未だ静寂に包まれていた。
《焔血王》と称された天才術式師・アルスフリートが消息を絶ってからどれほどの時間が経っただろうか。
ギルド【フリューゲル】本部の襲撃に端を発する騒動は今や古びた物語のように人々の会話から消え、街角では新たな話題に花が咲いている。
しかし、ヴェルキア各地では依然として不穏な空気が渦巻き、誰もが渇望する安息はどこへ行こうと手に入る気配もない。
それは何も、災魔の脅威によるものだけではなかった。
少し社会の裏を覗き見れば、術式が悪用される凶悪事件の数が日に日に増していく一途。
人々は囁く、その陰で糸を引くのは、かつて滅びたはずの組織《黒い鉤爪》なのではないかと。
仄暗い陰謀が静かに息を吹き返そうとする中で、世界は次なる英雄の登場を待ち望んでいた。
朝霧が立ち込める山々の狭間に息づく小さな村・グリンベール。
ヴェルキア北方の険しい山脈地帯に位置し、外界との接触が限られたこの場所は、まるで時間の止まった別世界のような光景が広がっていた。
山の稜線を越え、朝日が黄金色の光を村に注ぎ始めると、村はゆっくりと目を覚まし始める。
家々の煙突から立ち昇る白い煙、畑へ向かう農夫の重い足音、井戸端で水を汲む女性たちの朗らかな笑い声。
どれもが穏やかで、日々の営みは平和に続いている。
しかし、その日の朝は、何かが違っていた。
「おい、みんな! 急いで来てくれ!」
村のはずれを流れる清流のほとりから、焦りに満ちた声が響いた。
いつもは穏やかに流れる川に、その日は一人の漂流者が打ち上げられていたのだ。
「なんて酷い傷だ、息があるのが奇跡だな」
釣りをしていた村人が少年の姿を見つけ、村人たちが次々と集まってきた。
川辺に横たわるその小さな影は、全身に傷を負った少年だった。
水に濡れ、絡みついた桃色の髪、ボロボロの衣服、裸足の足――まるですべてを奪われ、捨てられたかのようだ。
「まさか、災魔に襲われたのか?」
「いや、傷の具合が違う。川に流されてきたのだろう」
村人たちが口々にそう言って右往左往していると、人だかりを掻き分けて1人の老人が前へ進み出た。
グリンベールの村長・ノーゼンだ。
「皆の衆、ぼーっとしている暇はない。すぐに手当てを始めろ! 未来ある命を、こんな形で失うわけにはいかん!」
「それでは、この子を私の家へ運びましょう」
そう提案したのは、村の技師・レスターだ。
彼は都会のアカデミーで魔導学を学んだ経験があり、医療の心得もある。
レスターは慎重に少年を抱き上げると、自宅へ急いだ。
その後ろ姿を見送りながら、ノーゼンは小声で呟いた。
「……決して、死なせるわけにはいかん。我々が犯した過ちの贖罪のためにも」
その日から、村全体で少年の看病が始まった。
レスターの指示のもと、村人たちは交代で少年の世話を続けた。
傷の手当てをし、熱を下げる薬草を使い、清潔な衣服を与えた。
できる限りのことをして、少年の回復を祈る日々が続いた。
そして、3日目の朝――少年は、ついに目を覚ました。
「……ここは?」
か細い声が部屋に響く。少年の瞳には、困惑と恐れが宿っていた。
「よかった、気が付いたか」
レスターは安堵の表情を浮かべ、少年に優しく話しかけた。
「ここは私の家だ。怖がらなくていい、君を助けたのは私たちだ。それで……君の名前は?」
「名前……」
少年は戸惑い、部屋をぐるりと見回した後、かすれた声で答えた。
「わかり、ません……」
その言葉に、レスターは一瞬言葉を失う。
記憶喪失――あり得ない話ではないが、予想外の事態だ。
「名前も? どこから来たのかも覚えていないのか?」
少年は悲しげに首を横に振る。
「何も……思い出せません」
その報告を聞いたノーゼンが駆けつけ、深刻な顔で考え込む。
「困ったものだ。親元に返してやりたいが、記憶がないのではどうしようもない」
「1つ提案があります。彼の記憶が戻るまで、村で育てるのはいかがでしょうか?」
「ほう、それは良い案だ。若い者が少ないこの村に子供がいれば、皆も活気付くだろう」
「ただ、呼び名がなければ不便です。仮の名前をつけるべきでしょう」
「そうだな……」
ノーゼンはしばらく考え込んだ後、少年の右腕の紋様を見つめ、何かを思い出したように笑顔を見せた。
「『アルト』はどうだろうか」
「アルト……ですか?」
「ああ、ひと月前に命を落とした若き術式師の名だ。彼はこの村にとっては英雄も同然。ベレンダール跡地に開いた顕現門を鎮めたことで、村は災魔から救われたのだ」
「確かに、あの方の名は相応しいかもしれません。この子に、英雄の加護があらんことを」
こうして、少年は「アルト」という名前を与えられた。記憶は戻らないものの、アルトは元気に成長し、村人たちにとって大切な存在となっていく。そして、3年の月日が流れた。
朝もやが晴れ始め、太陽の光が山々を照らす頃、アルトは村の広場に立っていた。
推定年齢16歳になったアルトは、身長こそあまり伸びず小柄なままだったが、その桃色の髪は朝日に照らされ、まるで輝く宝石のように美しかった。
少女のような可憐さと、少年らしい凛々しさが同居する彼の姿は、不思議な魅力を放っていた。
「今日は発電機の点検を頼むよ、アルト」
「はい、任せてください!」
アルトは元気よく返事をしながら村人たちの間を歩く。
どこからともなく声がかかり、その度に笑顔で応えていた。
「アルちゃん、お昼においしいパンを焼くから、休憩時間に寄っておくれ」
「ありがとうございます! 楽しみにしてますね!」
「アルト、畑の収穫を手伝ってくれないか?」
「ええ、他の仕事が終わったらすぐに行きます!」
村中から次々と声をかけられ、アルトはすべてに快活に応えていく。
彼の存在が村に新しい息吹を吹き込んでいるかのようだった。
そんな穏やかな日々が続いていくと思われた最中、村に届いた突然の知らせがひとときの平穏を打ち崩す。
「大変だ!」
叫びながら駆けてきた村人の顔は青ざめており、ただならぬ事態であることがひしひしと伝わってくる。
「村外れの山道にある導力灯が一機、故障してるぞ!」
その言葉に、村人たちの表情が一変する。
導力灯とは、災魔から身を守るために使われる設備の1つだ。
災魔は魔導粒子を感知する器官によって遠方からでも人間の居場所を探り当てる能力を持っているが、導力灯は特殊な波長の光で空気中の魔導粒子を散乱させることで、災魔の探知能力を妨害することができる。
これは人口の少ない場所で特に効力を発揮するため、辺境の地では高額な費用を払って防壁を立てたり、術式師を駐在させるよりも、導力灯の設置が災魔対策の主流となっていた。
裏を返せば、その導力灯の故障は極めて深刻な事態というわけだ。
「まずいな、早く修理しなければ」
「しかし、術式師の護衛なしにあそこへ行くのは危険だ。道中で災魔に遭遇するかもしれん」
「だったら、術式師に依頼して来てくれるまで指をくわえて待つのか?」
「術式師も人手不足らしいからな。災魔の討伐依頼でもなければ、後回しにされるだろう」
村人たちの間で次第に口論が起こり、焦りと動揺が広がる中、1つの声が静かに響いた。
「皆さん、今は一刻を争う状況だ。ここで議論をしている時間はありません」
「しかしな、レスター……」
「私が行きます。技師として修理は問題ありません。ただ、誰か1人、見張り役を付けていただきたい」
そう言われて、村人たちは互いに見つめ合った後、しーんと静まり返った。
それも当然だ、術式師なしで災魔のテリトリーに足を踏み入れるということは、獲物が狩人の前にのこのこと出ていくようなもの。
鉢合わせば、言うまでもなく死が待っている。
その覚悟がなければできない仕事に、易々と立候補する者がいるはずはなかった。
しかし──
「僕にやらせてください」
芯の通った声に、村人たちは一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、決意を宿した瞳を持つアルトだった。
「アルト、本気なのか?」
「簡単なおつかいじゃないんだぞ?」
「僕だって、もう16歳なんだ。このくらいの仕事なら、やってみせます!」
「ダメだ! お前は村の宝、そんな危険な場所へ行かせるわけにはいかん」
村人たちはすぐにアルトを制止した。
だが、アルトは頑なに引き下がらず、収拾がつく様子はない。
そんな状況で、諭すように口を開いたのはレスターだった。
「これは危険な仕事だ。覚悟はあるか、アルト?」
レスターはそう言いながら、アルトの目をじっと見つめ、その意思を試すかのように問いかけた。
「うん。3年間、村のみんなに育ててもらったんです。今度は僕が、この村を守ります」
その宣言に、村人たちは言葉を失った。
かつて拾われた捨て子が、今や村を守ろうとしている。
その姿に感動と不安が入り混じる中、村長のノーゼンが現れ、ゆっくりと二人の前へ歩み寄った。
「その心意気、しかと受け取った。見張り役はアルトに任せるとしよう」
「はい、頑張ります!」
こうして、アルトとレスターは村外れにある山道へ向かうこととなった。




