Code:104 ミラフィスの憂鬱、ヴァラムの企み②
「困ったものだね、彼の女たらしっぷりには」
低く、どこか愉快そうな響きを含んだ声。
皮肉めいた口調と、わざとらしい溜息。
太陽を背にしたヴァラムの姿は逆光でシルエットになり、表情までは読み取れない。
だが、口元に浮かんでいるであろう薄い笑みは容易に想像できた。
人の心の機微を見透かしたような、どこか小馬鹿にしたような笑い顔。
ミラフィスの表情が険しくなる。警戒心を露わにするように、唇がきゅっと結ばれた。
「……ウチに何の用?」
声が刺々しい。普段なら、もう少し取り繕った社交的な態度を取れるはずだった。
だが今は、誰とも話したくない。自分の内面を覗かれたくない。
ましてや、傲岸不遜なこの男とは。
ヴァラム・ヘクトラー。第七部隊きっての情報通にして、アルトとは違う種類の女たらし。
軟派で、チャラくて、飄々としていて掴みどころがない。
噂では他部隊の女性にまで手を出しているという。
そんな男に、今の自分の心情を見透かされたくはない。
「ちょっとした野暮用さ」
ヴァラムは軽く肩をすくめた。
その仕草はこなれていて、まるで舞台役者のようだった。
「少しばかり付き合ってくれよ」
気安い口調。
まるで旧友にでも話しかけるような親しみやすさを装っているが、ミラフィスは知っている。
この男の本性は、そんな単純なものではない。
「あのさ」
ミラフィスが腕を組む。
細い腕が胸の前で交差し、明確な拒絶の姿勢を作る。
「ウチ、今すっごい機嫌悪いんだけど?」
「まあまあ、そんなに警戒しないでくれって」
両手を軽く上げて、ヴァラムは苦笑する。
降参のポーズのようでいて、どこか芝居がかった仕草。
だが、その瞳の奥には別の色の光が宿っていた。
好意的な態度の裏に隠された、刺々しいの凶器のような何か。
「君に大事な話があるんだ」
声のトーンが、変わった。
今までの軽薄な声音が一転、真剣味を帯びる。
それでいて、相変わらず掴みどころのない笑みは崩さない。
「興味ないから」
ミラフィスが踵を返す。
ブーツの踵が石畳に当たり、カツンと乾いた音を立てた。
その瞬間だった。空気が変わったのは。
まるで気温が数度下がったかのような、ひんやりとした感覚。
肌を撫でる風が止み、周囲の音が遠のいていく。
鳥のさえずりも、遠くの喧騒も、全てが水の底に沈んでいくように薄れていく。
ヴァラムの雰囲気が、変貌した。
「悪いけど」
指を鳴らす構えを取る。人差し指と親指が、ゆっくりと近づいていく。
パチン——と、乾いた音。
「聞いてもらうよ」
世界が、歪む。
「術式駆動――《昏く蝕む絶影》」
足元から黒い霧が湧き上がる。
それは煙のようでいて、もっと濃密で、もっと生々しい何かだった。
まるで影そのものが実体化したかのようにのっぺりとした質感を持ちながら、二人の足首を這い上がっていく。
外界との繋がりが断たれ、現実から切り離される感覚。
霧は瞬く間に膨れ上がり、渦を巻きながら天へと伸びていく。
視界が暗転し、音が遠ざかり、重力さえも曖昧になる。
上下の感覚が失われ、まるで深海に沈んでいくような、不気味な浮遊感に包まれる。
次の瞬間、ミラフィスは異空間に立っていた。
四方を漆黒が囲む、境界の曖昧な世界。
天も地も判然とせず、ただ暗闇だけが支配する空間。
床は見えないのに、確かに何かの上に立っている感覚はある。
天井も壁も存在しないのに、閉じ込められているという圧迫感が確実にそこにあった。
「ようこそ、僕の世界へ」
闇の中で、ヴァラムの声だけが明瞭に聞こえる。
まるで直接脳内に語りかけてくるような、不思議な音として。
だが、ミラフィスは動じなかった。一瞬の驚きは確かにあったが、それを表に出すことはない。
瞬時に臨戦態勢を取る。これまでの実戦経験が、思考より先に身体を動かす。
重心を低く落とし、いつでも動ける体勢を整える。
「どういうつもり?」
声は冷静そのものだ。
感情を押し殺し、氷のような冷たさを纏わせる。
「言っただろう? 大事な話があるって」
ヴァラムは悠然と立っている。
この闇の支配者として、余裕綽々の態度で。
彼の周りだけ、わずかに空間の密度が違うように見える。
まるで、この空間が彼に従属しているかのように。
ミラフィスは答えない。
言葉の代わりに、行動で示す。
右手を一閃させた。
「術式駆動――《ルクスジャヴェロット》」
空を切る音と共に、虚空から一本の槍が顕現する。
稲光を纏った術式槍。
美しくも、恐ろしく鋭い切っ先を持つ、芸術品のような武器。
それを、真っ直ぐヴァラムに向ける。
「ここから出して、今すぐに」
殺気を込めた宣告。
槍の切っ先から放たれる圧力が、暗闇の空間に波紋のような歪みを作り出す。
一触即発の緊張感が、二人の間に電流のように走った。
ヴァラムの瞳が、わずかに細められる。
それでも表面上は、不敵な笑みを保つ。
そして——指を鳴らした。
その音に呼応するように、四方八方から漆黒の鎖が出現する。
それらは生き物のように不規則的に動きながら、ミラフィスを襲う。
金属が擦れる不快な音を立てて、ギチギチと軋みながら獲物を絡め取ろうと迫ってくる。
対するミラフィスは動かない。
瞳に宿る光は冷徹そのもの。まるで既に全ての動きを見切っているかのような、絶対の自信。
そして——動いた。
水が流れるような、無駄のない動作。
一歩、また一歩と、まるで舞うように身を翻しながら、迫り来る鎖の隙間を縫っていく。
直後、術式槍が美しい弧を描いて閃いた。
雷光の軌跡が闇を切り裂く。
その軌跡は優美でありながら、恐ろしく正確で、迫り来る全ての鎖を両断する。
砕かれた鎖は黒い粒子となって霧散し、闇に還っていく。
まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。
一瞬の出来事。そして再び、槍がヴァラムの首筋に突きつけられる。
今度は、鋭い切っ先が肌に触れるほどの距離で。薄い皮膚を貫通寸前で止まっている。
一滴の血が、首筋を伝って落ちた。
「いい加減にして。ウチはアンタと遊んでるほど暇じゃないの」
ミラフィスの声に、怒気が滲んだ。
「流石はBランクだ」
対するヴァラムは感心したような、それでいてどこか他人事のような口調。
この程度は想定内、とでも言いたげな余裕が、その表情には残っていた。
ミラフィスは無言で睨みつける。
空気がピリピリと緊張し、今にも爆発しそうな気配——それにも関わらず。
「さて、大事な話なんだけど」
ヴァラムは呑気に続ける。
まるでお茶でも飲みながら世間話でもするような、軽い口調で。
「ウチの言うことを聞くのが先でしょ?」
二人の間に流れる沈黙。
それは数秒だったか、あるいは数分だったか。時間の感覚すら曖昧になるこの空間で、ただ互いの呼吸音だけが反響する。
我慢比べのような静寂の後、ヴァラムがゆっくりと口を開いた。
「なら、交換条件だ」
「馬鹿言わないでよ。アンタにお願いしたいことなんて何一つ無いっての」
「それは残念。折角、君の恋路を応援してあげようと思ったんだけどなぁ」
そう言われて、ミラフィスの動きがピタリと止まる。術式槍を持つ手が空中で固まる。
「は——」
声が出ない。喉が詰まって、言葉が形にならない。
「はぁぁっ!?」
やっと絞り出した声は、完全に裏返っていた。
普段の凛とした声はどこへやら、まるで思春期の少女のような、甲高い悲鳴。
「何言ってんの!?」
術式槍を持つ手が震える。
怒りか、動揺か、羞恥か——おそらく全部だ。
感情が渦を巻いて、頭の中が真っ白になる。
思考が停止し、ただただ恥辱の感情だけが全身を駆け巡る。
ヴァラムの笑みが、一層深くなる。
してやったり、という顔。まるで、狙い通りの反応を引き出せて満足しているかのような、意地の悪い笑み。
黒い霧が、二人の周りでゆらゆらと揺れていた。




