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Code:102 異端の証明、咎の角

 * * *


 部屋の扉が静かに閉まる音が、薄暗い空間に溶けていった。

 クーレリカは背中を扉に預け、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 胸に抱いた絵本の重みが、今夜はいつもより軽い。

 秘密を分かち合った安堵のせいか、それとも——新たな不安のせいか。

 

 彼女は絵本を机の上にそっと置いた。

 古びた表紙に描かれた二つの人影が、月明かりの中で微笑んでいるように見えた。

 

 椅子に腰を下ろし、絵本の表紙を撫でる。

 母の温もりを探すように、父の優しさを思い出そうとするように。


 しかし、その記憶はあまりにも(おぼろ)げで、まるで水面に映った月のように、触れようとすれば散ってしまう。

 

 ——あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 

 八歳の誕生日から、まだ一週間も経っていなかった。

 学校から帰ると、家の中が妙に静かだった。

 いつもなら台所から漂ってくる夕飯の匂いも、母の鼻歌も、父の新聞をめくる音も、何もなかった。

 

『夕方までには帰るから』

 

 朝、母はそう言って優しく頭を撫でてくれた。

 それが最後だったなんて、誰が想像できただろう。

 

 日が暮れても、両親は帰ってこなかった。

 やがて、見知らぬ大人たちが家を訪れた。

 隊服を着た彼らは、クーレリカを見ると困ったような顔をして、それから作り物めいた優しい声で嘘をついた。

 

『お父さんとお母さんはね、遠いところへ行ってしまったんだよ』

 

 子供だってそのくらいの嘘は分かる。

 声を潜めて交わされる言葉も、全部聞こえていた。


 災魔(ハザード)の大規模侵攻。避難が遅れた一般市民。

 術式師(コーディアン)であった母は最後まで父を守ろうとし、父もまた傷を負った母を(かば)って——二人は、最期まで一緒だった。


 遠い親戚に引き取られることが決まったのは、その三日後だった。

 

 親戚の家は、大きくて立派だった。

 広い庭があって、部屋もたくさんあって、食事も豪華だった。


 でも、そこに愛情はなかった。

 

 クーレリカに向けられる視線は、いつも値踏みするようなものだった。

 まるで厄介な荷物を押し付けられた人間が、どうやってそれを処分しようか考えているような——そんな視線だった。

 

 夜中、大人たちの話し声が聞こえてくることがあった。

 薄い壁越しに、彼らの本音が漏れてくる。

 

『あの子をどうするか、早く決めないと』

『他の親戚は?』

『みんな断られた。保護施設なら——』

『でも、世間体(せけんてい)が』

『呪われた子供なんて、誰が欲しがるものか』

 

 クーレリカは布団を頭まで被って、聞こえないふりをした。

 でも、言葉は鋭い刃となって、幼い心に深く突き刺さった。

 

 そんなある日、彼女は決意した。

 朝食の席で、クーレリカは背筋を伸ばして言った。

 

「私、術式師(コーディアン)になりたいです」

 

 親戚たちは、(はし)を止めて彼女を見た。

 

「ギルドアカデミーに通いたいです。全寮制のところに」

 

 一瞬の沈黙の後、親戚の当主が口を開いた。

 

「学費は?」

「奨学金を取ります。必ず」

 

 それを聞いて、大人たちの顔に明らかな安堵(あんど)が広がった。

 厄介払(やっかいばら)いができる——その思いが、隠しきれずに表情に出ていた。

 

「……分かった。奨学金が取れたら、行きなさい」

 

 その日から、クーレリカは猛勉強を始めた。

 朝から晩まで、本を読み、魔導理論を学び、実技の練習をした。

 それは居場所を求める必死の努力だったが、親戚たちには『早く出て行きたがっている』としか映らなかったらしい。

 

 半年後、彼女は見事に奨学金を獲得した。

 出発の朝、親戚の誰かが玄関先で言った。

 クーレリカの頭の上にあるそれ(・・)を、横目でちらりと見ながら。

 

「呪われた子供には、お似合いの場所だ」

 

 その言葉と視線に込められた意味は、彼女自身が誰よりも理解していた。

 

 ——月光が、部屋を満たしていた。

 

 クーレリカは立ち上がり、姿見の前に立った。

 鏡に映るのはベレー帽を被った小柄な少女。エメラルドグリーンのツインテールが、月光を受けて淡く輝いている。

 

 震える手を、ゆっくりとベレー帽に伸ばした。

 深呼吸を一つ。そして、帽子を外す。

 

 次に、結い上げたツインテールの結び目に手をかけた。

 巻かれたリボンを解き、丁寧に編み込まれた髪を解いていく。

 最後の結び目が解けた瞬間、隠されていたものが姿を現した。

 

 白い、二本の角。

 

 天に向かって真っ直ぐに伸びる、純白の角。

 磨き上げられた象牙のような、月光を固めたような、この世のものとは思えない美しさ。


 しかし同時に、人としてあるまじき異形でもあった。

 

 それは、異能(ギフト)の中でも極めて稀少な『天角(てんかく)』。

 

 対の角は魔導粒子(マギオン)の流れを活性化させ、術式師(コーディアン)としての能力を飛躍的に向上させる。

 さらに術式(コード)を展開するための外装となり、大気中の魔導粒子(マギオン)を検知するセンサーとしても機能する。

 

 術式師(コーディアン)には絶大な恩恵をもたらす異能(ギフト)


 しかし——災魔(ハザード)を想起させる外見と、強大な力ゆえに災魔(ハザード)を引き寄せる性質から、忌み嫌われる異能(ギフト)でもあった。

 

 クーレリカの異能(ギフト)について、ギルドで知るのは直属の指揮官・ジュリアナと隊長・セティリアのみ。

 部隊への配属初日、ジュリアナは事情を聞いても表情一つ変えなかった。

 

『ここでは異能(ギフト)があろうとなかろうと関係ない。必要なのはただ、実力だけだ』

 

 セティリアもまた、事情を知った上で変わらず接してくれた。

 いや、むしろ知る以前より優しくなったような気さえする。


 同じ異能保持者(ギフトホルダー)として、差別される辛さを知っているからかもしれない。

 クーレリカがセティリアを実の姉のように慕うのは、その優しさゆえだった。

 強さだけではない、深い理解と共感を持って接してくれる、数少ない理解者であったから。

 

 しかし、ギルドの中で過ごすうちに、現実は変わらないことを思い知らされた。

 同じ第七部隊のメンバーではなかったが、それ以外の至るところで異能保持者(ギフトホルダー)に対する偏見の言葉を耳にした。

 

異能(ギフト)ってさ、やっぱり気味が悪いよな』

『巻き添えで災魔(ハザード)に殺されたら、たまったものじゃない』

『まあ、セティリア隊長みたいに強ければ別だけどな。あれだけ災魔(ハザード)を倒してくれるならさ』

『弱い異能保持者(ギフトホルダー)とか最悪だろ。呪い持ちのくせに役に立たないとか』


 その度に、クーレリカの心は凍りついた。

 もし自分の正体が知られたら——きっと同じことを言われる。

 いや、もっと酷いことを言われるかもしれない。

 

 だから彼女は決めた。この異能(ギフト)を隠したまま、ギルドで成り上がることを。

 圧倒的な実力を身につけて、誰も文句を言えないほどの術式師コーディアンになることを。

 

 セティリアのように——誰からも認められるその日まで。

 

 鏡に映る角をクーレリカはじっと見つめた。

 月光を受けて、角は幻想的な光を放っている。

 

 美しくも呪わしい、自分の一部。

 (いと)おしくも(にく)らしい、異端の(あか)し。

 

 でも、今日は少し違った。

 アルトの顔が、脳裏に浮かぶ。


 昔からずっと、友達が欲しかった。

 ジュリアナやセティリアのように自分を受け入れてくれる者はいたが、それは雲の上の存在。

 (あこが)れや尊敬の対象であって、対等な関係ではない。

 

 自分を受け入れてくれて、それでいて対等な関係を築ける、そんな相手が欲しいと言ったら——欲張りだろうか。

 

『クーちゃん先輩が負い目を感じることなんて、何もないと思いますよ』

 

 理解を示してくれた優しい笑顔。その奥の瞳の色。

 もしかしたら——彼ならば、差別や偏見とは無縁の純粋な優しさで受け入れてくれるかもしれない。

 胸に小さな期待が芽生える。暖かくて、柔らかくて、でも同時に痛いほど脆い、小さな希望の灯火。

 

 でも、すぐにその考えを振り払った。

 彼がどんなに優しくても、これは別だ。物語と現実は全く違う。

 残酷な現実は、いつだって絵本の中の理想とは重ならない。

 

 もし拒絶されたら——

 もし軽蔑されたら——

 淡い期待の代償に、全てが崩れ去ったら——

 

 震える手で、再び髪を結い始めた。慣れた手つきで角を隠し、編み込んでいく。

 最後にベレー帽を被り直す。鏡の中の自分は、また『普通の少女』に戻っていた。

 

 窓の外、月が雲に隠れようとしていた。

 明日はアルトと災魔(ハザード)討伐任務に出る約束をした。自分の実力を見せる機会。

 

 でも、本当に見せたいのは、実力だけだろうか。

 本当に知ってもらいたいのは——

 

「あなたは違うって……信じても、良いんですか?」

 

 誰に問うでもない問いかけが、静寂に消えた。

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