Code:101 古びた絵本②
声は掠れ、消え入りそうなほど小さかった。
「禁書、ですか」
問い返す声には、非難の色はない。
クーレリカは拍子抜けしたように、小さく息を吐いた。
まるで重い鎧を脱ぎ捨てたような、そんな安堵と戸惑いが入り混じった吐息。
「言っておきますが、所持が罪に問われるわけではありません。正しくは、流通が禁止された本、というところです」
風が絵本のページを撫で、かさりという乾いた音が響く。
反射的に本を抱きしめる腕に力が入った。
風に攫われることを恐れるように。
「すみません、そういうのはあまり詳しくなくて」
その言葉に嘘偽りはない。
アルスフリートの記憶を以てしても知らない、興味のないことだった。
良くも悪くも素っ気ない返答に、クーレリカの肩から緊張が抜けていく。
彼女は一度深く息を吸い込んでから、震える声で続ける。
「……亡くなった母の形見なんです」
一瞬の沈黙。アルトは急かすことなく、ただ静かに次の言葉を待った。
「そして、この本が禁書になった理由、ですが……」
クーレリカは言葉を切り、まるで深い谷に飛び込む前の覚悟を決めるように、もう一度息を吸った。
「異能への偏見が今より強かった時代に、異能所有者と、そうでない一般人の恋愛を描いたものだから、です」
「なるほど、そういうことですか」
この世界で暮らしていれば、その意味は嫌でも分かる。持つ者と持たざる者の、隔たりを。
「ご存じでしょうが、異能というのは災魔として戦う上では確かに有用です」
その声は、努めて客観的であろうとしていた。
「例えば、セティリア隊長の魔眼。あれは戦闘において圧倒的な優位性をもたらします。他にも、獣を象る耳を持つ者の聴覚であったり、皮膚に鱗を持つ者の防御力であったり……どんな異能も戦場では貴重な能力です」
吹き込む風が、クーレリカのエメラルドの髪を揺らした。
夕日に透けた髪が若葉のように輝く。
「でも」
声のトーンが、一段低くなる。
「その見た目の不自然さから、迫害の対象とされてきたのも、事実です」
彼女は一度言葉を切り、苦い薬を飲み込むような表情を浮かべた。
「身体に発現する異質な部位は災魔の形態を模したと考えられていて、昔は『災魔の落とし子』と呼ばれ、酷い差別を受けていたそうです」
アルトの瞳が、わずかに深みを増した。
どの世界にも、理解できないものを恐れる者はいる。
恐怖は偏見を生み、偏見は差別を正当化する。
それは人の業のようなものだ。
だが、この世界には更に厄介な事情があった。
「差別は今でも、完全になくなったわけじゃありません」
廊下の奥から足音が聞こえ、クーレリカは反射的に本を背中に隠す。
通り過ぎていく術式師の影を見送ってから、彼女は声を潜めた。
「これは魔導学的に証明されていることなんですが……異能保持者には、災魔を引き付ける性質があるんです」
アルトは表情を変えずに聞いていたが、内心では冷徹に分析していた。
異能への差別が根深い理由——それは、偏見に学術的な根拠が絡みついているからだ。
確かに、異能保持者の魔導回路は先天的に異常発達している。
その特異な魔導粒子の流れが災魔の注意を引くことも、研究によって証明された事実だ。
だが、その影響力は限定的なもの。
せいぜい近くにいる災魔に狙われやすくなる程度で、遠方から引き寄せるほどの力はない。
この『影響はあるが、決定的ではない』という曖昧さこそが、差別の温床となっていた。
完全に否定できないがゆえに、人々の恐怖と偏見は正当化され、世代を超えて受け継がれてきたのだ。
「災魔を引き付けるということは、周囲に危険をもたらす可能性を孕んでいるということでもあって……」
クーレリカの説明は続く。
彼女のベレー帽が、説明の合間にわずかに傾いた。
無意識に手を伸ばし、その位置を直す仕草が、妙に神経質に見えた。
「その性質を『呪い』だと考える人は少なからずいます」
そう言い切った表情は、幼い顔立ちに似合わない苦さを宿していた。
「ゆえに、異能保持者と一般人の恋愛は、暗黙のタブー。この本が禁書になったのも、そのためだそうです。近年ではタブー視する風潮も以前よりは薄れていますが、依然としてセンシティブな話題なので、こういったテーマを扱った書籍はほとんど流通していません」
彼女が言ったように、この書籍を持つことは罪ではない。
しかし、それを愛読していることが公になれば、偏見の目で見られることは想像に難くない。
「だから私、この本を持っていることを、人に知られたくなかったんです」
そして、彼女の声はさらに小さくなった。重い秘密を打ち明けるように。
「私の母は、異能所有者でした。けれども父は、そうではありませんでした」
沈黙が、鉛のように重く二人の間に横たわった。
「異能保持者は基本的に、異能保持者同士で結婚するのが今でも一般的です。私の両親のような組み合わせは……とても珍しくて」
言葉が途切れる。クーレリカは俯き、震える手でベレー帽の位置を直した。
その仕草は、今日何度目だろうか。
「幼い私はそんな事実など知らず、両親と幸せに暮らしていました。けれど、私が十歳の時、両親は亡くなりました。災魔に、襲われて」
夕闇がじわじわと廊下を侵食していく。
「私を引き取ってくれた親戚は、ううん、両親のことを知る人たちは、口を揃えてこう言いました。『呪いのせいだ』と、『一般人と結ばれた罰だ』と。私はそれが、どうしても許せなかった。だから、この本を持ち続けることで反抗したかったんです」
棘のある告白に、気まずい空気が流れる。
「あ……ごめんなさい。また、つまらない話を、延々としてしまいましたね」
力ない笑みを浮かべる彼女に、アルトはゆっくりと口を開いた。
「ありがとうございます、話してくれて」
穏やかな声音に、クーレリカは顔を上げる。そこにあったのは、いつもと変わらない——いや、いつもより少しだけ優しい笑顔だ。
「軽蔑、しましたか?」
「いえ」
即答だった。アルトは淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「異能保持者を差別する人は、だいたい決まっています。戦う力を持たない一般人か、実力に劣る術式師か。僕は、そうはなりたくありません。それに……」
一度言葉を切り、年相応とは思えない深みのある眼差しで続ける。
「今のセティリア隊長を、異能保持者だからと見下す人はまずいないでしょう?」
ギルド【オルフェウス】に所属する者にとって、その例えはあまりにも的確だった。
「結局、圧倒的な実力があれば凌駕されてしまう程度の差別なんです。全ては災魔という脅威に怯える人たちが作り上げた、人間のエゴに塗れた空虚な思想に過ぎない」
言葉が途切れた後も、その余韻が二人の間を漂っていた。
クーレリカは俯いたまま、じっとアルトの言葉を噛みしめているようだった。
やがて、震えていた肩から少しずつ力が抜けていく。
「だから、クーちゃん先輩が負い目を感じることなんて、何もないと思いますよ」
アルトは微笑んだ。それはいつもの人懐っこい笑顔だったが、どこか達観した優しさを含んでいた。
「アルトさん……」
「あなたの秘密は誰にも言いません。約束します」
その言葉に、クーレリカの肩がぴくりと震えた。
「家族のことも、この本のことも」
アルトはさらりと言った。
だが、その視線が一瞬、ほんの一瞬だけ、クーレリカのベレー帽に向けられた。
無意識に右手を持ち上げようとする。親密な相手の頭を撫でる——それは、転生前から身についていた愛情表現だった。
(「いや、やめておこう」)
手は中空で止まり、そのまま自然に下ろされた。
巡回任務での光景が、鮮明に蘇る。
商店街で、クーレリカは誰からも愛されていた。『可愛い』『偉いね』と褒められ、頬を撫でられ、肩を叩かれ——でも、頭だけは違った。
頭に手を伸ばされると、彼女は必ず、巧妙に、しかし確実に避けていた。
ギルドでも同じだ。何気ない仕草の中に、ベレー帽を気にする動作が頻繁に混じる。
位置を直し、深く被り直し、まるで何かを隠すように。
(「きっと、それが理由なのだろうから」)
代わりに、いつもと変わらない穏やかな笑みを向けるだけに留めた。
「ありがとうございます、アルトさん」
クーレリカの声は、まだ少し震えていたが、先ほどよりは落ち着きを取り戻していた。
「次は、約束通り災魔の討伐任務に行きましょう。クーちゃん先輩の活躍、楽しみにしていますね」
そう言われて、クーレリカの顔がぱっと明るくなった。
「もちろんです! 期待していてください! 私は……天才なんですから!」
夕闇に包まれた廊下で、二人は小さく笑い合った。
長い一日が終わろうとしていた。明日からまた、新たな任務が待っている。
「それじゃあ、今日はこの辺で」
「お疲れ様でした、アルトさん」
「また明日、クーちゃん先輩」




