Code:100 古びた絵本①
* * *
夕刻、ギルドのエントランスホール、壁に刻まれた紋章が斜めに差し込む光を受けて金色に輝く。
巡回任務を終えたアルトとクーレリカは、受付カウンターへと向かった。
受付の向こうでは、無数の雑務と格闘していたマリーが顔を上げた。朝から変わらぬ眠そうな表情で、二人を出迎える。
「お疲れ様〜」
欠伸を噛み殺しながら、端末に視線を落とす。指先が慣れた動きで画面を操作していく。
「巡回任務、異常なしで完了だね」
「はい、追加のエリアも特に問題はありませんでした」
クーレリカが定型的な報告を端末へ入力する。軽快な音が任務完了を告げ、いつもと変わらない日常の一幕が終わろうとしていた。
二人が立ち去ろうとした時、マリーが何かを思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。クーレリカちゃん」
マリーの声に足が止まる。彼女はカウンターの下に身を屈め、書類の山をかき分け始めた。
小物入れを覗き込み、引き出しを開け閉めして――
「ちょっと待って。確かこの辺に……あった」
取り出されたのは、一冊の本だった。
それは、ただの本ではなかった。
革装丁の表紙は飴色に変色し、かつては鮮やかだったであろう装飾は色褪せている。
背表紙の金箔は所々剥げ落ち、角は幾度となく触れられたのか丸みを帯びていた。明らかに長い年月を経た、古い本。
「これ、見覚えない?」
瞬間、場の空気が時間を止めるように静まった。
クーレリカの顔から、まるで潮が引くように表情が消えていく。
僅かに開いた口から、かすれた息が漏れた。
「あ……」
一歩、本能的に後ずさる。
その動きはあまりにも不自然で、眠気に苛まれていたマリーですら異変に気づいたほどだった。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
心配そうに覗き込むマリーに、クーレリカは必死に平静を装った。
「い、いえ、なんでも……ありません」
震える声を懸命に抑えながら、小刻みに首を振る。
だが、視線は本から離れない。恐怖と警戒が入り混じった眼差しで、その古ぼけた表紙を凝視している。
「今日の午後、寮の定期清掃があったでしょ?」
マリーは本を軽く持ち上げ、表紙の埃を払いながら説明を始めた。
「清掃員の方が、クーレリカちゃんの部屋の前で見つけたんだって。廊下の隅に落ちてたから、きっと落とし物じゃないかって」
「そ、そうですか……」
消え入りそうな声。握りしめた拳が小刻みに震えている。
「それでね」
マリーが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「受付も暇だったから、ちょっとだけ読んじゃった」
「え……読んだんですか!?」
「うん、途中までだけど」
のんびりとした口調で、マリーは本のページをぱらぱらとめくる。
黄ばんだ紙が擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
「まさかクーレリカちゃんがこんな甘酸っぱい恋愛ものを読んでるなんてね〜」
マリーがにやにやと笑いながら、からかうような視線を向ける。
「年頃の女の子って感じで、お姉さん安心しちゃった」
「ち、違います! それは、その……」
必死に言い訳を探すが、頭の中は真っ白で言葉が出てこない。
「へぇ、どんな内容なんですか?」
アルトが興味深そうに身を乗り出し、本を覗き込もうとした。
すると――クーレリカは電光石火の速さで動いた。
マリーの手から本を奪い取り、それを胸に抱きしめる。
その動きは必死というより、何か危険なものから守るような切迫感があった。
「見ちゃダメです!」
「どうしてですか?」
「……とにかく、ダメなんです!」
焦燥感に駆られた彼女は、震える手でアルトの袖を掴んだ。
その様子は明らかに不自然で、違和感を覚えずにはいられなかった。
「アルトさんは読んだことないんですよね? それじゃあネタバレ禁止です!」
有無を言わさぬ勢いで、クーレリカはアルトの腕を引っ張り始める。
細い腕からは想像もつかない力で、ぐいぐいと引きずっていく。
「ちょ、ちょっと、クーちゃん先輩?」
「任務は終わったのでこれから反省会ですっ! 早く」
半ば強引に、いや完全に強引にアルトを連れ去っていった。
残されたマリーは呆気にとられながらも、どこか楽しそうに二人の背中を見送るのだった。
「初々しいわね〜」
* * *
人通りの絶えた廊下の片隅。
茜色の光が窓から差し込み、石畳の床に複雑な影を落としている。ようやく立ち止まったクーレリカは、壁に背を預けて荒い息を整えた。
胸に抱いた本を、改めて見つめる。
擦り切れた表紙。色褪せた装丁。微かに漂う、古い紙の匂い。
間違いない。これは、あの本だ。
「クーちゃん先輩」
アルトの声に、びくりと肩を震わせる。振り返ると、彼は心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「さっきから様子が変です。いったいどうしたんですか?」
「な、なんでもないです」
「なんでもない人は、あんなに取り乱しません」
冷静な指摘に、クーレリカは言葉を失う。
窓から差し込む夕日が、刻一刻と色を変えていく。
橙から赤へ、そして深い茜色へ。その移ろう光の中で、クーレリカの表情もまた変化していった。
困惑。羞恥。逡巡。
そして最後に――諦め。
「その本、そんなに大切なものなんですか?」
アルトの問いは優しかった。
その温かさが、かえってクーレリカに罪悪感を植え付けた。
本を抱く腕に、無意識に力が込められる。
「……はい」
蚊の鳴くような小さな声だった。
「でも、マリーさんが言ってた通り、普通の恋愛小説なんでしょう? 別に恥ずかしがることじゃ」
「そうじゃないんです!」
続く突然の大声に、アルトは戸惑うような表情を浮かべた。
クーレリカは唇を噛みしめ、言うべきか隠すべきか葛藤している様子だった。
「だって、これは……」
言葉が続かない。何度も口を開きかけては、また閉じる。喉の奥で言葉が詰まり、代わりに小さな嗚咽が漏れた。
長い、長い沈黙が流れた。
廊下の向こうから、帰路につく術式師たちの足音と談笑が微かに聞こえてくる。
やがて、クーレリカが観念したように肩を落とした。
「この本は……絵本なんです」
「絵本?」
「私たちが生まれるより、ずっと前に書かれた絵本」
アルトの視線に、クーレリカは小さく頷く。
「そうだったんですか。けど、それが隠す理由ですか?」
クーレリカは本を抱きしめたまま、視線を床に落とした。言葉を探すように、何度も深呼吸を繰り返す。そして――
「この本を持っていることを、知られたくなかったんです」
震える声で、一言一言を絞り出すように続ける。
「マリーさんは知らなかったみたいですが……」
夕闇が迫る廊下で、クーレリカは決定的な事実を口にした。
「この絵本は、出版禁止になった、禁書なんです」




