Code:096 小さな先輩①
* * *
訓練場での模擬戦から数十分後。
執務室の重い扉の向こう側で、ジュリアナは腕を組んだまま窓の外を眺めていた。
西に傾いた陽が磨き上げた執務机の表面を焦がし、室内に長い影を落としている。
その背中と向かい合うクーレリカの頬には、まだ勝利の高揚が薄い朱を残していた。
「見事な勝利だったな、クーレリカ」
簡潔な評価。だが、声の底に敷かれた重みは、社交辞令とは明らかに質が違う。
「当然の結果です、司令官」
胸を張る少女の瞳が、窓から射す西日を受けて誇らしげに輝いた。
「パトリックも最後は善戦していたがな。もっと一方的な展開になると踏んでいたが……」
「確かに、予想以上でした。ですが――私の実力には及びません」
断言するクーレリカを横目に、ジュリアナは指先で机の縁を叩いた。
こつ、こつ、と規則的なリズムが執務室に落ちる。
静寂の中でそれだけが鳴り続ける数秒間、クーレリカは微動だにできなかった。
「約束通り、アルトの指導役は貴様に任せる」
「ありがとうございます!」
喜びを隠す気など微塵もなく、クーレリカは深々と頭を下げた。
エメラルドグリーンの髪が感情を表すかのように揺れ、肩から零れ落ちる。
だが、次の一言が、弛緩した空気感を引き締めた。
「一つ、忠告しておく」
窓辺から振り返った司令官の双眸に、普段通りの鋭さが宿る。
クーレリカの喉が、無意識に小さく鳴った。
「アルトは見た目ほど単純な新人ではない。貴様も薄々感じているだろう?」
「……はい。承知しています」
「それでも引き受けるか?」
「もちろんです」
即答だった。
面を上げたクーレリカの瞳には、一片の迷いも見当たらない。
真っ直ぐにジュリアナを見据え、唇の端にかすかな笑みすら浮かべていた。
「私は天才ですから。どんな新人であろうと、きちんと指導してみせます」
その自信に満ちた宣言を受けて、ジュリアナは小さく肩をすくめた。
呆れとも、感心とも取れる仕草だった。
「期待している。明日から頼むぞ」
「はい! パトリックさんのような無謀な任務選びは致しません。計画的に、理論的に――」
「分かった、分かった。もう行け」
ひらひらと手を振られ、クーレリカは最後にもう一度、律儀に礼をして執務室を後にした。
靴音が廊下に遠ざかり、やがて沈黙が戻る。
ジュリアナは再び窓の外へ視線を移した。
藍色に染まりかけた空の端で、一番星が一つ、躊躇うように瞬いている。
「さて、どうなることやら」
独りごちた声は、誰に向けたものでもなかった。
* * *
廊下の片隅。
等間隔に灯された照明の光が届かない一角で、アルトとパトリックが向かい合っていた。
「お疲れ様でした、パトリック先輩」
穏やかな声音の奥に、複雑な感情が渦巻く。
無論、責めるつもりなど毛頭ない。
責めるとすれば、彼の性格ゆえの油断も織り込んだ戦略を立案しきれなかったこと。
それを怠って彼に非を問うほど、厚顔無恥ではないつもりだ。
パトリックは力なく首を振った。
「……やっちゃったよ」
「まあ、仕方ないですね。善戦できただけで御の字でしょう」
慰めの言葉に、パトリックは肩を落とし、深い溜息をひとつ吐き出した。
だが次の瞬間、ふと肩の力が抜ける。
「でも、これでようやく……」
呟きかけて、言葉を飲み込む。
ようやく――アルトから解放される。
この一か月間、弱みを握られ、命懸けの任務に駆り出され続けた日々。
毎朝目覚めるたびに、今日こそは死ぬのではと縮み上がったあの感覚。
それが、ついに終わるのだ。
「何か言いました?」
「いや、なんでもない」
首を振りながらも、隠しきれない笑みが口元に滲み出る。
敗者の顔ではなかった。長い牢獄から解き放たれた囚人のように、その目はどこか晴れやかだった。
軽く身震いをして気持ちを切り替えると、パトリックは不意に声を低くした。
「それより、忠告しておくよ」
「はい?」
周囲を素早く見回し、誰もいないことを確かめてから、声を潜めて続ける。
「クーレリカのことさ。可愛らしい見た目に騙されるなよ。とにかく面倒くさい。プライドが高くて、認められたがりで、褒められるとすぐ調子に乗る。でも否定されると、嘘みたいに簡単にしぼむし、立ち直るのも遅い」
「なるほど」
「それに年下のくせに先輩ぶりたがるし、隙あらば理論語り始めるし……」
愚痴をこぼしながらも、パトリックの声に敵意はなかった。
「でも、悪い子じゃないんだ。ただ……寂しいんだろうな」
「寂しい?」
「ここでは最年少だったからね。友達もいなくて、どこか周囲に壁を作って、いつも浮いてた」
パトリックは一度言葉を切り、天井の薄闇を見上げた。
「仕方ないんだよ。才能があるせいで周りと噛み合わないし、本人もそれを分かってるから余計に意地を張る。そういう――厄介な不器用さがある」
「何となく、分かってたけどな」
「だから、君にはクーレリカと仲良くしてやって欲しい。あの子に必要なのは、指導する相手でも指導される相手でもなくて――多分、対等に話せる誰かなんだろうな」
そう言い残すと、彼の表情はあっけなく元に戻った。
肩を回し、大袈裟に伸びをしてみせる。
「それじゃ、僕はしばしの自由を満喫してくるよ!」
軽快な足音が遠ざかっていく。
鼻歌交じりのそれは、重荷を下ろした男の足取りそのものだった。
残されたアルトは一人、廊下の暗がりに佇む。
冷たい壁に背を預け、天井を仰いだ。
(「――対等に話せる誰か、ね」)
口の中で反芻した言葉が、妙にひっかかった。




