Code:095 クーレリカvsパトリック②
「さて、お手並み拝見といきましょうか」
クーレリカが小首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。
そこには年相応の生意気さと、どこか小悪魔的な可憐さが同居していた。
彼女は軽やかに跳躍し、それと同時に風の術式弾を形作る。
新緑の燐光を纏った弾丸は、まるで意思を持つように空中をうねりながら、パトリックへと迫った。
対するパトリックの反応は、予想以上に素早かった。
水の術式弾を瞬時に展開し、飛来する風弾を迎撃する。
二つの術式が激突した瞬間、訓練場に虹色の飛沫が舞い散った。
光の粒子が宙を漂い、幻想的な光景を作り出す。
「少しはやるみたいですね」
「僕だって、これくらいはっ……!」
クーレリカの瞳に、初めて真剣な色が灯った。
以前のパトリックなら、この速度についてくることすら不可能だったはずだ。
何かが、変わっている。
二人は互いの間合いを測りながら、牽制の応酬を続けた。
風と水の弾丸が複雑な軌道を描いて交錯し、訓練場の空間に光の網を紡いでいく。
ほんの一瞬の油断が致命傷になる、剣呑な駆け引きだった。
「でも、これまでですっ!」
状況が膠着しかけた時、クーレリカが地面を蹴った。
先ほどまでとは別次元の加速。
残像すら置き去りにする疾走に、パトリックは本能で術式剣を展開した。
水属性の蒼い刃が光を放ち、迫り来る少女の残影を迎え撃とうとする。
だが——
「その程度で私を止められると?」
くすくすと風鈴のような笑い声とともに、クーレリカの背から旋風の翼が爆発的に展開された。
「——《天霊の鳳翼》!」
精霊の名を冠する術式翼。本来ならC2ランク相当の術式師に扱える技ではない。
それを彼女は、生まれながらに備わった翼のように自在に操っている。
巨大な翼がひと打ちすると、その体が垂直に舞い上がった。
パトリックの剣は虚しく空を切り、彼は呆然と上空を仰ぐしかない。
「くっ、ズルいぞ、空に逃げるなんて……!」
訓練場の天井近く、逆光を背負ったクーレリカのシルエット。
神々しさすら感じさせるが、その手に宿るのは救済ではなく裁きの雷霆だった。
風属性と雷属性が融合した無数の術式矢が次々と生み出され、敵を殲滅する光の矢となって眼下の獲物を見下ろしている。
「——《絶閃の霹靂》!」
空が、落ちてきた。
そう形容するしかない光景だった。
無数の風雷が逆さまの瀑布となって降り注ぐ。
パトリックは悲鳴を上げながらひたすらに走った。
右へ、左へ、転がり、跳び、破壊の雨から逃れようと足掻く。
「くそっ、こんなの……避けきれるわけが……!」
息も絶え絶えに、壁際に転がり込む。
全身が汗に濡れ、心臓が胸骨を叩き割りそうなほど脈打っていた。
天才と凡人の差。
その絶望的な隔たりが、彼の精神を内側から押し潰そうとしている。
「もう終わりですか?」
上空でホバリング飛行するクーレリカは、風の翼を優雅に羽ばたかせながら、眼下を冷たく見下ろしていた。
大出力の術式を使っているにも関わらず、息を乱す気配すらない。
「ダメだ……勝てない……」
パトリックの呟きが、敗北宣言のように訓練場に落ちた。
観衆にも、既に勝負は決したという空気が広がり始める。
けれども、その時——
観客の中に紛れていたアルトの瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
それは本当に僅かな、瞬きほどの合図。
だがパトリックにとっては、暗闇に差し込んだ一筋の光だった。
脳裏に、あの廊下での会話が蘇る。
* * *
「確かに、クーレリカは天才少女らしいな」
薄暗い廊下で、アルトの声は温度を持っていなかった。
「分かってるだろうが、格下のC2ランクと思わないほうがいい。ランクはあくまで実績であって、実力と必ず比例するわけじゃない。今のあんたが、C1ランクであるようにな」
「うぐっ、そう言われればそうなんだが……でも、それじゃあ、勝ち目なんて……」
「ああ、普通ならゼロだ」
アルトの口元に、悪魔的な笑みが刻まれた。
「だが、付け入る隙ならある。あの子は間違いなく天才なんだろうが、踏んだ場数も経験値も、まだまだ足りていない」
「弱点が、あるってことか?」
「端的に言えば——あんたを格下だと舐めていることだ」
パトリックが眉をひそめるが、アルトは構わず続けた。
「彼女は珍しい術式翼の使い手らしいな。空中戦に持ち込まれれば限りなく不利だが、勝機はそこにある」
「どうやって……?」
「撃ち落としてやればいい。機動力が厄介な術式翼だが、完全に使いこなすのは至難の業だ。適切なタイミングで迎撃すれば、案外あっさりと撃墜できる」
「簡単に言うけどな……」
「あんたにタイミングを読めとまでは言わねぇよ。その時が来たら合図を送ってやる。そのタイミングであんたの得意な術式、《ヒュドールレイン》を三回撃て。分かったな?」
パトリックは困惑した。
《ヒュドールレイン》——使いやすいが特筆すべき性能もない、ありふれた水属性の汎用的な昇華式。
それで天才の翼を撃ち落とせるというのか。
「あんたがあの子に唯一勝っている点、それは、“戦闘の経験値”だ。この一か月、どんな形であれ、あんたは通常じゃありえないほどの場数を踏んできた……まさか、無駄にはしてないだろう?」
確かに、アルトに連れ回された災魔との戦場は地獄だった。
だが同時に、身につけたものがある。
死線を潜り抜けた者だけが持つ独特の勘。
極限状態でも術式を崩さない集中力。
そして何より——恐怖に呑まれながらも、戦闘を継続する胆力。
それらは座学では決して得られない、戦場だけが教えてくれるものだった。
チャンスは、まだ残っている。
* * *
回想が途切れ、意識が現在に引き戻される。
パトリックの手は震えていた。
それでも、術式を組むために動かす指は止まらなかった。
(「前の僕なら、追い詰められた状態で冷静に術式なんて組めなかった」)
矢の雨を掻い潜りながら、術式を構築していく。
恐怖で固まりそうな体を、意志だけで動かす。
「行くぞ——《ヒュドールレイン》!」
第一撃。
狙ったのは、クーレリカが術式矢を再展開する僅かな間隙。
絶対的に有利な状況がもたらす慢心ゆえ、彼女の意識がパトリックから逸れた、その刹那に放たれた一発だった。
「……っ!?」
水弾がクーレリカの左翼を掠めた。
直撃ではない。
だが、まともに直撃したほうが彼女にとっては好都合だっただろう。
撃ち落そうと躍起になった一撃ではなく、翼の輪郭を滑らせるように撃ち込まれた一撃。
衝撃としては軽い、しかし、術式同士が接触する時間と面積は最大になる。
魔導粒子の干渉によって術式翼の構成は乱れ、クーレリカの身体はゆらりと傾いて風を切る音と共によろめく。
「くっ、偶然……いや、違う」
クーレリカの瞳に、初めて警戒の色が差した。
あの一撃は苦し紛れの無謀な反撃ではない。
明確な意図を持って、あの角度で、あのタイミングに撃ち込まれていた。
即座に判断を下す。空中での滞空は危険だ。
「これならっ、どうですか? ——《エアリアルフレイル》!」
急降下に移りながら、風属性の術式鞭を展開する。
螺旋を描く鞭が大蛇のようにうねり、パトリックに襲いかかった。
「もう一発——《ヒュドールレイン》!」
アルトから、二回目の合図。
第二撃は、クーレリカが降下から水平飛行へ移行する瞬間を射抜いた。
減速と加速の狭間——最も無防備な一瞬を、タイミング良く狙撃する。
「きゃあっ!」
クーレリカは咄嗟に術式翼で体を包み込むように防御を固めたが、衝撃で姿勢が大きく崩れた。
嵐の中の木の葉のように、空中で無様に漂う。
(「態勢が崩れた——! ここで仕掛ければ……勝てる!」)
パトリックの全身を、勝利への確信が駆け巡った。
低空で無防備に漂うクーレリカは、もはや射程内の獲物でしかない。
格上への勝利の予感、理性を焼き尽くすような熱い衝動に支配される。
皮肉にもそれは、彼をここまで優勢に導いた冷静さを完全に奪い去っていた。
アルトがまだ三回目の合図を出していないことなど、興奮に支配された彼の意識からは完全に消し飛んでいる。
「これで終わりだ! ——《ヒュドールレイン》!」
渾身の一撃。
水弾が青い彗星となって、標的へ一直線に突き進む。
しかし——パトリックは一つ、致命的な勘違いをしていた。
ここまでの《ヒュドールレイン》が有効に決まったのは、絶妙なタイミングと距離で放たれたからこそ。
遠距離戦で、相手の隙を狙いすましたからこそ有効な戦術も、低空への落下で距離が詰まった状況では有効とは限らない。
(「待て、馬鹿野郎——ここじゃない!」)
アルトの心中の叫びは、誰にも届かない。
その時には、既に手遅れだった。
空中でよろめいていたはずのクーレリカの眼光が、突如として剃刀のように鋭くなる。
勝利を確信した笑みが、浮かんでいた。
「——甘いですね」
クーレリカの身体が、空中で優雅に回転する。
一瞬のバックフリップ。風の翼が生み出す気流を完璧に制御した、芸術的な回避機動。
水弾は彼女の真下を、虚しく通過していく。
そして次の瞬間――彼女は隼の如く急加速した。
パトリックが状況を理解する前に、勝負は決まっていた。
反対の手に握られた雷の術式短剣が金色の弧を描く。
それは美しく、そして残酷な一閃だった。
「——っ!」
DOCのシステムが作動した。
肉体への物理ダメージを精神への衝撃として変換する、その機構が。
胸を貫かれた激痛が、パトリックの意識を灼いた。
現実には傷一つ負っていない。
それなのに体は本当に刺し貫かれたと信じている。
視界が歪み、膝から力が消えた。
脳が処理しきれない痛覚の奔流に、意識が白く塗り潰されていく。
全ての術式が霧散した。
「あ……ぁ……」
糸の切れた人形のように崩れ落ち、パトリックはその意識を手放す。
訓練場の床に倒れ伏すその姿は、完全なる敗北を静かに物語っていた。
クーレリカは、蝶のように軽やかに着地した。
乱れた前髪を指で梳く。
あれだけ激しく動き回ったにもかかわらず、白いベレー帽は寸分の狂いもなく元の位置に収まっている。
「正直、驚きました。パトリックさん、確かに強くなっていましたね」
それは上から目線の評価。
だが偽りのない本心でもあった。
パトリックが、もう少し経験を積んでいれば、敗北する展開もあり得たかもしれない。
その可能性を、クーレリカは正確に感じ取っていた。
「でも——本気を出せば、こんなものです」
彼女の声が、審判の鐘のように、訓練場に響く。
「私は、天才なんですからっ!」




