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ある日、押し包むように深い霧を分け入って乙女の湖を流れてくる舟があった。

湖面は今日はとても凪いでいて湖の乙女たちは眠っているようだった。

 

舟の上の小柄な人影はじっとうつむいて辛抱強く耳を澄ましていた。

自分をここに誘ったなにかが呼びかけてくれるのを。

だが聞こえるのは平和な静寂ばかり。


やがて人影は鈍々(のろのろ)と自分を引き込む手を探し水を覗きこんだ。暗い色の水にフードを深く被った影ばかりが映っていた。

 

──わたしはここにいるのに

 

心がそっと言葉をこぼす。

声はもう長らく使っていない。

 

湖面に黒影を映した少女には名前があった。

だが誰の記憶にも色味を残すようなことはなく鉛筆の灰色のかすれのようなものだった。

少女自身にとってもわずらわしさばかり呼び起こす記号のようなものと成り果てていた。

 

誰でもない者としての時間の方がはるかに長かったのだ。

それは楽だったが、なにかがゆるりと死んでいくのだった。

死んで消えてかかっているなにかが惜しまれる気がして、彼女は今湖の上を漂っているのだった。

 

──わたしはいるのに

 

湖にこぼした声なき言葉が落ちたのは眠る水の乙女たちの夢の中ではなかった。

彼女たちが泣いて慰め、笑いあやして、撫でて手を取り、歌い踊って、それから引きちぎって破裂させて、剥ぎ合わせてくっつけて、それから再び興味を引くまでしまっておかれる無数のなにかのうちのひとつだった。

 

〈それ〉は声なき言葉に目を覚まし、水の乙女たちが眠っているなか湖上の少女目指して上昇した。


ごぼり。


水影を破って突き出た人外の異様な腕に、かすれ消えかけた名前の少女は目をみはった。

腕は彼女に歌い返した。

 

──わたしはここに 

   そこかしこに そこら中に


少女は湖面から突き出る、必死ですがるものを求めるかのような手を魅入みいられたように見詰めた。

自分を求めているかのように見えるその形。

歌は歌い返されたのだ、確かに彼女に向かって。

それはかすれた名の少女にこたえたのだった。


躊躇ためらいつつもそろそろと、おぞましい腕に向かって、彼女の腕が伸ばされる。


「キャアアアアアァァッッ────」


 水を波立たせるような悲鳴が一帯に響き渡った。


一斉に目を覚ました水の乙女たちが水泡とともに湖上に姿を見せる。

 踊るような仕草で水に文様を描き声の主を探して霧をかき回す。


(いないわ)

(誰もいない)

(いなくなったわ)

(隠れているの?)

(いいえ、いなくなってしまったわ)

 

(霧に哀しみの香りが漂っているのに)

(まだ魂から絞り出された苦い味が残っているのに)

(絶望の旋律を水に歌った誰かがいたのに)


(いないわ)

(誰もいない)

(いなくなったわ)

(隠れているの?)

(いいえ、いなくなってしまったわ)

 

誰もいない舟から千切り取られた片腕が取り出される。


(ここにいたわ)

(いいえ、いなくなってしまったわ)


(わたしたちと啜り泣くのが大好きだったあのこの匂いがするわ)

(誰かに拾われたの、水の子守唄を歌ってちゃんとしまっておいたのに)


(誰が拾っていってしまったの?)

(わたしたちと啜り泣くのが大好きだったのに)


(淋しいわ)

(淋しいわ)

(淋しいわ)

 

乙女たちが集ってむせび泣くと、水竜巻が起こって舟を沈め、舟底に溜まっていた鮮やかな赤い血も暗い水に呑まれて消える。



       

***



お伽の国では、黒ピエロと白ピエロが大臣と側近を務めている。

二人とも極めて職務熱心である。

 

黒ピエロはこれぞというものを選んでは放り出しては情熱的ににオモチャを散らかし、それから目をかけているオモチャの笛で万国旗を出して遊ぶ。

 

白ピエロは降ってくる誰も書き留めることのなかった音楽を聞きながら広間中を踊りまわる。

 

玉座では子供の王様が眠たげにしている。


踊っていた白ピエロが不意に転倒すると、王様はあくびをし、黒ピエロが万国旗の笛を吹きならした。


白ピエロが顔をしかめ耳をふさいで首を振る。それを見て今度は黒ピエロがサルのタンバリンをたたく。

 

白ピエロは黒ピエロにしかめ面してから玉座に駆け寄って大声で天から落ちてきた予言を耳打ちする。


「来るよ」「来るよ」

「なにか、真っ黒で怖ーいものが」

 

王様はキャッ、といって逃げ出す。

白ピエロは落とした王冠とマントを拾って追いかけ、その後をしばし選択に迷った挙げ句に黒ピエロは黄色いアヒルちゃんとビーチボールを持って追いかける。



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