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月曜日のオフィスは、いつもと同じように慌ただしく一日が始まった。しかし、蓮とくるみの間には、明らかに昨日までとは違う、柔らかく温かい空気が流れていた。それは、周囲のメンバーもなんとなく感じ取るほど、ささやかだが確かな変化だった。
朝の挨拶。いつもなら「おはようございます」と硬い声で言うだけの蓮が、「おはようございます、桜井さん。週末は…ゆっくり休めましたか?」と、少しだけ個人的な言葉を付け加えた。
くるみも、「おはようございます!はい、おかげさまで!神崎さんも、顔色いいですね!」と、いつもよりワントーン明るい声で返す。
ほんの短いやり取りだが、互いの目には、以前のような警戒心はなく、穏やかな光が宿っていた。
プロジェクトの最終調整会議。議題は山積みで、議論が白熱する場面もあったが、二人のやり取りは以前とは全く違っていた。
「ここの表現、もう少しインパクトが欲しいですね。ただ、あまり奇をてらいすぎると、月島製菓様のブランドイメージを損なう可能性も…」蓮が、慎重に言葉を選ぶ。以前なら「却下です」と一刀両断していたかもしれない場面だ。
「なるほど…確かにそうですね。じゃあ、基本路線は変えずに、ここのコピーだけ少し遊び心を加えるのはどうでしょう?例えば…」くるみが、蓮の意見を尊重しつつ、具体的な代替案を出す。以前なら「もっと面白くしなきゃ意味ないですよ!」と反発していたかもしれない。
互いの意見を頭ごなしに否定せず、まず受け止める。そして、それぞれの強みを活かして、より良いものを創り上げていく。その姿は、まさに宮田先生が言った「良いコンビ」そのものだった。会議が終わると、蓮がくるみに小さく声をかけた。
「…さっきの、桜井さんのアイデア、素晴らしかったです。私では思いつかない視点でした」
「えへへ、ありがとうございます!でも、神崎さんのリスクヘッジがあったから、安心して提案できたんですよ」くるみが、素直に笑顔を見せる。
(…素直に褒めてくれた…)
(…ちゃんと、頼ってくれた…)
互いの心の中に、温かいものがじんわりと広がっていくのを感じた。
チャットでのやり取りも、変化が見られた。
蓮:『例の資料、修正ありがとうございます。完璧です』
くるみ:『いえいえ!(`・ω・´)ゞ それより、神崎さん、今日のネクタイ、素敵ですね!』
蓮:『え…あ、ありがとうございます(汗)』
くるみ:『(笑)』
蓮:『…(照)』
スタンプや顔文字に加えて、少しだけプライベートな話題が混じるようになった。蓮はまだ顔文字の意味を完全に理解できていないし、突然の褒め言葉に戸惑って変な汗の絵文字を送ってしまうこともあるが、そのぎこちなさすら、二人にとっては新鮮で、くすぐったいものだった。
もちろん、長年染み付いた癖は、そう簡単には抜けない。
ある時、くるみが作成した資料に小さなミスを見つけた蓮は、つい反射的に「桜井さん、ここの数字、間違っています。基本的な確認を怠らないでください」と、以前のような厳しい口調で指摘してしまった。くるみも、カチンときて「すみません!でも、神崎さんだってこの間の…!」と言い返しそうになり、ハッとして口をつぐむ。
気まずい沈黙。蓮は「しまった」という顔で、「…いや、すみません、言い方が…」と慌ててフォローする。くるみも、「いえ、私のミスです。すぐ直します」と、深呼吸して応える。以前なら、ここから大喧嘩に発展していたかもしれない。しかし、今は互いの「不器用さ」を知っている。だから、少し冷静になれば、相手を許し、自分も省みることができた。
(…つい、いつもの癖が…気をつけないと)蓮は反省する。
(…私も、ムキになっちゃったな…もっと落ち着かないと)くるみも思う。
そうやって、小さな衝突と反省を繰り返しながら、二人は少しずつ、新しい関係性のバランスを見つけ出そうとしていた。蓮は、完璧な仮面を少しずつ脱ぎ、人間らしい感情や弱さを見せる練習を。くるみは、一人で抱え込まずに人を頼ること、そして素直に甘えることの練習を。それは、二人にとって、とても勇気のいる、そしてとても大切な一歩だった。
プロジェクトは無事に最終ローンチを迎え、大きな成功を収めた。月島製菓の役員たちからは最大限の賛辞が送られ、業界内でも大きな話題となった。その成功は、間違いなく、蓮とくるみ、二人の力が合わさったからこそ成し得たものだった。
最終報告会が終わった夜、二人きりで祝杯をあげることになった。場所は、渋谷の喧騒から少し離れた、隠れ家のような小さなバー。あの打ち上げの夜とは違う、落ち着いた雰囲気の店だった。
「…本当に、終わったんですね」くるみが、感慨深げにグラスを傾ける。
「ええ。…長かったようで、短かったですね」蓮も、穏やかな表情で応える。
「色々ありましたけど…でも、楽しかったです。神崎さんと一緒に仕事ができて」
「…私もです。桜井さん、あなたとでなければ、このプロジェクトは成功しなかった」蓮が、真っ直ぐにくるみの目を見て言った。その瞳には、もう迷いや恐れの色はない。
「…あの、桜井さん」蓮が、少し改まった口調で切り出した。「もし、よろしければ…ですが」
「はい?」
「今度…その、仕事とは関係なく…食事でも、いかがですか?」
蓮の言葉に、くるみの心臓が、とくん、と跳ねた。彼の顔は少し赤く、緊張しているのが伝わってくる。その姿が、なんだかとても愛おしく思えた。
くるみは、満面の笑みで頷いた。
「はい!ぜひ!」
その返事に、蓮の表情が、ぱあっと明るくなる。彼がこんなに分かりやすく感情を表に出すのを、くるみは初めて見たかもしれない。
バーからの帰り道。夜空には、綺麗な半月が浮かんでいた。
「次は、負けませんよ」くるみが、いたずらっぽく笑って言う。仕事のライバルとしての宣言だ。
「…望むところです」蓮も、穏やかに笑って返す。恋人として、そして最高のライバルとして。
二人の間には、もう分厚い壁も、冷たい仮面もない。互いの弱さも、強さも、不器用さも、すべてを受け入れた上で、新しい関係が始まろうとしていた。それは、長いプロローグを終え、ようやく幕を開けた、二人の恋の物語の、本当の始まりだった。
これで本編完結です。この後はその後の付き合ってる2人の日常番外編(むしろそっちがタイトル的には本編…)が5話ほどあります。