7
夜の駅へと続く道。街灯の頼りない光が、立ち止まったままの蓮とくるみを照らしていた。蓮の告白は、まだ終わっていなかった。
「…昔から、そうだったんです」蓮の声は、まだ少し震えていたが、先ほどよりは落ち着きを取り戻していた。「仕事や、人前では『しっかりした、頼れる男』でいなければならない。そう自分に言い聞かせてきた。でも、心を許した相手の前では…どうしても、甘えたくなってしまう。頼りたくなってしまうんです」
彼は自嘲するように、ふっと息を吐いた。
「でも、それが…ダメだった。歴代の彼女たちには、決まってこう言われました。『頼りがいがあると思って付き合ったのに、二人きりだと子供みたいで冷めた』って。最初は完璧な男を演じているから、そのギャップに、みんな幻滅していくんです」
彼の言葉の一つ一つが、くるみの胸に突き刺さる。交流会で聞いた噂話は、やはり真実だったのだ。そして、彼がどれほど深く傷ついてきたのかが、痛いほど伝わってきた。
「…だから、怖かったんです」蓮は、くるみの目を真っ直ぐに見つめて言った。「また、同じことを繰り返すのが。誰かに本当の自分を知られて、幻滅されるのが。だから…完璧な仮面を被り続けるしかなかった。仕事に没頭して、弱さなんてないフリをするしかなかったんです」
彼は、まるで懺悔するように、言葉を紡いでいく。
「打ち上げの夜…あなたの前であんな姿を見せてしまった時も、本当に怖かった。あなたにだけは、幻滅されたくなかったのに…」
そこまで言うと、蓮は唇をきつく結び、俯いた。まるで、判決を待つ被告人のように。彼の肩が、わずかに震えているように見えた。
くるみは、言葉を失っていた。彼の告白は、あまりにも痛々しく、そしてあまりにも正直だったから。いつも冷静沈着で、完璧に見えた男の、剥き出しの弱さ。それは、くるみが今まで見てきたどの男性とも違う、脆く、人間らしい姿だった。
(…神崎さん…ずっと、一人で戦ってきたんだ…)
彼の孤独と苦しみが、自分のことのように感じられた。そして、同時に、自分がお見舞いの時にかけた無神経な言葉や、打ち上げの夜に逃げるように立ち去った行動が、どれほど彼を傷つけたかもしれないかを思い知らされた。
(…私だって、同じなのに…)
気づけば、くるみは口を開いていた。
「…私だって、同じですよ」
「え…?」蓮が、驚いたように顔を上げる。
「私も、ずっと怖かったんです」くるみは、震える声で続けた。「見た目が、こうだから…」自分の小柄な体と、可愛いと言われがちな顔を指差す。「みんな、勝手に『可愛い女の子』だって期待する。でも、中身は全然違う。サバサバしてるし、思ったことすぐ言っちゃうし、全然可愛げなんてない」
彼女もまた、自嘲気味に笑った。
「だから、付き合っても、いつもガッカリされるんです。『イメージと違った』とか、『もっと甘えてほしかった』とか…『可愛げがない』って、何度も言われてきました。だから、私も怖かった。どうせ誰も、本当の私なんて見てくれないんだって」
今度は、蓮が息をのむ番だった。彼女の強気な態度の裏にあった、繊細な心と、過去の傷。いつも太陽のように明るく見えた彼女が、自分と同じように、ギャップに悩み、孤独を抱えていたなんて。
「…だから、神崎さんが、あの夜…」くるみは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「…甘えるような姿を見せた時、正直、すごく驚いたし、戸惑いました。どうしたらいいか、分からなくて…逃げちゃった。ごめんなさい」
「いや…」蓮は首を横に振る。「謝らないでください。私が、勝手に…」
「でも」くるみは蓮の言葉を遮るように、顔を上げた。その瞳には、強い意志の光が宿っていた。「でも、嬉しかったんです」
「え…?」
「幻滅されるのが怖いって言ってたけど…私は、幻滅なんかしなかった。むしろ…神崎さんの、そういう人間らしいところを見られて、なんだか…嬉しかったんです。完璧なだけじゃないんだって」
くるみの真っ直ぐな言葉に、蓮は目を見開いた。幻滅されるどころか、嬉しい、と彼女は言った。長年、彼を縛り付けてきた呪いのような言葉とは、正反対の言葉。それは、まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、蓮の心を照らした。
「…桜井さん…」
「私たち、似てますね」くるみは、ふふっ、と小さく笑った。「どっちも、不器用で、素直じゃなくて、変なところで意地っ張りで」
その言葉に、蓮もつられるように、微かに口元を緩ませた
「…そう、かもしれませんね」
宮田先生が言った「不器用なほど真っ直ぐ」という言葉が、二人の胸にすとんと落ちる。互いの弱さやコンプレックスをさらけ出したことで、二人の間にあった最後の壁は、完全に消え去っていた。そこには、ライバル意識も、気まずさも、もうない。ただ、同じ痛みを分かり合えた者同士の、穏やかで、温かい空気が流れていた。
駅へと続く道。どちらからともなく、再びゆっくりと歩き出す。もう、沈黙は気まずくなかった。言葉にしなくても、互いの存在がすぐ隣にあることが、今は何よりも心地よかった。
(…この人になら、本当の自分を見せてもいいのかもしれない)
(…この人なら、私の弱さも、受け入れてくれるのかもしれない)
二人の心の中に、同じような確信にも似た感情が、静かに芽生え始めていた。
やがて、駅の明かりが見えてきた。改札の前で、二人は立ち止まる。
「…じゃあ、ここで」くるみが言う。
「…はい。今日は…その、ありがとうございました」蓮が、少し照れたように言った。
「こちらこそ。…ちゃんと、話せてよかった」くるみも、はにかむように笑う。
別れの挨拶は、いつもと同じはずなのに、どこか違う。以前のようなビジネスライクな距離感ではなく、もっとパーソナルで、温かい何かが、二人の間に確かに存在していた。
「…また、月曜日」
「…ええ、月曜日に」
短い言葉を交わし、二人はそれぞれの改札へと向かう。くるみは、自分の頬が少し熱いことに気づき、慌てて手で押さえた。蓮もまた、去っていく彼女の後ろ姿を、今まで見たことのないような優しい目で見送っていた。
凍てついていた二人の関係は、互いの告白によって、確かな温もりを取り戻した。それはまだ、恋と呼ぶには早いのかもしれない。けれど、互いの仮面の下にある素顔を受け入れ合ったことで、二人の物語は、間違いなく新しい章へと進み始めていた。