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蓮がインフルエンザから復帰して数週間が過ぎたが、彼とくるみの間の空気は凍りついたままだった。

プロジェクトは最終的なローンチに向けて佳境に入り、多忙な日々が続いていたが、二人の間のコミュニケーションは必要最低限の業務連絡のみ。それも、チャットやメールが中心で、直接言葉を交わす機会は極端に減っていた。


蓮は、くるみがお見舞いに来てくれたことへの感謝と、彼女を戸惑わせてしまったことへの後悔を抱えながらも、それをどう表現すればいいのか分からなかった。下手に接触して、またあの夜のように無様な姿を晒してしまうことを恐れていた。彼女が自分に失望している(であろう)という思い込みが、彼をさらに頑なにした。

(…桜井さんは、強い人間だ。私のような、弱さを抱えた人間とは違う…)

そう結論づけ、彼は仕事に没頭することで、胸のざわめきから目を背けようとした。


くるみもまた、蓮への気まずさと、どうしようもなく惹かれる気持ちの間で揺れていた。彼が病んでいた時に見せた、普段の完璧さとはかけ離れた姿。そして、交流会で耳にした彼の過去の恋愛の噂。それらが頭の中でぐるぐると回り、彼を見るたびに胸が締め付けられるような感覚に陥った。

(…あの人だって、色々抱えてるんだ…私と同じように、いや、もっと…)

そう思うのに、いざ彼を前にすると、気の利いた言葉一つかけられない自分がもどかしい。お見舞いでの失態を思い出すたびに、自己嫌悪に陥った。

(…やっぱり、私じゃダメなんだ。あの人の隣にいられるのは、もっとちゃんとした、優しい女の子なんだろうな…)

そんな諦めに似た感情が、彼女の心を覆い始めていた。


そんなある週末、二人にとって予期せぬ知らせが届いた。大学時代の共通の恩師である、経済学部の老教授・宮田先生が、近々退官されるという。そして、ささやかな退官記念の集まりが、先生の自宅で開かれることになったのだ。蓮もくるみも、宮田ゼミの出身だったが、在籍時期がずれていたため、学生時代に直接的な接点は全くなかった。しかし、二人とも宮田先生には深い恩義を感じており、断るという選択肢はなかった。


当日、都心から少し離れた閑静な住宅街にある宮田先生の自宅には、歴代のゼミ生たちが十数名ほど集まっていた。蓮とくるみは、会場で顔を合わせた瞬間、一瞬ぎこちない空気になる。


「…どうも」蓮が、小さく会釈する。

「…お疲れ様です」くるみも、硬い表情で返す。


幸い、他の卒業生たちとの挨拶や歓談に紛れ、二人は直接話す機会をほとんど持たずに済んだ。しかし、互いの存在は常に意識の片隅にあった。蓮は、恩師や他の卒業生と談笑するくるみの、明るくハキハキとした姿を目で追ってしまう。彼女の周りには自然と人が集まり、場が華やぐ。

(…やはり、彼女は太陽のような人だ。私とは違う…)


くるみは、先生の話に真剣に耳を傾ける蓮の、知的な横顔を盗み見ていた。学生時代から優秀で有名だった先輩。今も変わらず、その佇まいにはどこか近寄りがたいほどの完璧さがある。でも、あの夜や、病んでいた時の姿を知ってしまった今、その完璧さが、どこか痛々しい鎧のように見えてしまう。

(…本当は、違うのに…)


宴も半ばに差し掛かった頃、宮田先生が、穏やかな笑顔で二人に声をかけてきた。

「おお、神崎くんに、桜井さんじゃないか。君たち、あの月島製菓のプロジェクトで一緒なんだってね。素晴らしい活躍じゃないか」

「いえ、先生、そんな…」蓮が謙遜する。

「宮田先生、ご無沙汰してます!先生のおかげで、なんとかやれてます!」くるみが笑顔で応える。

「はっはっは、相変わらず桜井さんは元気だな。神崎くん、桜井さんは頼りになるだろう?彼女は昔から、小さい体で大きなエネルギーを持っていたからな」

「…ええ、本当に。桜井さんには、助けられてばかりです」蓮が、くるみの方を見ずに、静かに言った。その声には、普段の彼にはない、素直な響きがあった。

「…!そ、そんなことないですよ!私の方こそ、神崎さんの緻密な戦略がなければ、プロジェクトなんて…!」くるみは、予想外の蓮の言葉に動揺し、慌てて否定する。


「ふむ」宮田先生は、そんな二人を交互に見比べ、何かを察したように、ふっと笑みを深めた。「まあ、君たちなら大丈夫だろう。タイプは違うが、二人とも根は真面目で、不器用なほど真っ直ぐだからな。良いコンビだよ」

先生の言葉に、蓮とくるみは顔を見合わせ、そしてすぐに視線を逸らした。互いの胸に、先生の「不器用」という言葉が、小さく、しかし確かな棘のように刺さった。


会がお開きになり、参加者たちが三々五々帰路につく中、蓮とくるみは、偶然にも同じ方向の電車に乗ることになった。駅までの帰り道、夜風が少し冷たい。先ほどの先生の言葉が、二人の間に重く漂っている。


「…あの」沈黙を破ったのは、蓮だった。「さっきは…すみません、先生の前で、余計なことを…」

「え?あ、いえ…私も、なんか変なこと言っちゃって…」くるみも、しどろもどろになる。


また、気まずい沈黙。このまま別れるのだろうか。そう思った時、くるみが意を決したように口を開いた。


「…神崎さん」

「…はい」

「あの…この間の、お見舞いの時…ごめんなさい」

「え…?」蓮は驚いてくるみを見た。

「なんか、気の利いたことも言えなくて…仕事の話なんかして…本当に、ごめんなさい。心配、してたんです。すごく…」

俯きながら、消え入りそうな声で言うくるみ。その姿は、いつもの強気な彼女とはまるで別人だった。


蓮の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。彼女が、自分のことを心配してくれていた?あの時、ただ迷惑がられているだけだと思っていたのに。そして、今、彼女は自分に謝っている。その不器用な優しさが、蓮の心の固い殻を、少しずつ溶かしていくのを感じた。


「…桜井さん…」蓮の声が、わずかに震える。「謝らないでください。私の方こそ…あの、打ち上げの夜…本当に、みっともないところを見せてしまって…」

彼は、そこで言葉を切った。いつもなら、ここで「酔っていたので」と取り繕うはずだった。

しかし、今、目の前にいる、小さな体で一生懸命に謝罪している彼女を前にして、嘘をつくことはできなかった。


「…あれが、本当の私なんです」

絞り出すような声だった。

「仕事では、完璧でいなければならないと思っています。部下にも、クライアントにも、弱さを見せるわけにはいかない。でも…本当は、違うんです。私は…」


蓮は、自分の内側にある、長年隠し続けてきた弱さ、甘えたがりな本性、そしてそれが原因で恋愛がうまくいかなかった過去を、堰を切ったように語り始めた。それは、彼にとって、初めて誰かに見せる、仮面の下の告白だった。


くるみは、ただ黙って、蓮の言葉に耳を傾けていた。彼の声は震え、時折言葉に詰まりながらも、必死に伝えようとしているのが分かった。彼の痛み、苦しみ、そして孤独。

それは、形は違えど、くるみ自身が抱えてきたものと、どこか重なる気がした。


(…神崎さん…)


彼の告白は、まだ途中だった。しかし、この瞬間、二人の間にあった見えない壁は、音を立てて崩れ始めていた。夜の駅へと続く道で、二人は立ち止まったまま、互いの素顔と、そして自分自身の内面と、静かに向き合い始めていた。

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