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打ち上げの翌週、オフィスには目に見えない壁が再び築かれていた。特に、蓮とくるみの間には、以前にも増して冷たく、重い空気が流れていた。


蓮は、あの夜の失態を打ち消すかのように、さらに完璧で冷徹な「戦略家・神崎蓮」の仮面を厚くしていた。部下への指示はより簡潔に、会議での発言はさらにロジカルに。感情の揺らぎを一切見せず、まるで精密機械のように仕事をこなす。時折、遠くからくるみの姿を目にすると、胸の奥が小さく痛んだが、すぐにその感情を思考の隅へと追いやった。

(…あれは酔っていたからだ。私らしくない、ただの失態。桜井さんも、きっと忘れたがっているはずだ)

自分にそう言い聞かせ、彼は意識的にくるみとの接触を避けた。必要な業務連絡はチャットかメールのみ。それも、極めて事務的な内容に終始した。


一方のくるみも、蓮に対してどう接していいのか分からず、ぎこちない態度をとっていた。あの夜、彼が見せた弱さ。それは、今まで彼女が出会ってきたどの男性とも違う、予想外のギャップだった。そのギャップに戸惑い、そして…なぜか目が離せなくなっている自分に気づいていた。

(…なんであんな顔、私に見せたのよ…反則でしょ…)

心の中で悪態をつきながらも、蓮の姿を目で追ってしまう。しかし、目が合うと、どうしようもなく気まずくて、慌てて視線を逸らしてしまうのだった。彼が以前にも増して冷たい態度をとっていることにも気づいていた。

(…やっぱり、一線引かれたんだ。私があんな風に逃げたから…)

そう思うと、自己嫌悪と、ほんの少しの寂しさが胸をよぎった。


プロジェクトは最終段階に入り、大きなトラブルもなく順調に進んでいた。皮肉なことに、二人の個人的な関係が冷え切った一方で、仕事上の連携は以前よりもスムーズになっていた。互いにプロフェッショナルとして相手の実力を認め、最低限のコミュニケーションで最大限の成果を出す。それは、ある意味、理想的なビジネスパートナーの姿なのかもしれないが、そこには以前のような熱や、ぶつかり合いから生まれる化学反応は失われていた。


そんなある日、広告・IT業界の合同交流会が都内のホテルで開催された。くるみは自社のPRも兼ねて参加し、名刺交換や情報収集に勤しんでいた。会場の隅に、蓮の姿も見えたが、彼は特定のグループと話すでもなく、一人で静かにグラスを傾けている。くるみは、彼に気づかないふりをして、旧知の取引先との会話に集中した。


少し離れたソファスペースで、華やかな女性たちが数人で談笑しているのが目に入った。その中心にいるのは、大手広告代理店「雷通」の敏腕プロデューサーとして有名な女性、高梨だった。くるみも顔は知っている程度だ。ふと、その会話の中に「神崎さん」という名前が聞こえ、くるみは無意識に耳をそばだててしまった。


「ねぇ、高梨さん、博栄堂の神崎さんって知ってる?あのクールな戦略家」

「ああ、神崎くん?知ってるわよ。仕事はキレるけど、プライベートは難ありって有名じゃない」高梨が、面白そうに笑う。

「え、そうなんですか?詳しく聞きたい!」

「昔、私の友人がちょっとだけ付き合ってたんだけどね…」高梨は声を潜める。「最初は完璧な紳士なのよ。でも、心を許すと、もう別人みたいに甘えてくるらしくて。それがもう、子供みたいで重いって…結局、友人もすぐに別れちゃったわ。彼、仕事関係の子とは絶対付き合わない主義らしいけど、どこで出会うのかしらね?でも、結局いつも同じパターンでフラれてるって聞くわよ」

「へえー!あのポーカーフェイスからは想像つかない!」


(…甘えてくる…子供みたいで、重い…?)

くるみは、手にしていたグラスの中でカクテルが揺れるのを感じた。あの打ち上げの夜、自分にだけ見せた蓮の頼りなげな表情。そして、縋るような仕草。オフィスでの噂話ではなく、業界の、しかも蓮とは直接的な仕事仲間ではない人物からの言葉。それは、彼の「ギャップ」が、彼自身を深く苦しめている事実なのだと、くるみに突き刺さった。そして、自分もまた、彼を拒絶してしまった一人なのではないか。胸の奥が、ずきりと痛んだ。


同じ頃、蓮は会場の喧騒から少し離れたバーカウンターの近くで、一人、ミネラルウォーターのグラスを手にしていた。無理に人と話す気にもなれず、壁際の席で静かに時間を潰していた時だった。すぐ近くのテーブル席に座った、ネクストコネクトの若い男性社員たちの会話が、意図せず耳に入ってきてしまった。彼らは、くるみの上司や同僚にあたるのだろう。


「桜井さん、マジで可愛いよなー。でも、サバサバしすぎっていうか、隙がないよな」

「わかる。前に付き合ってた奴も言ってたわ。『もっと甘えてほしかったのに、全然頼ってくれないし、なんか可愛げがない』って振られたらしいぜ」

「へー、意外。甘え下手なのかね?強がってるだけとか?」

「かもな。でも、ああいう小柄で可愛いタイプは、結局オラオラ系の男に捕まるんだよなー」


(…甘え下手…?強がっている…?)

蓮は、グラスを持つ手にわずかに力が入った。くるみの、いつも強気で明るい笑顔の裏にあるかもしれない、不器用さ。そして、過去の恋愛での傷。自分とは違う形で、彼女もまたギャップに悩んできたのかもしれない。そう思うと、あの夜、彼女を戸惑わせてしまったことへの後悔が、さらに深くなった。彼女が求めているのは、自分のような甘えたがる男ではなく、もっと強く、彼女を引っ張っていけるような男なのかもしれない。


互いの過去の恋愛の断片を知ってしまったことで、二人の間の距離はさらに広がったように感じられた。相手の本当の姿をもっと知りたいという気持ちと、これ以上踏み込んで、互いを傷つけたくないという気持ち。相反する感情が、二人をもどかしい袋小路へと追い込んでいく。


そんな中、事件は起こった。

週明けの月曜日、蓮が会社を休んだのだ。彼が体調不良で休むなど、滅多にないことだった。インフルエンザが流行り始めている時期でもあり、チーム内には心配の声が広がった。


「神崎さん、大丈夫かな…」

「週末もかなり無理してたみたいだし…」


その会話を耳にしたくるみは、なぜか落ち着かない気持ちになった。あの完璧主義者の彼が休むなんて、よほどのことに違いない。あの夜見せた、弱々しい姿が脳裏をよぎる。

(…別に、私には関係ない…仕事上のパートナーなだけだし…)

そう自分に言い聞かせようとするが、どうしても気になってしまう。放っておけない。それは、彼女の姉御肌気質な部分が騒いでいるだけなのか、それとも…。


逡巡の末、くるみは意を決した。仕事帰りに、スポーツドリンクと喉に良さそうなゼリー飲料をいくつか買い込み、蓮の住むマンションへと向かった。高級マンションが立ち並ぶエリア。その一室のインターホンを鳴らす指が、わずかに震える。

(…何やってんだろ、私。お見舞いなんて、柄じゃないのに…)

今更ながら、自分の行動が場違いな気がしてくる。


数コール後、『…はい』と、かすれた声がインターホンから聞こえた。明らかに、いつもの蓮の声ではない。

「あ、あの、桜井ですけど…近くまで来たので、差し入れだけでも、と思って…」

しどろもどろになりながら言うと、一瞬の間があり、『…どうぞ』という声と共に、エントランスのロックが解除された。


エレベーターで彼の部屋の階まで上がり、ドアの前に立つ。深呼吸を一つして、呼び鈴を押した。ガチャリ、とドアが開き、部屋着姿の蓮が現れた。髪は乱れ、顔色も悪く、いつもの彼とは別人のように弱って見えた。


「…わざわざ、すみません」蓮が、力なく言った。

「いえ…あの、これ、よかったら…」くるみは、持ってきた袋を差し出す。

「…ありがとうございます」蓮はそれを受け取るが、くるみを部屋に招き入れる様子はない。ドアの前で、気まずい沈黙が流れる。


(…何か、気の利いたこと言わなきゃ…「大丈夫ですか?」とか、「ゆっくり休んでください」とか…)

頭では分かっているのに、言葉が出てこない。弱っている彼を目の前にして、どう接したらいいのか分からない。こういう時、どう振る舞うのが正解なのか、頭が真っ白になったようだった。


結局、彼女の口から出たのは、驚くほどビジネスライクな言葉だった。

「あの、何か仕事で、私の方でフォローできることとか、ありますか?」

言ってから、しまった、と思った。今言うべきことじゃない。


蓮の目が、わずかに伏せられたように見えた。

「…いえ、大丈夫です。部下には指示してありますから」

その声は、ひどく平坦に聞こえた。

「…そうですか。じゃあ、お大事に…失礼します」

くるみは、それだけ言うと、逃げるようにその場を後にした。エレベーターのドアが閉まる瞬間、ドアの隙間から見えた蓮の寂しそうな横顔が、目に焼き付いて離れなかった。


マンションを出て、夜道を歩きながら、くるみは激しい自己嫌悪に襲われていた。

(…なんで、あんなことしか言えないのよ、私!馬鹿じゃないの!?)

差し入れまでしておきながら、かけた言葉は仕事の話。心配している気持ちなんて、微塵も伝わらなかっただろう。むしろ、彼のプライドを傷つけたかもしれない。

(なんで普通に「大丈夫?」って、心配してあげられないんだろ…本当に、可愛げない…)

過去に言われた言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。


一方、部屋に戻った蓮は、ドアの前に置かれたスポーツドリンクの袋を手に、ソファに深く沈み込んでいた。熱で朦朧とする頭で考える。

(…桜井さん…来てくれたのか…)

驚きと、ほんの少しの喜び。しかし、彼女のぎこちない態度と、仕事の話をされたことで、その喜びはすぐにしぼんでしまった。

(…やはり、私は、彼女に心配されるような存在ではないのだな…)

本当は、少しでいいから、甘えたかった。弱音を吐きたかった。大丈夫じゃない、と伝えたかった。しかし、そんなことは許されない。彼女は、強い自分を求めているのだから。

(…もっと、甘えたかった…)

熱いのか寒いのか分からない悪寒と共に、深い孤独感が蓮を包み込んだ。


お互いのギャップを知り、惹かれ合いながらも、素直になれない二人。不器用な優しさはすれ違い、二人の間の距離は、近づくどころか、さらに遠ざかってしまったように思えた。ギャップという名の引力は、二人を引き寄せると同時に、見えない壁となって立ちはだかっていた。

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