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徹夜で練り上げた代替案は、翌日、月島製菓の役員会で承認された。
蓮の冷静な状況説明とリスク分析、そしてくるみの熱意のこもった企画意図の説明。二人の連携は、まだぎこちなさは残るものの、前回とは明らかに違う説得力を持っていた。役員たちの厳しい表情も、プレゼンが終わる頃には安堵と期待の色に変わっていた。
「…素晴らしい。危機を乗り越え、より本質的な提案をしてくれた。期待していますよ、神崎さん、桜井さん」
役員からの労いの言葉に、蓮は静かに、くるみは満面の笑みで頭を下げた。会議室を出た瞬間、くるみは思わず「よっしゃあ!」と小さくガッツポーズをする。隣を歩いていた蓮が、その子供っぽい仕草に気づき、ほんのわずかに口元を緩ませたのを、くるみは見逃さなかった。
(…あれ?今、ちょっと笑った…?)
ほんの一瞬の出来事だったが、あの氷のような男が見せた人間らしい表情に、くるみの心臓が小さく跳ねた。
スキャンダルという嵐を乗り越えたことで、プロジェクトチーム全体の雰囲気も明らかに変わった。博栄堂とネクストコネクトの間には、以前のような険悪な空気はなくなり、「共同プロジェクト」としての連帯感が生まれ始めていた。特に、蓮とくるみの関係性は、周囲から見ても変化が明らかだった。
会議での二人のやり取りは、相変わらず意見がぶつかることもあるが、以前のような感情的な対立ではなく、互いの意見を尊重した上で、より良い着地点を探る建設的なものに変わっていた。
「ここの表現、もう少しユーザーに寄り添う形にできませんか?データ的にはこちらが最適ですが、少し冷たい印象を与えかねない」蓮が、珍しく感情的な側面について言及する。
「…!そうですね!例えば、こういう言い方はどうでしょう?『100年分の、ありがとうを込めて』みたいな…ちょっとクサいですかね?」くるみが、少し照れながら提案する。
「…いや、悪くない。むしろ、その『クサさ』が、今の時代には響くのかもしれません」蓮が、真剣な表情で答える。
(神崎さんが『クサさ』とか言うなんて…)
(桜井さんのアイデアは、時々、私の想定を良い意味で超えてくる…)
互いに、相手の意外な一面を発見し、少しずつ認め合っているのを感じていた。
メールやチャットでのやり取りも、微妙に変化していた。蓮からのメールは相変わらず丁寧で長文だが、文末に「桜井さんのチームの尽力に感謝します」といった一文が添えられるようになった。くるみからの返信も、「りょ!」スタンプ一発ではなく、「承知しました!こっちの進捗も順調です!(`・ω・´)ゞ」といった、顔文字付きの短い文章が増えた。蓮はその顔文字の意味をまだ完全には理解できていないが、少なくとも敵意がないことは分かった。
そんなある日、プロジェクトが大きな山場を越え、中間報告も無事に完了したことを祝して、両チーム合同の打ち上げが開催されることになった。場所は、渋谷の少し落ち着いた雰囲気の居酒屋。
「いやー、あの時はどうなることかと思ったけど、神崎さんと桜井さんが頑張ってくれたおかげだよな!」
「ほんと、奇跡の連携プレーでしたよ!」
酔いが回ってきたメンバーたちが、口々に二人を称賛する。蓮は「いえ、チーム全員の力です」と冷静に受け流すが、まんざらでもない様子だ。くるみは「いやいや、みんなのおかげだって!」と笑顔で手を振りながらも、ビールジョッキを持つ手が嬉しそうに揺れている。
「でもさー、桜井さんって、最初、神崎さんのこと『あの氷の堅物!』とか言ってませんでしたっけ?」ネクストコネクトのメンバーが、からかうように言う。
「ちょっ、やめなさいよ、そういうこと言うの!」くるみは顔を赤くして、そのメンバーの脇腹を肘で突く。
「神崎さんだって、桜井さんのこと『もう少しロジカルに考えてほしい』って、ため息ついてましたよね?」今度は博栄堂のメンバーが暴露する。
「こら、君たち…」蓮が、少し困ったような、それでいてどこか楽しそうな表情で部下を窘める。
和やかな雰囲気の中、酒が進む。蓮は普段あまり飲まないが、この日は珍しく日本酒に手を出していた。くるみも、持ち前の明るさで場を盛り上げている。ふとした瞬間、二人の視線が合う。以前のような警戒心はなく、そこには仲間としての親しみが宿っていた。
(…なんか、普通に笑うんだな、この人)くるみは、部下と談笑する蓮の穏やかな表情を見て思う。
(…こうして見ると、やはり華やかで、人を惹きつける人だ)蓮は、輪の中心で楽しそうに話すくるみを見て思う。
宴もたけなわとなり、お開きの時間となった。店を出ると、夜風が心地よかった。
「じゃあ、俺たちはこっちなんで!」
「お疲れ様でしたー!」
メンバーたちは、それぞれの方向へと散っていく。気づけば、蓮とくるみは二人きりになっていた。渋谷の喧騒が少し遠くに聞こえる、比較的静かな通りだった。
「…お疲れ様でした。今日は、楽しかったです」くるみが、少し照れたように言った。
「…ええ、私もです」蓮も、いつもより柔らかい表情で答える。酔いのせいか、彼の頬はほんのり赤らんでいた。
しばらく、どちらからともなく、並んで歩き出す。何を話すでもなく、心地よい沈黙が流れる。
「…あの」先に口を開いたのは、蓮だった。「桜井さん」
「はい?」
「…本当に、感謝しています」
「え?」
「あの時…KENTOの件があった時、正直、私もかなり動揺していました。でも、あなたが…桜井さんが、最後まで諦めずにチームを引っ張ってくれたから…」
蓮の声は、いつもの冷静さを失い、少しだけ熱を帯びていた。
「それに、あなたのアイデアがなければ、あの代替案も生まれなかった。あなたは…すごい人だ」
「そ、そんな…私だけじゃ…神崎さんだって…」
突然のストレートな称賛に、くるみは戸惑い、顔が熱くなるのを感じた。
「…いや、あなたは、本当に…」蓮は言葉を続けようとして、ふと立ち止まった。
そして、くるみの方に向き直る。その瞳は、いつになく真剣で、そして…どこか頼りなげに見えた。
「…桜井さんがいてくれて、本当によかった…」
その声は、ほとんど吐息に近かった。そして、次の瞬間。
「…なんか、すごく…安心する…」
そう呟きながら、蓮の体が、ふらり、とくるみの方へ傾いだ。まるで、彼女に寄りかかるように。
「えっ!?」
くるみは、反射的に一歩後ずさった。肩に触れるか触れないかのところで、蓮はハッと我に返ったように体を起こす。
「…あ…!す、すみません…!酔いが…」
蓮は、慌てて取り繕うように言った。その顔は、先ほどよりもさらに赤くなっている。しかし、くるみの目には、彼の動揺と、そして一瞬見せた、まるで甘えるような、縋るような表情が焼き付いて離れなかった。
(…な、なに…今の…!?)
心臓が、ドクン、と大きく鳴った。驚きと、混乱。今まで付き合ってきた、どちらかといえば強引で、甘えることなどなかったタイプの男性たちとは全く違う、予想外の行動。それは、くるみが今まで経験したことのない、未知の感情を呼び起こした。
可愛げがない、もっと甘えろと言われ続けてきた自分に向けられた、不意打ちの弱さ。それは、驚きと混乱、そして…ほんの少しの、今まで感じたことのない種類の動揺をもたらした。
「…わ、私、こっちの駅なんで!お疲れ様でした!」
くるみは、早口でそう言うと、蓮に背を向けて足早に歩き出した。まるで、その場から逃げるように。後ろで蓮が何か言ったような気がしたが、振り返ることはできなかった。
(…今の、何だったの!?あの神崎さんが…?嘘でしょ…?)
早鐘のように打つ心臓を押さえながら、くるみは夜道を急ぐ。彼の意外な一面。それは、彼女が今まで見てきた「頼れる男」とは違う、もっと脆くて、人間らしい部分。それに触れてしまった戸惑い。そして、そんな彼に、ほんの一瞬でも「支えてあげたい」と思ってしまった自分自身への驚き。
一方、一人残された蓮は、その場に立ち尽くしていた。
(…やってしまった…)
自己嫌悪の波が押し寄せる。酔っていたとはいえ、あんな無防備な姿を見せてしまうなんて。しかも、桜井さんにあんな顔をさせてしまった。引かれたに違いない。まただ。また、同じ失敗を繰り返してしまった。
(…やはり、私は、人に甘えることなど許されないのだ…)
急速に酔いが醒めていくのを感じながら、蓮は再び、冷たく硬い仮面を顔に戻した。せっかく縮まったと思った距離が、また大きく開いてしまったような気がした。
氷解の兆しを見せていた二人の関係に、新たな、そしてより複雑な壁が生まれた瞬間だった。互いのギャップを知ってしまったからここそ生まれる、戸惑いと、惹かれ合う気持ちの交錯。
二人の恋は、まだ始まったばかりだというのに、早くも大きな試練を迎えようとしていた。