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衝突を繰り返しながらも、プロジェクトはなんとか形になり始めていた。
特に、くるみが率いるネクストコネクトが提案した、若者に絶大な人気を誇るカリスマ動画クリエイター「KENTO」を起用したSNSキャンペーンは、プロジェクトの目玉として期待されていた。
蓮は内心、その話題性頼りの戦略に危うさを感じつつも、初期の反響データの良さに、渋々ながらゴーサインを出していた。
「…まぁ、数字は悪くない。だが、油断は禁物だ。常に代替案は準備しておくように」
会議でくるみにそう釘を刺す蓮。
「わかってますって!神崎さんは心配性だなあ。KENTOですよ?今一番キテるクリエイターですよ?絶対バズりますから!」
くるみは自信満々に胸を張る。彼女のチームも、KENTOとのコラボ企画の詳細詰めに奔走し、熱気に満ちていた。
そんな矢先だった。まさに青天の霹靂とはこのことだ。
金曜日の午後、オフィスにけたたましいニュース速報のアラート音が鳴り響いた。スマートフォンの画面に表示された見出しに、誰もが息をのむ。
『【速報】超人気動画クリエイターKENTO、未成年者との不適切交際疑惑で活動自粛へ』
「…は?」
最初に声を発したのは、くるみだった。彼女の顔から急速に血の気が引いていくのが、隣の席からも分かった。フロアが一瞬にして静まり返り、次の瞬間、電話の着信音、チャットの通知音、メンバーたちの動揺した声で、オフィスはパニック状態に陥った。
「嘘でしょ!?」「KENTOが!?」「どうすんの、これ!?」「クライアントに連絡!」
くるみは震える手でスマートフォンを握りしめ、画面を凝視していた。
(…そんな…なんで今…?企画、もうほとんど固まってるのに…!)
頭が真っ白になる。最悪のタイミングでの、最悪のスキャンダル。プロジェクトの根幹が揺らぐ大問題だ。
その時、内線電話が鳴った。ディスプレイには「神崎 蓮」の文字。くるみは深呼吸一つして、震える声で応答した。
「…はい、桜井です」
『桜井さん、ニュースは見ましたね。…落ち着いてください。すぐに役員会議室へ。私も向かいます』
電話口の蓮の声は、いつもと変わらず冷静だった。だが、その声の奥にわずかな焦りのようなものが滲んでいるのを、くるみは感じ取った。
役員会議室には、既に蓮と、双方の上司たちが重い表情で集まっていた。ほどなくして、月島製菓の担当役員からもオンラインで緊急コールが入る。画面の向こうの役員の顔は、怒りと失望で歪んでいた。
『神崎さん、桜井さん、これは一体どういうことですか!我が社の100周年に泥を塗る気ですか!』
厳しい叱責が飛ぶ。くるみは唇を噛みしめ、言葉を失った。完全に自分たちの選定ミスであり、管理不行き届きだ。
『申し訳ありません。今回の事態は、全て我々の責任です』
先に口を開いたのは、蓮だった。彼は深々と頭を下げた。
『代替案については、早急に…』
『代替案!?そんな悠長なことを言っている場合ですか!そもそも、なぜあのようなリスクの高い人物を起用したのですか!桜井さん、あなたのチームの提案でしたね!?』
役員の怒りの矛先が、くるみに向けられる。くるみが「申し訳…」と言いかけた瞬間、蓮が再び割って入った。
『今回の起用については、データ分析に基づき、最終的に私も承認しております。責任は私にもあります。桜井さんだけの問題ではありません』
その言葉に、くるみは驚いて蓮を見た。いつもは他人のミスにも厳しい彼が、なぜ自分を庇うようなことを?
(…神崎さん…?)
蓮は、くるみとは視線を合わせず、真っ直ぐに画面の向こうの役員を見据えていた。その背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。
結局、会議は「明日中に具体的な対応策と代替案を提示すること」という厳しい要求と共に終了した。会議室に残ったのは、蓮とくるみ、そして双方の疲弊しきったチームリーダーたちだけだった。重苦しい沈黙が支配する。
「…ごめん、私のせいで…」
くるみが、か細い声で謝罪した。
「…謝罪は後です。今は、対策を考えましょう」
蓮は短く応え、ホワイトボードに向かった。「現状整理、課題、代替案の方向性…」いつものように、冷静に情報を整理し始める。その姿に、他のメンバーも少しずつ落ち着きを取り戻し、動き始めた。
その夜、オフィスには蓮とくるみ、そして双方のチームのコアメンバーだけが残っていた。誰もが疲労困憊だったが、諦めるわけにはいかない。
「KENTOの代わりになるインパクトのあるクリエイター…今からじゃ難しいか…」
「いっそ、インフルエンサー起用自体をやめて、別の切り口は?」
「でも、SNSでの拡散力は捨てがたい…」
「そもそも、月島製菓の役員はもう、派手な企画はこりごりなんじゃないか?」
議論は行き詰まり、時間だけが過ぎていく。時計は既に深夜0時を回っていた。コンビニの弁当や栄養ドリンクが散乱する会議テーブルで、くるみは頭を抱えていた。
(もうダメかも…私のせいで、全部台無しだ…)
ネガティブな思考がぐるぐると頭を巡る。
その時、すっ、と目の前に缶コーヒーが置かれた。見上げると無表情の蓮が立っていた。
「…少し、休憩したらどうですか。根を詰めても、良いアイデアは出ません」
「…神崎さん…」
「あなたのチームのメンバーも、限界のようです。少し休ませてあげてください」
蓮の視線の先には、デスクに突っ伏しているくるみの部下たちの姿があった。
(…そっか、私ばっかり焦って、周りが見えてなかった…)
くるみはハッとして、立ち上がった。
「みんな、ごめん!ちょっと休憩しよう!15分だけ仮眠とって!」
彼女の明るい声に、疲弊していたメンバーたちの顔に少しだけ生気が戻る。
休憩後、議論は少し違う角度から再開された。
「…原点に戻りませんか?」蓮が静かに口を開いた。「月島製菓の100年の歴史。そして、若者に伝えたい価値。インフルエンサーありきではなく、そこからもう一度、企画の核を考え直すべきです」
「…そうですね」くるみも頷く。「派手さだけじゃなくて、もっと共感とか、ストーリー性が大事なのかも…」
蓮が過去の類似事例や市場データを提示し、くるみがそこに新たなアイデアや感情的なフックを加えていく。ロジックと感性。水と油だと思っていた二人の思考が、この危機的状況において、不思議と噛み合い始めていた。
「このデータを見ると、若年層は意外と『本物志向』も持っている。老舗の歴史を逆手に取るのはどうでしょう?」蓮が言う。
「それ、いいかも!例えば、職人さんの技術とか、開発秘話とかを、あえて今どきの見せ方で発信するとか?『#老舗のエモい裏側』みたいなハッシュタグで!」くるみが応える。
「…『エモい』ですか。まぁ、悪くないかもしれませんね。その場合、ターゲットへのリーチ方法は…」
いつの間にか、二人はホワイトボードの前で、活発に意見を交わしていた。他のメンバーも、その議論に引き込まれていく。さっきまでの絶望的な空気は消え、新たな可能性を探る熱気が生まれ始めていた。
明け方近く、ようやく代替案の骨子が見えてきた。それは、当初の計画のような派手さはないかもしれないが、月島製菓の歴史と誠実さを伝え、若者の共感を呼ぶ、地に足のついた、それでいて新しい企画だった。
「…これで、なんとか…なるでしょうか」疲れ切った声で、くるみが呟く。
「…なりますよ。なるように、するんです」
蓮が、静かだが力強い口調で言った。その目には、いつもの冷静さに加え、確かな意志の色が宿っていた。くるみは、その横顔を眩しいものを見るように見つめていた。
朝日が昇り始めたオフィスで、蓮とくるみは、互いに言葉を交わすことなく、窓の外を眺めていた。長い夜が明けた。プロジェクトの危機はまだ去ったわけではないが、二人で、そしてチームで、大きな壁を一つ乗り越えたという確かな感覚があった。
(…むかつく奴だと思ってたけど…)
(…危なっかしい人だと思っていたが…)
互いに対する印象は、この長い一夜で、確実に変化していた。それはまだ、明確な好意という形ではないかもしれない。だが、確かな信頼と、プロフェッショナルとしての尊敬の念が、二人の間に芽生え始めていた。嵐は、予期せぬ形で、二人の距離を少しだけ近づけたのかもしれない。