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本編8話完結、番外編後日譚が追加5話の予定
月曜日の朝。東京・丸の内に聳え立つ高層ビルのワンフロアを占める「博栄堂」マーケティング戦略部には、早くも静かな熱気が満ちていた。
その中心にいるのは、神崎蓮、32歳。第一グループのリーダーとして、彼は既に大型モニターに映し出された複雑なグラフと睨み合っていた。
「ここの消費者インサイト、もう少し深掘りできるな。第二チーム、関連データを今日の15時までに」
低い声が、オープンながらも静謐さを保つオフィスに響く。
部下たちが「はいっ」と短く応え、一斉にキーボードを叩く音が速度を増した。神崎の指示は常に的確で、一切の無駄がない。その切れ長の目には感情の色が浮かぶことは稀で、完璧に仕立てられたダークスーツのように、彼自身もまた、仕事においては隙を見せない男だった。185cmの長身痩躯、整ってはいるがどこか近寄りがたさを感じさせるシャープな顔立ち。部下たちは彼の実力を尊敬しつつも、その冷徹さに畏怖の念を抱いていた。
(…甘いな)
部下の提出した分析データに目を通しながら、蓮は内心でため息をつく。
期待しているからこそ、要求水準は高い。言葉には出さないが、彼らに求めるのは常に「完璧」に近い仕事だった。それが彼自身の首を絞めていることには、まだ気づかないふりをしている。机の隅に置かれた実家の愛犬の写真立てに一瞬だけ目をやり、すぐにモニターへと視線を戻した。
今、彼が集中すべきは、先日オリエンテーションが行われた「月島製菓」の大型コンペだ。創業100年の老舗が、若年層向けの新ブランドで社運を賭けるという。競合は多いだろうが、負ける気は微塵もなかった。データは嘘をつかない。勝つためのロジックは、既に頭の中に組み上がり始めていた。
*
一方、渋谷の喧騒から少し離れたエリアにある、ガラス張りのモダンなオフィスビル。急成長中のITベンチャー「ネクストコネクト」のフロアは、博栄堂とは対照的に、自由で活気のある空気に満ちていた。
カラフルなバランスボールに座ってラップトップを開く者、カフェスペースで軽快な音楽を聴きながらブレストするグループ。その一角で、ひときわ明るい声が響いた。
「よし、じゃあ次はSNS連動企画!月島製菓のお堅いイメージ、ぶっ壊すくらいのインパクトあるやつ、ガンガン行こう!」
声を上げたのは、広報・PRチームリーダーの桜井くるみ、28歳。
155cmと小柄で、くりっとした大きな瞳を持つ愛らしい顔立ちは、実年齢よりも若く見える。しかし、その声と佇まいには、見た目からは想像できないような力強さとリーダーシップが宿っていた。今日の服装も、動きやすいパンツスーツにインナーはビビッドな色のカットソー。どこか親しみやすさと、仕事への情熱を感じさせるスタイルだ。
「くるみさん、それ本気ですか?月島製菓ですよ?」
「本気じゃなきゃコンペなんて勝てないでしょ!固定観念はポイよ、ポイ!」
茶化すような後輩の言葉に、くるみはニカッと笑って応える。彼女の周りにはいつも人が集まり、そのポジティブなエネルギーがチーム全体を動かしていた。サバサバとした姉御肌で、困っているメンバーがいれば真っ先に声をかけ、フォローも忘れない。
ただ、時折「くるみさんって可愛い顔して言うことエグいですよねー」などと、そのギャップを面白がられることには、内心少しだけうんざりしていた。
(可愛いとか、どうでもいいし)
それよりも、この月島製菓のコンペだ。老舗の大きな壁を、自分たちの力で打ち破りたい。伝統と革新。彼女の得意とする分野だ。チームメンバーから次々と飛び出すアイデアを、くるみはホワイトボードに書き出しながら、目を輝かせていた。博栄堂のような大手も参加するだろうが、だからこそ燃える。自分たちのやり方で、あっと言わせてやる。くるみの胸には、確かな自信と挑戦心が渦巻いていた。
*
そして、コンペ当日。
都内ホテルの大型コンベンションホールには、業界の錚々たる顔ぶれが集まっていた。独特の緊張感と、互いを探り合うような視線が交錯する。蓮は最前列に近い席に、いつものように完璧なスーツ姿で座り、静かに目を閉じていた。隣には補佐役の部下が一人、固唾を飲んで控えている。
一方、くるみはチームメンバーと共に、少し後方の席で最終確認をしていた。彼女は壇上を見つめ、小さく深呼吸をする。大丈夫、準備は完璧だ。あとは、自分たちの熱意をぶつけるだけ。
やがて、司会者の声と共にコンペが始まった。数社のプレゼンが続く中、いよいよ「博栄堂」の番が来た。蓮がすっくと立ち上がり、壇上へ向かう。その姿は、まるで舞台に登場する主演俳優のようだった。
蓮のプレゼンテーションは、完璧だった。膨大なデータに基づいた市場分析、ターゲットインサイトの的確な抽出、そしてそこから導き出される、緻密に計算されたメディアミックス戦略。よどみない口調、自信に満ちた態度、洗練されたスライド。会場からは感嘆の声が漏れ、審査員席の月島製菓の役員たちも深く頷いている。非の打ち所がないとは、まさにこのことだろう。
(…さすが、博栄堂。つまらないくらい完璧ね)
くるみは腕を組み、少しだけ皮肉な気持ちで蓮のプレゼンを見ていた。ロジックは完璧だが、心が躍らない。データは過去のものだ。未来を創るのは、もっと大胆な発想のはずだ。
蓮が壇上から降り、席に戻る。その時、ふと後方のくるみと視線が合ったような気がした。小柄で、大きな瞳の、どこか気の強そうな女性。ネクストコネクトのリーダーか。彼の記憶には既にインプットされていた。
次に、「ネクストコネクト」がコールされた。くるみは「よし!」と小さく気合を入れ、チームメンバーと拳を合わせると、軽やかな足取りで壇上へと向かった。蓮とは対照的に、彼女のプレゼンは熱気に満ちていた。
「私たちが提案するのは、単なるプロモーションではありません!月島製菓の100年の歴史と、これからの100年を繋ぐ『共創プロジェクト』です!」
くるみは、SNSを最大限に活用したユーザー参加型のキャンペーンを提案した。人気インフルエンサーとのコラボ、AR技術を使った体験型コンテンツ、そして若者たちのリアルな声を反映した商品開発へのフィードバックループ。データも示すが、それ以上に、彼女の言葉には「これを実現したい」という強い情熱と、聞く者を引き込む魅力があった。会場の空気が明らかに変わる。驚きと興奮が伝播し、審査員たちも前のめりになって聞き入っていた。
蓮は、壇上で身振り手振りを交えながら熱弁をふるうくるみを、冷静に観察していた。
(…面白い。だが、博打だな)
勢いはある。アイデアも斬新だ。しかし、あまりにもリスクが高い。データに基づかない熱狂は、時に大きな失敗を招くことを、彼は知っていた。それでも、あの小さな体から放たれるエネルギーには、無視できない何かがあることも確かだった。
くるみのプレゼンが終わり、会場は大きな拍手に包まれた。達成感に満ちた表情で壇上から降りるくるみは、再び蓮と視線が合った。今度は、はっきりと。
互いの目には、相手への強烈なライバル意識と、わずかな好奇の色が浮かんでいた。
冷徹なロジックの戦略家と、情熱的なアイデアのエース。
大手広告代理店と、急成長ITベンチャー。
高身長のクールな男と、低身長の可愛い顔した姉御肌。
交わるはずのなかった二つの平行線が、今、月島製菓という大きな舞台で、確かに交差しようとしていた。この出会いが、互いの仕事、そして人生を大きく揺るがすことになるなど、まだ誰も知らない。コンペの結果発表を待つ会場の喧騒の中、二人はそれぞれの場所で、静かに闘志を燃やしていた。