プロローグ
「な、な、何だこれは……!?」
ルーク・エヴァンスは目を見開いた。
目の前にいるのは侯爵令嬢セシリア・ヴァレンティーノ。
月光を受けて揺れる長い黒髪、研ぎ澄まされたような鋭い瞳。彼女はただ静かに僕を見つめていた。
ここは案内されるはずだった客室ではなく、どう見ても彼女の寝室だ。
カーテンがかかった天がい付きのベッド、繊細な装飾の施された家具、ほのかに香る甘い香水の匂い。
振り返ると、彼女はドアに鍵をかけていた。
「いいじゃない。私たち、婚約したんだから」
セシリアは微笑む。
冷静でありながら、どこか挑発的な笑みだった。
ゆっくりと距離を詰めながら、静かに言い放つ。
「さぁ、既成事実を作りましょう」
「なっ……!? で、でも僕たち昨日婚約したばかりじゃないか!」
僕は慌てて後ずさる。しかし、足がもつれそうになるのを必死でこらえた。
緊張のせいか、体が思うように動かない。心臓は痛いほど高鳴り、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。
セシリア・ヴァレンティーノ。
誰もが一目置く存在であり、その成績優秀さと気品あふれる美しさは、貴族社会でも群を抜いている。
むろん僕も彼女のことは知っていた。けれど、同じクラスだと言うだけで、会話をかわしたことなどなかった。
そんな彼女が、突然こんなことを言い出すとは思いもしなかった。
「ずっと見ていたわ、あなたのことを」
セシリアは静かに囁く。その声音には、どこか確信めいた響きがあった。
「叶わない恋の行く末を。だから——観念しなさい」
僕がさらに距離を取ろうとした瞬間、セシリアの手が伸び、肩を掴まれる。
驚くほどの力だった。思わずバランスを崩した僕の体は、重力に引かれるようにしてベッドへと倒れ込んだ。
「えっ、ちょっ、ヴァレンティーノ嬢!? まずいよ……!」
「他人行儀な呼び方はやめて、セシリアって呼びなさい」
「セ、セシリア! いったん話を——」
「私が決めたことよ。もう後戻りはできないんだから」
僕は息をのんだ。
セシリアの指が僕のシャツのボタンへと伸びる。その仕草は迷いがなく、恐ろしいほど冷静だった。
「ま、待って……!」
混乱し、抗おうとする。しかし、セシリアの美しい瞳に囚われてしまう。
彼女は微笑んだ。静かで、逃げ場のない微笑み。
「言い訳は無用よ。全部私に任せて」
僕の脳内で警鐘が鳴り響く。
どうしてこんなことに……?
——母が皇太子の乳母だったため、僕は幼い頃から王宮で皇太子と共に育った。
子供だけのお茶会に参加した僕は、皇太子の婚約者に一目惚れした。
だけど、それは皇太子も同じだった。すぐに二人の婚約は決まり、僕の恋は報われないと悟った。
それでも、諦めきれずに想いを告げた。
そして、感傷に浸っていたはずなのに——。
どうして、セシリア・ヴァレンティーノに押し倒されているんだ?
彼女に好かれるようなことをした覚えはないのに。
僕たちは、数日前に初めて言葉を交わしたはずだ。
そう……あれは——数日前の出来事だった。