52.ルルーシア・ヘイローは未来に微笑む
いいねや誤字報告&評価などありがとうございます。
今回、最終回です。
途中で区切るのも微妙だったのでいつもの2倍くらいの長さがあります。
お店を出て迎えに来た馬車に乗り込み、アルドラーシュの傍らにある紙袋を指差す。
「ねえ、それ何をもらったの?」
「何だろう? 開けてみようか」
お店を出る際に渡された可愛い紙袋。来客1000人記念のプレゼントということだった。
「えーっと……ん? 何だこれ?」
「どれどれ……お菓子の家作製キット? お菓子の家?」
どうやら【自分で作れるお菓子の家】という物らしい。
中に入っていた完成図にはお店の外観にそっくりな絵が描かれていた。
「まあ、すごい。材料も全て揃っているみたい」
「自分たちで一から作るってことか?」
「そうじゃない? 楽しそうね!」
「俺、料理なんてしたことないぞ? ルルーシアはできるの?」
「どうかしら。でもクッキーくらいなら領地にいた時に母様と一緒に作ったことがあるわよ」
もちろん私たちだけでは難しかったので料理長にも付き合ってもらったのだけれど。
「ルルーシアの手作り……俺、食べたことない」
「そりゃあ王都には美味しいスイーツがたくさんあるんだもの」
わざわざ自分で作っては食べない。
そもそも私は二週間に一度スイーツ店に行くのが楽しみだったし、材料も場所も一人で作る技術もなかったのだから作るわけがない。
アルドラーシュと一緒に行動するようになってからも、一緒に食べに行ったりシシリ侯爵邸で出されるスイーツを楽しんでいたので必要性も無かった。
けれどアルドラーシュは私の手作り菓子という部分に食いついた。
「一緒に作ったらルルーシアの手作りが食べられるよな?」
「まあ、そうね?」
「やるぞ」
「あら、急にやる気」
「だってルルーシアの手作りなんて絶対食べたいに決まってるだろ?」
アルドラーシュが期待に満ちた瞳で私を見る。
「次の休み。料理長には厨房の使用許可と手伝いを頼んでおくからうちでやろう」
「わかったわ。楽しみね」
こうして次の休みに作る約束をしたけれど、楽しみが待っていると思うと一週間なんてあっという間に過ぎてしまった。
そうして迎えた当日。
作り方も全て書かれているし、簡単にできるかと思いきや、まさかの出だしから躓いた。
「ああ! またやってしまった……」
アルドラーシュは卵を上手く割れなかった。
初めて卵を持った彼は力加減がわからずぐしゃっと卵を握り潰した。
こういうふうに割るのだと見せられた手本の卵と違い、ボウルの中には粉々になった殻の混ざった卵が入っている。
「大丈夫よ、アルドラーシュ。殻を除けば食べられるわ。ね、料理長」
「そうですよ、坊っちゃん」
「……殻が入っているとどうなるんだ?」
「食べた時にガリッとなるんじゃないかしら」
美しく完成したものしか食べたことのないアルドラーシュはもちろん殻の食感など知るはずもない。
まあ普通の貴族はそうだろう。
しゅんと肩を落としたアルドラーシュを慰め、残りの卵は私が割ったのだけれど、卵を割っただけで拍手をするのは恥ずかしいから止めた。
その後の作業もどうやらアルドラーシュには苦手なものが多かったらしく、案外不器用なのだなと新しい一面を知ってホクホクする私に対し、彼は自分の不出来さに落ち込んだ。
お菓子の家の外壁を担う焼き上がったばかりのクッキーが冷めるのを待つ間、しばしアルドラーシュとのお喋りに興じた。
「……情けない」
「そんなに落ち込まないで。初めてなんだから仕方ないわよ。それに誰にだって得手不得手はあるわ」
「それもあるけど、食べ物一つ作るのがこんなに大変なことだなんて俺は知らなかったよ。いつも美味しいものが出てくるのが当たり前だと思っていたが、全然当たり前じゃなかったんだな」
料理人が手間暇かけて味も見た目も素晴らしいものを作り上げてくれていたのに感謝の気持ちが足りていなかったとアルドラーシュは口にした。
こういうことに気づいて素直に口に出せるアルドラーシュは本当に素敵だと思う。
「それに気づけただけでもお菓子の家を作る価値があったってものよ。それにまだ終わりじゃないわよ。今からこれを組み立てなきゃいけないんだから」
そこからはクッキーをクリームやチョコレートで接着し、最後に屋根に粉砂糖と卵白、水を混ぜて作った液で模様を付けた。
片方の屋根を私が、もう片方をアルドラーシュが描いたのだけれど、ここでもアルドラーシュは不器用さを発揮した。
「……同じ柄を描いたとは思えないな」
「味があっていいじゃない」
「作り手によって違うというのも手作りの良さですよ、坊っちゃん」
「そういうものか?」
「そういうものです。さて、こちらは頑張ったお二人に私からのささやかなプレゼントです」
そう言って料理長は人型のクッキーを2枚、完成したお菓子の家に立てかけた。
ひとつは男の子のシルエット、もうひとつは女の子のシルエットだ。
「お二人に見立てて作ってみました。うーん、こうしてみると食べるのがもったいないですね」
「っふ、そうだな。でもなあ、ルルーシア?」
「ええ、もちろんたべるわ。だって美味しいスイーツは食べてこそ、だもの」
食べるために作る。そして作ったものは残さず美味しくいただく。これ、常識。
「美味しい料理だって誰かに食べられてこそ、でしょう? ね、料理長」
「ははは、その通りです。お茶もご用意して運ばせますから少しお待ちください。いつもの場所でよろしいですか?」
「ああ、よろしく頼む」
厨房を離れ、いつもアルドラーシュとお茶する部屋でしばらく待っていると、メイドが完成したお菓子の家と紅茶を運んできてくれた。
やはり少し歪だけれど、初めてにしてはそれなりに上手くできていると思う。
「どうやって食べる?」
「とりあえず屋根からいってみるか?」
完成したばかりの屋根を外し、互いの取り皿にのせる。私がアルドラーシュが模様を描いたもので、彼は私が描いたほうの屋根だ。
少しだけもったいない気もしたけれど、思い切って口に運ぶとサクッと良い音がした。
「美味しい……けど、やっぱり本職の人が作るものとは比べ物にならないわね」
「たしかに。でも俺はルルーシアの手作りって思うだけで10倍は美味しく感じるけどな」
「馬鹿舌じゃない」
「馬鹿って言うな。愛だろ。気持ちの問題だよ」
「その愛っていう魔法はいつまで続くのかしら」
「永遠だよ」
「……大きく出たわね」
「嘘は言ってない」
「次どこ食べる?」
「話そらしたな? まあいいか。じゃあ煙突と家の中身にしようか?」
本当は家の中は空洞のはずだったのだけれど、料理長がひと口大の焼き菓子を出してくれたのでそれが詰まっている。
食べればわかる本職の味だ。
アルドラーシュも同じことを思っていたようで、お互い顔を見合わせて笑ってしまった。
「愛を軽く超えたわね」
「それはそれ、これはこれだろ。料理長が作ったものにだって彼の優しさが入ってるんだから」
「いいこと言うわね」
「だろ?」
ふふっと笑い合いながら食べ進めると、小さなお菓子の家は食べ切るまでにあまり時間は掛からなかった。
すべてを食べ終えると茶器以外の食器が下げられ、メイドが新たに紅茶を淹れてくれる。
紅茶で喉を潤していると、アルドラーシュがスッと手を挙げた。すると待ってましたとばかりにロビンさんがやってきてアルドラーシュに何かを渡した。
「もう下がっていいぞ」
「え? 見てちゃ駄目ですか?」
このロビンさんの言葉にアルドラーシュはすごく嫌そうな顔を見せると「出ていけ」と言った。
あんなことを言ったらこうなることはわかっているだろうに、馬鹿だなと思う。
ロビンさんは「残念です」と言いつつ、まったく残念がっていない様子で部屋を出て行く。なぜかメイドも引き連れて。
もちろん扉は開いている。
(ん? あれ? もしかしてわざと出て行かせるように仕向けた?)
「まったく……どうしてわざわざ怒らせるようなことを言うんだか。普通に出て行けばいいものを」
「やっぱりわざとなの?」
「ああ、これを受け渡したら二人きりにしてくれと言ってあった」
なるほど。
どおりでみんなスムーズに部屋から出て行ったと思った。
「でもなぜ? そういえばロビンさんは何を持って来たの?」
「これはルルーシアへのプレゼント」
そう言うとアルドラーシュはテーブルの上にすっと可愛らしくラッピングされた平たい箱を差し出した。
「私に? 何かしら」
「開けてみて」
アルドラーシュに促され、ラッピングのリボンを解いていく。
箱の中にはいったい何が入っているのか、わくわくとした気持ちを胸に箱を開けると、なかには高級感溢れる黒いケースが入っていた。
「箱の中の箱。く~、焦らすわね~」
「はは、楽しそうで何より」
早く中を見たい気持ちはもちろんあるけれど、それまでのこの開ける過程も楽しみたい。
「何かしら? これを開けたらもうわかるのよね?」
「ああ」
「よし、開けるわよ」
黒いケースを箱から取り出し目の前に置く。そしてゆっくりとケースの蓋を外すと、中には銀色のカトラリーが入っていた。
「デザートスプーンに、フォーク?」
シンプルだけれど、だからこそ長く使えそうな洗練されたデザインの食器は黒いケースの中で美しく輝いている。
「綺麗……」と呟いてまじまじと見ていると、いつの間にかアルドラーシュが席を立って私のところまでやってきていた。
「気に入ってもらえたかな?」
「ええ! とっても素敵。でもどうして?」
私がそう聞くと、アルドラーシュは椅子に座る私の手を取り隣に跪いた。
「え? 急に何?」
突然のことに私が目を白黒させていると、アルドラーシュはふっと笑い私を見つめた。
こうなると私はいつも身動きが取れなくなってしまう。
以前から素敵な人ではあったけれど、この一年でアルドラーシュはさらに格好良くなった。美貌が、とかそういうことではなく、今私の手を掴んでいるその指もそうなのだけれど、男らしくなったというか大人びたというか、そういう感じだ。
私がアルドラーシュのことを想っているからというのもあるとは思うのだけれど。
だからこそそんなアルドラーシュに見つめられると心臓をぎゅっと鷲掴みにされて、けれど苦しいわけではなく、胸が高鳴り身動きが取れなくなってしまうのだ。
「ルルーシア、君と婚約して一年が経ったね。俺と婚約したこと後悔したりしていない?」
「してないわ。するわけない」
この一年、とても楽しかった。満たされていた。
後悔なんてするはずない。もしするとすれば、なぜもっと早く婚約しなかったのかというだけだ。
「良かった。俺もとても充実した日々を過ごせた。ルルーシアといると日常の中のちょっとしたことが特別になったり、幸せだと思えるんだ。この幸せをずっと一緒に噛み締めていきたい」
「私もよ」
くだらないことで口喧嘩になったりして顔を合わせるのが気まずくなっても、その日の夜には共鳴石で連絡をくれて仲直りのきっかけを作ってくれる。
気の強い私を、アルドラーシュは丸ごと受け止めて優しさで包んでくれる。
外ではシシリ侯爵家の次男として優秀であらんとするアルドラーシュが、私の前では気を許して素の表情を見せてくれる。
ちょっとした、けれどとても大切な幸せを二人で紡いでいきたい。
「今日作ったお菓子の家みたいにさ、お互い苦手なことだったり、足りないところを補い合って、俺たちだけの夫婦の形を作っていこう。それでさ、つまり、何が言いたいのかっていうと」
アルドラーシュは一旦言葉を止めると何度か深呼吸を繰り返す。
「ルルーシア、君を愛してる。これからも一緒に美味しいものを食べて、心から笑って、何かあっても向き合って、そうやって一緒に生きていきたい。絶対幸せにするから、俺と結婚しよう。……って、いやまあもう婚約してるんだし、卒業したら結婚するのは決まってるんだけど、けじめというか、ちゃんと言いたかったというか……はは、締まらないな、ごめん」
アルドラーシュはへにゃりと笑って頬をかいた。
そして今度は目を瞠り、私の頬を親指で拭った。
「あー、もう。泣かせたかったわけじゃないんだけどな」
「そんなの無理よ! だって……だって嬉しいんだもの。涙だって出るわよ」
勝手に零れ落ちる涙をアルドラーシュの大きな手がそっと拭ってくれる。
「ううぅ、ばかぁ……私だって好きなんだから、私のほうがアルドラーシュを幸せにするんだから。見てなさいよ……!」
もっと言い方があるだろうに、こんなふうにしか返せない自分が憎い。
けれど、やっぱりアルドラーシュには私の言いたいことがきちんと伝わってるようで、彼は声を出して笑うと私をぎゅっと抱きしめた。
「ああ。見てる。ずっとルルーシアの側で見てるよ」
アルドラーシュはその顔に満面の笑みを浮かべると私の目尻にキスをすると、溜まった涙をチュッと吸い上げた。
その行動に驚き、身を固くした私の頬に再びアルドラーシュは唇を寄せた。それは反対の頬にも同様に。
「ま、待って、待って、今、キキキキキス、した……?」
アルドラーシュの身体を押し戻して距離を取り、両頬を押さえて何とか声を出す。
顔が熱い、熱すぎる。
急にこんな過度な接触があるなんて聞いていない。
私たちは恋人ではあるけれど、今の今まで手を繋ぐくらいしか恋人らしい触れ合いはなかった。
時々、本当に時々抱きしめられるくらいがせいぜいだ。
婚約を結んでから初めての長期休暇に、二人でヘイロー伯爵領まで行った際、「アルドラーシュ殿、健全な付き合いを頼むよ? 意味わかるよね? 頼んだよ?!」とアルドラーシュは父様に詰め寄られていた。
聞いているこちらのほうが恥ずかしくなるから本当にやめてほしかったのだけれど、アルドラーシュはまったく動揺することなく「もちろんです」と答えていた。
それなのに。
(なに、今の、ふにって、ふ、ふにって、駄目、思い出しちゃ駄目よ!)
アルドラーシュの予想だにしない行動に私の頭は混乱していた。
きっと顔は真っ赤だろうし、頬を押さえる手は動揺して震えているし、まともにアルドラーシュを見ることができない。
(す、すごいことをしてしまったわ……!)
「……嫌、だった?」
目をそらしてしまった私にアルドラーシュはやや不安そうに聞いてきた。
(嫌なわけないじゃない! でも)
ただただ恥ずかしい。
「い、嫌じゃなかった……でもちょっと性急すぎやしないかしらっ?!」
キッっと睨むようにしてやっとの思いで視線をアルドラーシュ戻すと、「そっか、はは、嫌じゃないか」とそれはそれは嬉しそうに笑っていた。
なぜ嫌だと感じると思ったのだ。心外だ。
大体その後の訴えを完全に流された気がするのは気のせいだろうか。
そんなことを考えていると、するっと伸びてきた手が私の手ごと頬を包んだ。
「え? な、何?」
「俺たちもうすぐ夫婦になるんだから、少しずつ慣れていこうな」
「何が!? え、ちょっと待って、待って――んぅ」
(く、くち――)
私が覚えていたのはここまで。
ゆっくりと近づいてきたアルドラーシュの顔に恥ずかしさの限界を突破した私はそこで意識を手放した。
目が覚めた時には以前使用していた客室のベッドの上だった。
「ルルーシア? 良かった」
「あれ、私どうして……」
体を起こし、周りをキョロキョロと見まわしていると、ベッドの横で椅子に腰かけていたアルドラーシュがばつが悪そうに言った。
「あー……ごめん。俺のせいだ」
そう言われてアルドラーシュにされたことを思い出し、再び顔に熱が集まる。
なんとなく気まずい空気が流れる中、アルドラーシュは水をもらってくると言って立ち上がろうとした。
その服の裾をはしっと掴み「嫌じゃなかった」と口にした。
「え?」
「だから、驚いただけで嫌じゃなかったって言ったのよ」
頬にされた時点でも嫌ではなかったと伝えたのだからわかっているとは思うけれど、頬は良いけれど口は嫌だったなんて絶対に思ってほしくなかった。
これが今私にできる精一杯だ。
アルドラーシュは裾を掴んでいた私の手を取ると、そのままベッドに腰かけ私の頬に触れた。
その瞬間、またしても心臓がうるさく鳴り始める。
そんな私をアルドラーシュは気遣うように、それでいて挑発するように苦笑を浮かべて言った。
「そんなこと言うと俺、調子に乗るよ? ルルーシアはもういっぱいいっぱいって顔をしているけど大丈夫なのか?」
ここで少しカチンときてしまった私は大人げないのだろうか。
それともアルドラーシュの仕掛けた罠にまんまとはまってしまったのだろうか。
「アルドラーシュにできて私にできないわけはない! 大体このまま触れ合いに慣れずに結婚式の誓いの口付けで胸が高鳴りすぎて気絶しました、なんてことになったら笑い話にもならないわ」
私はアルドラーシュの胸ぐらを掴むと彼の唇を目がけて顔を近づけた。もちろんキスをするために。
アルドラーシュにできたのだから私にだってできると、今この場では必要のない負けず嫌いを発揮して勢いのまま行動したのがいけなかったのだろう。
胸ぐらを掴んだ後は目を瞑ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
「痛っ!」
「うっ」
次の瞬間、私とアルドラーシュはお互いに顔を押さえて呻いた。
指の隙間からアルドラーシュを見ると、彼も私と同じように鼻の辺りを痛がっているようだった。
「……ルルーシア」
「う、ごめん……で、でも! できると思ったのよ! でも、その……案外キスって難しいのね、あはは」
恥ずかしい。
ものずごく恥ずかしい。
自分から仕掛けたくせに失敗で終わるなんて。
(しかもキスよ? 魔法が失敗したとかよりもよっほど恥ずかしいじゃない! だって、だって!)
当たり前だけれどキスの仕方なんて誰も教えてくれなかった。
恋愛小説にだってそんなこと書いていなかった。
物語の主人公たちはみんな当たり前のようにすんなりキスをし、甘い空気を漂わせていたというのに。
もしや彼女たちは初心に見せかけた恋愛上級者であったというのだろうか。
「っふ、くく」
私が色々と考えていると、アルドラーシュから思わず吹き出しましたと言わんばかりの笑い声聞こえてきた。
「何よ! そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
恥ずかしさから俯けていた顔を上げると、そこにはとても優しい目で私を見るアルドラーシュがいた。
私はてっきり馬鹿にされて笑われているのだと思っていたのに、彼の表情からはそんな感情は一切感じられず、むしろこちらが照れてしまうくらい愛おしいといった想いが溢れているように感じられた。
「え、な、何?」
「何って?」
「だって……てっきり馬鹿にされるのかと」
「何でだよ。しないよ、そんなこと」
そう言うとアルドラーシュは私を思いきり抱き締めた。
「え? 何? 何なの?」
「好きな子からキスをされて喜ばないやつなんかいるもんか」
「……でも失敗したわ」
「勢いがすごかったからな」
抱きしめられた肩越しにアルドラーシュが笑うのがわかる。
くすぐったくて身をよじれば、さらにぎゅっと抱きしめられた。
「負けん気が働いてっていうのはわかってるけど、それでもルルーシアからしてくれたってことが嬉しいんだ。嬉しすぎて鼻がぶつかるのを避けるの忘れたくらいにね」
「一言多いわよ!?」
恥ずかしさと、今度こそ揶揄われたという腹立たしさから文句を言うと、またくすくすとアルドラーシュが笑うのがわかった。
「大体何よ、アルドラーシュだって初めてだったくせにあんな流れるように――」
――流れるようにキスをした。
(え? ちょっと待って? もしかしてそういうこと? 初めてなのは私だけで、アルドラーシュは違った?)
不意に頭に浮かんでしまった考えに愕然とする。
(そうよ。アルドラーシュは私と違って都会の人で、女性からも人気があって、私が知らないだけで今までもお付き合いしている人がいたかもしれない……)
その可能性に思い至り、そしてそれに思いのほかショックを受けている自分に気づく。
私のことを好きになってくれる前のアルドラーシュが誰と交際していたとしても、それを咎めることなんてできない。
そんなことはわかっているのに、それでも嫌だと感じてしまう私は我儘なのかもしれない。
思わずアルドラーシュの背に回した手に力が入ってしまったのを彼は見逃さなかった。
「おい、何かまたろくでもないことを考えてるだろ。言っておくが俺だってさっきのが初めてだからな?」
「……嘘」
「なんでだよ。嘘じゃないって」
「だって……私みたいに失敗しなかったもの」
わかりきった嘘なんかで慰められても悲しいだけだと口を尖らせれば、アルドラーシュは予想もしなかたことを口にした。
「それは、まあ、事前に学習したし」
「……? どういうこと?」
「だから言葉通りの意味だよ。あるんだよ、その、色ごとに関する指南書みたいなものが……」
アルドラーシュ曰く、婚約が調ってしばらくしてからお兄様のイグニーシュ様から手渡されたらしい。
イグニーシュ様は少し前に婚約者のリンデ様と結婚されたのだけれど、その彼から自分にはもう必要ないからと言って譲り受けたそうだ。
「そ、そうなの……」
色ごとの指南書と聞いてなんと返して良いのかわからず、なんとなく沈黙が苦しい。
「格好付かないから言いたくはなかったんだけど」
「ごめんなさい?」
「どうして謝るんだよ」
アルドラーシュは笑って抱きしめていた手を緩め、私から身体を離すとそのまま私の両手を握った。
「ルルーシアに勘違いされるよりいいよ。恥ずかしいし情けないけどさ、きっと歳を重ねた時に、最初の時はこうだったなんて笑い話になるんだ」
「……それは、とっても素敵ね」
そうなった時を想像して自然と二人とも笑顔になる。
今はこんなに緊張して恥ずかしくて、キスひとつ上手にできないけれど、いつかこれが当たり前になって自然なことになって、歳を重ねても隣にアルドラーシュがいてくれる。
そんな未来が私たちには待っているのだ。
「大好きよ、アルドラーシュ」
感情が溢れるようにそう口にすれば、アルドラーシュはぐっと言葉に詰まり、握っていた手に力が入った。
「っ……君って本当にそういうとこあるよね」
「そういうとこ?」
「俺の感情を揺さぶるのが上手すぎるってこと」
そう言ってアルドラーシュは私の唇をかすめ取った。
一瞬の出来事に目をぱちくりとする私に、アルドラーシュは「どんなスイーツよりもルルーシアの唇が一番美味しい」と言って笑った。
「馬鹿! ほんっと馬鹿!」
「ははっ!」
アルドラーシュの胸をぽかぽかと叩く私を抱きしめて、アルドラーシュは幸せそうに笑う。
そんな彼を馬鹿だと思いながらも、私もどんなスイーツよりアルドラーシュとのキスのほうが甘く幸せな気分になると感じているのだから、きっと私たちは似た者同士なのだろう。
少し前までは自分は女性として好かれることはないだろうと信じ、諦めていた。
それは真実ではなかったし、思い込みであったのだけれど、私にとって愛し愛されるというのは物語の中の話で、自分には起きないはずのことだった。
けれどアルドラーシュがこんな私を好きだと言ってくれた。
夢みたいなことだと思ったし、今でも時々夢かもしれないと思うこともあるけれど、私を包むこの温もりがそうではないと教えてくれる。
「馬鹿だけど、そんなところも好き」
負けん気が強い私だけれど、なかなか素直になれない私だけれど、アルドラーシュの前でだけは可愛い女の子になれる気がする。
何年経ってもアルドラーシュと一緒になったことを絶対後悔などしないと、自然とそう思えるのだ。
おわり。
【おまけ】
「ねえ、どうしてカトラリーだったの?」
不思議そうにルルーシアは尋ねる。
「ああ、プロポーズには普通指輪だもんな。それはもちろん用意してあるけど……」
「え? あるの?」
「あるに決まってるだろ?」
てっきり指輪の代わりのものだと思っていたルルーシアは余計に疑問に思った。
そんな彼女にアルドラーシュは微笑みながら答える。
「ほら、俺たち元々知り合いではあったけど、親しくなれたのはスイーツのおかげだろ?」
婚約し、結婚することは決まっているけれど、それでもきちんとプロポーズしたかった。その時に渡すものは何が良いかと考えた時、思いついたものがカトラリーだったのだとアルドラーシュは言う。
「初心に帰る、じゃないけどね。俺たちを結び付けてくれたものだったから」
「だからわざわざデザート用のものだったのね」
「そうだよ」
ルルーシアはカトラリーをじっと見つめ、何か思いついたように手を叩いた。
「私、毎年この日はこのカトラリーを使ってデザートを食べるわ。そして今日のことを思い出すの。もちろんアルドラーシュと一緒によ」
「それは……少し恥ずかしいけど、いいな。俺たちだけの特別な日だ」
そう言ってアルドラーシュは愛おしそうに目を細めたのだった。
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長らくお付き合いいただきましてありがとうございました!
読んでくださる皆さんのおかげで無事完結まで書くことができました(・∀・)
よろしければ感想などいただけますと幸いです。
私の心の養分になります。
よろしくお願いします!




