39.ルルーシア・ヘイローは捨て身で挑む
あの後もシュミレットさんとトドスさんにはいろいろと言われたけれど、私はだんまりを決め込んだ。
だって、最近噂になった黒髪の平民は誰なのかと聞かれても私には答えることはできないから。
(だからあれはアルドラーシュなのよ……)
謎シシリの正体を知らない彼女たちからしてみれば、私がそちらと纏まったほうが都合が良いのではないかと思うのだが、アルドラーシュから好意を寄せられているのに他の男を選ぶなんて許せない、らしい。
何とも複雑な乙女心である。
「はあ、もういいわ。休憩のはずなのに余計に疲れたじゃない」
「本当よ。どうしてヘイローとこんな長話をしなくちゃいけないのよ」
「……私のせいじゃないでしょ?」
お喋りの三分の二以上はあなたたちが話していたと思うのだけれど。
納得いかないと不満を漏らした私を無視し、二人は「もう戻りましょう」と座っていた石から腰を上げ、お尻をパタパタとはたいた。
その時――何かがシュミレットさんの肩にいることにトドスさんが気づいた。
「ひっ……! ス、スザンナ、か、かか肩にっ!」
「え?」
「か、か、か、か、肩にく、蜘蛛……!」
「いっ、いやーー!!」
シュミレットさんの叫び声が森に響く。
「取って! 早く取って!」
虫が苦手なシュミレットさんは目に涙を浮かべ、半ば錯乱状態に陥った。
「落ち着いて。今取るからじっとしていて」
体に生えた毛がしっかりと確認できるほどに大きな蜘蛛は、振り払おうとバタバタするシュミレットさんの肩で上手いことバランスをとっている。
森に慣れた私からしてみれば、この蜘蛛は毒もないし怖くもないのだけれど、都会育ちのご令嬢からしてみれば恐ろしいものなのだろう。
実際最初に蜘蛛の存在に気づいたトドスさんは、シュミレットさんの一番近くにいるのに蜘蛛を払うことができないようだ。
「そのまま動かないでね」
あと少しで蜘蛛に手が、というところで我慢の限界になったのだろう。
シュミレットさんが「いやっ、いやぁ!」と泣き出し走り出し、そして近くの木にぶつかった。
「あ」
走り出した時に肩にいた蜘蛛は自ら飛び降りたようだが、彼女が木に当たった瞬間、上からボトボトと何匹もの蜘蛛が降ってきた。
最悪である。
「ギャー!!」
そのまま倒れてしまえばまだ良かった。
しかし錯乱した彼女は蜘蛛を振り払うかのようにまた走り出した。
「シュミレットさん?! ちょっと、待って!」
「ス、スザンナ!」
私たちは慌ててシュミレットさんの後を追う。
森の中で我を失うことほど怖いことはない。
ただでさえ普段と違う環境の中で冷静に判断を下せないというのはとても怖いことだ。方向感覚さえ、怪しくなる。
(ああもう! どうしてこんなに足速いのよ!)
全速力で走っているのになかなか追いつけない。
トドスさんに至っては私の後ろから「ま、待ってぇ」と息も絶え絶えな声が聞こえてくる。
こういう時の時間はやたらと長く感じる。
(いい加減落ち着きなさいよー!)
そう思いながら走っていると、急に目の前が開けた。
そして前方に走っているシュミレットさんの前にロープが張られているのが見えた。ロープに垂れ下がっている板に書かれている文字に心臓がうるさく鳴る。
【立ち入り禁止:この先崖】
「シュミレットさん! 止まって! 止まりなさい! その先は崖よ!!」
走り疲れてきたのだろうか。
私の声が届いたのかシュミレットさんが振り返る。
その姿にほっとしたのも束の間、前方不注意の彼女はそのままロープに突っ込み、そして転んだ。
転んだだけならまだ良かった。けれど現実はそう甘くない。
シュミレットさんは転んだ勢いそのまま前方にごろんと回転して止まり、立ち上がろうとしたところで、力の入っていない自分の足につまずいた。
そして、そのままヨロヨロと前方に手をついたかと思ったら――消えた。
消えたのだ。
「シュミレットさんっ!?」
慌ててその場に行くと、そこは崖。
「う、嘘でしょ……?」
最悪の事態を想像して呆然とする私の耳に、小さな声が聞こえた。
ハッとして崖を覗き込むと、崖から突き出た木に必死にしがみつくシュミレットさんの姿があった。
「シュミレットさん!」
「ヘ、イロー、たす、けて……!」
「今助けるわ! 頑張って!」
幸いにもシュミレットさんが掴まっている木は手を伸ばせば届く距離。
私は地面に這いつくばって腕を伸ばし、シュミレットさんの手首を掴んだ。
「シュミレットさん! もう片方の手も伸ばして! 早く掴むのよ! 頑張って!」
シュミレットさんが私の手をしっかりと掴む。
ほっとしたのも束の間、私は自分の最大の過ちに気づいてしまった。
私とシュミレットさんでは体格に差があったのだ。私のほうが小柄、つまりシュミレットさんの全体重がかかった今、彼女を引き上げるだけの力が私にはない。
何とか引っ張られないようにするのがやっとの状態だ。
(どうする? どうすればいいの?!)
このままでは二人揃って崖下へ真っ逆さまだ。
けれど私一人の力では引き上げることは不可能だ。嫌な汗が頬を伝う。
(早く! 早く来てトドスさん……!)
二人ならば引き上げられるかもしれないと、必死に力を入れながらトドスさんが追い付いてくるのを待っていると、後方から荒い息遣いが聞こえてきた。
「はあ、はあ。やっと、追いついた、はあ。ヘイロー、スザンナは? そんなところで何してるの?」
状況を理解していないトドスさんの緊張感のない声が聞こえる。
「トドスさん! こっちに来て! 早く!」
「はあ、はあ、待ってよ、息が……」
「早く! シュミレットさんが危ないのよ!」
「危ないって、何――きゃあ! ス、スザンナ!」
ようやく状況を理解したトドスさんが叫び声を上げる。
一緒に引っ張ってと言いたかったのに、トドスさんは腰を抜かしたように私の横にへたり込んだ。
「トドスさん! 早く手を貸して!」
「え? え?」
「え、じゃない! 一緒に引っ張って! 早く!」
私の強い声によろよろと立ち上がりトドスさんもシュミレットさんに向かい腕を伸ばす。
「スザンナ、スザンナァ……」
予想だにしなかった事態にトドスさんはえぐえぐと泣きながらシュミレットさんを掴む。
「泣くな! その分力入れて!」
「や、やってるわ! もうこれ以上は無理よぉ」
二人で引っ張り上げているはずなのに一人の時と感覚がほとんど変わらない。
体力と握力だけが消費されていく現状に、もうどうしたら良いのかわからなくなってくる。
その時、掴んでいたシュミレットさんの腕が下にずり落ちた。
(まずい、このままじゃ三人とも落ちる……!)
どうにかしなければ。
私は必死に考える。
どうすることが一番良いのか。被害が一番少なく済むのか。
そして結論を出した。
「トドスさん、一旦離れて!」
「え?」
「早くして! このままじゃみんな落ちるわよ!?」
(もうこれしかない、きっとこれが最良!)
今まともに考えて動けるのは自分しかいない。
けれど細かいことを説明している時間も余裕も私にはない。私も、シュミレットさんも、もう腕の力が限界に近い。
「今からシュミレットさんを引き上げるわ! しっかり受け止めて!」
「え? え?」
「しっかりしなさい! いい? 受け止めたら急いで先生に知らせに戻るのよ! わかったわね!」
「わ、わかったわ!」
トドスさんがしっかりと返事をしたのを確認し、私はシュミレットさんに声をかけた。
「シュミレットさん! ちょっと、手荒になるけど、我慢してよ、ねっ!」
私は最後の力を振り絞り、ぐいっとシュミレットさんを引っ張り上げる。
その反動で自分の身体が崖にずり落ちるのがわかったけれど、それで良かった。
「トドスさん! 頼んだわよ!」
「え? ヘイロー?! ヘイロー!」
ゆっくりと、まるで時が止まってしまったかのように感じる。こんな状況なのに、なぜか私はとても冷静だ。
私の身体が完全に崖から落ち始め、シュミレットさんと入れ替わるように交差する。その時シュミレットさんの驚愕によって見開かれた目と視線が絡んだ。
「後は頼んだわよ」
その声が彼女に聞こえたかどうかはわからない。
私は自分の身体が完全にシュミレットさんよりも下に来たことを確認すると、腕を上に突きだし、躊躇することなく思い切り魔法を放った。
「風よ、我が手に集え!」
その瞬間シュミレットさんの身体がぶわっと押し上げられた。
落ちながら彼女が視界からいなくなったことに安堵する。
(うまく、いったわ。あとは自分よ!)
上に向かって風を作り出したことで、私の落ちる速度は逆に上がってしまった。
だから今度は下に向かって魔法を放つ。
少しでも落ちる速度が遅くなるように何度も下に向かって強風を発生させる。その度に一瞬だけふわっと身体が浮く。
(よしっ! 眼下は森! ここが正念場よ!)
「風よ、集え!」
木々に突っ込む直前にもう一度強風を発生させる。
「渦巻く水よ、我が前に!」
そしてすぐに巨大な水球を作り出した。
水球に包まれるようにして、ガサガサ、バキバキと木々に突っ込む。
「きゃあっ! っく!」
少しでも衝撃を和らげられればと思ったけれど、本当に少ししか役に立たない。
腕を胸の前で交差し、身体を丸め、顔を隠すようにしながら身を守る。けれど目は完全には閉じない。
木々の葉や枝の部分を抜け、地面にぶつかる直前に、最後の風魔法を放った。
しかし魔力のコントロールが上手くいかず、思ったよりも浮き上がった。そして、満身創痍の私は上手く受け身を取ることもできず、ドスンと地面に転がった。
「いっ……たぁ……」
身体には無数の傷、服はところどころ破れているだろうし、全身水浸し。酷い状態だ。
「た、助かった……ふふ、ふふっ、やり切った、わ」
けれど生きている。私はちゃんと生きている。
痛む身体を何とか動かし、大の字になると自分が落ちてきた木々の隙間から青空が見えた。
良かった、本当に良かった。
自分一人が落ちることが最良だと判断した。
けれど、落下しながら自分が本当に冷静に対応できるかなんてわからなかった。だってこんな状況になったことなんて一度もなかったから。
でも、できた。
今ほど魔法の勉強を真面目にしていて良かったと思ったことはない。
本当にこの判断が最良だったかどうかなんてわからない。けれど私は生きている。もうそれで良い。
「怖かった……、怖かったよぉ、身体中痛いし、濡れて寒いし、もうやだ、早く帰りたい……うう」
生きていることに安心すると、勝手にぽろぽろと涙が出てきた。涙が頬を伝って地面に吸い込まれて行く。
トドスさんたちは先生に上手く状況を伝えられるだろうか。早く助けに来てほしい。
そんなことを考えながら、私はぐすぐすと涙を流すのだった。
てぇへんだ、てぇへんだ!(゜ロ゜; ))(( ;゜ロ゜)
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