36 思わぬ再会 4/5
ちょっと短くなりました。具体的に言うと1000文字くらい。
ヘルマスターにノエルの姿が見えていない。
そのことにまず気付いたのは誰だっただろう。
「ヘルマスターさま……?」
疑問の声を上げたのはダークスピネル。
ヘルマスターは不機嫌を隠しもせずにダークスピネルを見下ろした。
「クロウェシアのやつが連れてきたのは……ノエルさまですよね。以前、ヘルマスターさまがお気に召していた人間族の」
「……なに?」
さっとヘルマスターはぼくたちに視線を走らせる。クロウェシアの横のノエルを見たはずだが、その視線は通り過ぎ留まることがない。
(ヘルマスターにだけ、ノエルの姿が見えていない?)
どういうことなのだろうか。
そしてダークスピネルの発言。以前ノエルはこの場所にいたとも取れる。
「ノエルさま?」
クロウェシアがきょとんと目を瞬かせる。
呆れた様子で彼女を見たのはイルフェーブルだ。
「ああ、おまえはまだ魔族にすらなってなかったころだったっけ。ノエルさまは主君の命でダークスピネルが魔界に連れてきた、稀なる人だ。数年間だけここに留まっていたが、いつの間にか消えていたから死んだものと……」
ちらとイルフェーブルはヘルマスターを見た。冷たい王の目はイルフェーブルには向いていない。
王の身体から怒気が溢れる。高魔力の塊がぼくたちを押し潰すように圧し掛かった。
「ぅあっ」
「きゃっ」
地面に這い蹲る。身体が重い。みしりと骨が軋むほどの重圧に思わず呻く。
例えるなら不可視の大きな手。それがぼくたちを押し潰している。肺が潰されて呼吸がままならない。
ただ一人、ノエルを除いて。
「やめて……」
ノエルの声に反応して不可視の手が弾けた。いや、魔力の塊が霧散したのだ。
身体が軽くなって、呼吸が出来るようになる。ぼくたちは咳き込んでノエルを見上げた。
「みんなに痛いことしないで……」
はっとヘルマスターが目を見開く。
「この、魔力は……まさか」
ふらりと立ち上がったヘルマスターの身体がブレる。瞬きをするとその間に少年王の姿は若い男性の姿に変わっていた。
薄紫の髪と金の目が、姿の変わった彼が間違いなくヘルマスターであると主張している。
ぼくははっと魔族の王とノエルを見た。
極細の魔力の繋がり。ノエルからヘルマスターへ向かって伸びているそれ。
なるほど、とぼくの中でせんせいが呟く。
立ち上がってノエルを呼んだ。
「<冥王>から、ノエルの魔力を感じるんだけど、本当に知らない?」
彼女はヘルマスターを知っているはずだ。だって、その魔力の色は――、
「……ヘルマスター……あなたは、わたしの探しものを知っているの……?」
ゆっくりとした足取りでノエルはヘルマスターの玉座へ近付く。
<五賢王>も止めなかった。黙って彼女がどうするのか見守っている。
ノエルの手がヘルマスターの頬に触れる――と思ったのに。
するりとその手は王をすり抜ける。
「え……」
「なんと……」
ノエルがヘルマスターに何度触れようとしても、それは叶わない。どちらも生者だ。それは間違いない。
なのに、二人は世界が違うかのように触れ合えなかった。
ヘルマスターは一同が己を凝視するのを不愉快そうに見下ろす。
「今、ノエルがあんたに触れようとしている。……なにも感じねぇのか」
ルイの発言に、ヘルマスターは眉間の皺を深くする。
「恐らく、それは呪いだろう」
せんせいが声を出すと、はっと全員がぼくを見た。男がぼくの名前を呼び、首を振る。
「せんせー、呪いって……」
せんせいはヘルマスターに向かって慇懃に礼をしてみせる。
「お初お目にかかる、わたしの名はアーサー。わけあってこのアーティアと身体を共有しているもの。どうぞお見知りおきを、冥府の王よ」
「貴様のことなぞどうでもよい。それで、呪いとはどういう意味だ」
こくりとせんせいが頷く。
わざとらしく両手を広げ、一同を見渡した。
「ここにいる全ての者にはそこにいるノエル嬢の姿が見えている。しかし王たるヘルマスターどのには見えていない。何故か? ――簡単な話だ、ノエル嬢が己の姿を見せぬように、王の目に呪いをかけているのだから」
「は、はぁ? ヘルマスターさまがたかが呪いに負けるわけがないだろう」
声を上げたダークスピネルを、せんせいは黙って見つめる。ぐ、とダークスピネルは言葉を詰まらせた。
「いいや、出来るとも。――管理者の娘たる者ならば」
はっとノエルは目を瞬いた。
「わたしが……彼を……? どうして……」
さて、とせんせいは首を捻る。
「理由まではいくらわたしとはいえ。その理由はご自分が一番おわかりだろう、最初の娘ノエル」
ノエルは首を振る。
「わからないわ……だって、わたしはヘルマスターを知らない……覚えていない……」
「おや、知らないのに覚えていないとは異なことを言う。覚えていないというのは、知っているからこその言葉では」
ノエルが俯く。
せんせいは肩をすくめる。
「まぁ、動機はわからないが、なにが起こったのかくらいは推測出来るだろうね」
「……思わせぶりなことばかり言っていないで、さっさと言ったら? でないとその身体を腐らせるよ」
苛々とイルフェーブルが手にした禍々しい球のようなものを前に出した。
横のダークスピネルがぎょっとして距離を取る。
「おっと、アーティアの身体が腐るのは困る。なに、簡単なことさ。昔、ノエル嬢はこの地にいたのだろう。そしてあるとき、ノエル嬢はヘルマスターどのの目に呪いをかけ、自身を見れなくした。見れないだけでなく、声を聞くことも、触れることすら拒絶したのだろうね」
「……」
ヘルマスターが一際厳しい目でせんせいを見下ろした。関係ないぼくが凍りそうな視線だ。
「更にノエル嬢は自分にも呪いをかけた」
「……え?」
「恐らくだが……この地のこと、ヘルマスターどののことを忘れる呪いだ」
ぼくはノエルを見上げた。ノエルは目を瞬いている。
「我を忘れる呪い、だと?」
こくりとせんせいが頷く。
「お二人の間になにがあったのかはわからないから、理由なんて知らないよ。ただ、わたしはわたしが見ているものを説明しているのみ。わたし――いや、アーティアにはノエル嬢から伸びる呪いの糸がヘルマスターどのに伸びているのが見える。そして、雁字搦めにするように、ノエル嬢を覆う彼女の呪いの糸が」
「……」
「アーティアの視界を共有したわたしにはその呪いがどう作用するものか、多少ならば見えるのでね。簡単な呪いではない。随分と古い呪いだ。他者がどうこうしようなどというのは無理だろうね」
なんとなんと、とレッド・アイがヘルマスターたちを仰いだ。
どさりと<冥王>は玉座に崩れ落ちるように座り込む。
「好きにせよと言ったのに……馬鹿者め」
小さく呟いた声がぼくの耳に届いた。それは独り言か、それとも目の前にいる見えない女性への言葉か。
「……この人が……わたしの探していた、人……」
ノエルはそっとヘルマスターの頭に手を伸ばす。しかしそれは当然のようにすり抜ける。
「わたしの……呪い……」
じっと手を見るノエルの影がヘルマスターに落ちる。
「どうして……わたしは彼に呪いをかけたの……」
その言葉に答える声はない。
せんせいも言うだけ言って引っ込んでしまった。まだ説明していないことだってあるのに。
(ぼくに説明しろっていうの)
その通りとせんせいが笑った気がした。
ぼくは息を吐いて、もう一度玉座の二人を見上げる。
「呪いだけじゃないよ」
え、とノエルが目を瞬いた。
「ノエルから伸びているのは呪いの糸だけじゃない」
「そう、なの……?」
ノエルが不安そうに眉を下げる。
ぼくは頷く。
視線が集まっているのが肌で感じられて居心地が悪い。
「祝福。せんせいはそう呼んでた」
「祝福……?」
「相手のことを思う気持ちがマジナイとは逆の効果を生む……もの、かな。ぼくもよくわからない。それを受けた人を見ることは殆どないから」
祝福とは――呪いとは逆で、相手にいいことがあるようにと祈ることで発生する光属性にも似た魔法だとぼくは解釈している。しかしこれは魔法を使える人が簡単に扱えるものではなく、極限られた人しか使えないもの。例え相棒ほどの魔力を持った者だろうと扱えない、魔力量に関係なく、術行使者の属性にも関係なく、発生条件も不明な魔法に似たなにか。
どんなに大物だろうと、どんなに恵まれた人だろうと、どんなに愛された人だろうと、祝福を受けている人は滅多にいない。
その光をヘルマスターは持っている。強く呪いを見たからだろうか、呪いに隠れるようにしてこっそりと付加されたそれは彼の道行きを祈るもの。
術行使者は――ノエルで間違いない。
(以前よりも見る力が増しているから、見える)
ぼくの説明に誰かがほうと息を吐く。
「……どこまで馬鹿な女だ、貴様は」
ヘルマスターの苦しそうな声に、ノエルは眉を下げる。
もうよい、と王は手で顔を覆う。
「しばし独りにしろ」
は、と<五賢王>が返事をするのと同時にぼくたちの身体が粒子に変わる。また転移魔法か、今度はどこに飛ばされるのかと思ったが、瞬きの間にぼくたちは揃って玉座の間の大扉の前に立っていた。
「クロウェシア」
ミストヴェイルが少女を呼ぶ。クロウェシアははぁいと元気に返事をした。
「あなたの客人です。我が主が追い出さなかった以上、丁重にお迎えなさい」
「はーい」
クロウェシアが手を上げる。他の<五賢王>は呆れた顔でそれを見て、次々に姿を消す。
残ったのはぼく、男、ルイ、ティアナ、ギン、ホウリョク、シアリスカとクロウェシア――そして、ノエル。
「客室に案内するね」
「……客室とかあるんだ、ここ」
魔界なのに。
そう思いながらクロウェシアに案内されてぼくたちはぞろぞろと移動する。
ノエルだけは後ろ髪を引かれるのか、玉座の間を見ていた。
「追い出されなかったということは、また会ってくれるということよ、きっと。今はそっとしておきましょう」
ティアナがノエルの背を押す。ノエルは小さく頷くと、ぼくたちの後ろをついてきた。
ぼくも一度だけ玉座の間の大扉を眺める。
中からの音は拾えなかった。
+
「生きて……いたのか……」
ヘルマスターは息を吐きだす。深く座った玉座から高い天井を見上げる。
ノエルとヘルマスターが出会ったのはもうどれほど前のことだろうか。もう数百年は昔のことだろう。いや、千年は前だっただろうか。
時間などどうでもいい、とヘルマスターは首を振る。
ノエルの存在を知ったのは、先代――初代魔族の王を屈服させ新たなる王として族長として立ったころ。
ヘルマスターには相手の能力を奪う力があった。
先代の目を奪い、その力と記憶でヘルマスターは管理者という存在を知った。
そしてその管理者が作った娘という存在。興味を持った。今思えば、どうして管理者自身ではなく、その娘に興味を持ったのかはわからない。
ヘルマスターは部下に娘の片方を連れてくるように命じた。そうして連れてこられたのがノエル。そんな出会いだった。
我ながらなんとも言えない出会いだ。
そんな出会いにも関わらず、ノエルはどうしてだかヘルマスターを慕ってくれていた。最初は懐かない猫のようだったくせに、いつしか雛のようにヘルマスターのあとをついて回っていた時期もあったほどに。
ヘルマスターもそれを愛いと思った。一度興味を持ったはずの管理者のことを放っておく程度には。
だが、ある日突然そんな日々が終わった。
ノエルがどこを探してもいなかった。
名を呼んでも出てこない。探しても見当たらない。気配を探ってもどこにも存在しない。
あのときほど肝が冷えた覚えはない。
残されていたのはノエルのものとして用意してやった部屋の机の上に紙が一枚。
――さよなら
たったの四文字。その端が濡れていたのを見て、ヘルマスターは愕然とした。
なにが起こった。
部屋は荒らされていない。
けれど拭い去ったようにノエルの痕跡というもの全てが消えていた。
(消えた……いや、消された?)
管理者に。
そう思った。
強く感じたことのない淀みが胸の中に現れた。それがなんというものなのか、どうやって下すものなのか、ヘルマスターは知らない。
それから数百だか千だかのときが過ぎた。
「まさか、今頃になってあの存在を見ることになるとは」
管理者、そしてそのもう一人の娘。
「消されたわけではなかったのか……」
後ろに倒れ込むと、後頭部をごつんと玉座にぶつけた。
(何故、我に呪いをかけた)
(何故、我を忘れた)
(何故、我を探した)
(何故、我のもとから去った)
彼女が忘れている以上、その答えを持っているものはいない。
――貴様の好きにするがいい。我は貴様を縛り付ける鎖ではないのだ。
そう言った。
そう伝えた。
なのに、彼女はヘルマスターを忘れ、自身を見えず触れられず声すら聞かせぬよう呪いをかけた。
わからない。
「なのに、ずっと探していた……だと」
ちぐはぐにもほどがある。
「馬鹿者め」
小さくこぼれた言葉は雷鳴にかき消される。
ヘルマスターは片手で顔を覆う。
「……馬鹿者め」
馬鹿は己だ。勝手に消されたと思って探しもしなかったのだから。
(けれど、片時も忘れたことなどあるものか)
共に時間を過ごした期間は短かった。その間、ヘルマスターがノエルに触れたことはない。触れてくるのはいつも彼女からだった。
子どものじゃれ合いのように触れる細い指。それを感じるたび、思い出すたびに胸の奥がじわりと熱を持った。
その感情の名を、ヘルマスターは未だに知らない。
まさか魔界で一泊する日が来るとは。