32 逃走の果てに 1/2
ぼく――アーティアは熱いシャワーを浴びてゆっくり湯に浸かった。それだけでも十分すぎるくらい満足しているのに、ベッドまでふかふかで。
朝起きれば真新しい服まで用意されていた。昨晩、コウ・アマネ・エーゼルジュがぼくの好みを聞いていたから、用意したのはコウだろうか?
(……その割に、これ……スカートなんだよなぁ)
シンプルなのが救いなだけで、淡い色のワンピースだ。紺色のカーディガンと膝丈のスカートに合わせた真っ白な靴下と合わせて可愛らしいことこの上ない。
「こんなの、ぼくに似合うわけないのに」
言いながらも袖を通す。これしかないので選択肢がない。
着替えて鏡の前に立つと、途端に羞恥心が湧いてきた。無理だ。
髪もまだ梳かしてないとかそんなことどうでもいい、誰かにこっそり言って替えの服を用意してもらわないと……と思ったところで部屋の扉が叩かれ、コウが顔を出した。
「おっはよー。あ、似合うじゃーん」
「おはようお願いだから替えの服を用意してほしい」
ええ、とコウは唇を尖らせる。
「せっかくなるべくフリフリ過ぎないけど可愛いのをヴァーンさまと用意したのにぃ」
そうか、ヴァーンも噛んでるのか。あとで盛大に文句を言わなければ。
コウは嫌がるぼくをほぼ力尽くで椅子に座らせると、櫛を取り出して白い髪を梳かしだす。
「ティアちゃんの髪、綺麗だよね。ちゃんと手入れしてるんだねぇ」
「……」
ここで暴れると痛いのはぼくの頭なので、大人しくなされるがままになった。
「旅しながら長い髪を手入れするのって大変でしょ。あたしはどうしても面倒で、短くしてるんだけど」
「……お、かあさん、が、昔よく、ぼくの髪を褒めてくれてたんだ」
今はもう、当時褒めてくれた色ではないけれど。
コウはふふと笑って、赤い髪紐で左上の方にリボンを作った。後ろ髪は下ろしたままだ。
「それは大切にしたくなるね。よし、でーきた」
鏡で見せられたぼくは苦い表情をしたまま。表情さえ見なければどこにでもいそうなお嬢さんといった格好だ。
コウは強めにぼくの手を握る。
「じゃ、ヴァーンさまたちに見せに行こっか☆」
「えっ、ちょ、い、嫌だ……!」
「まぁまぁ、そう言わずにー」
「いーやーだー!」
全力で抵抗しようと思ったのに、身体能力弱化魔法を重ね掛けされた。神族の魔力の無駄遣い……!
「あああああ……」
「大丈夫、大丈夫。似合ってて可愛いよ」
廊下をずるずると引き摺られているぼくを通りがかる人たちが見ているが、それよりもよく見知った人たちに見られるのが辛い。
しかしそんなぼくの心中など知ったことかとヴァーンの執務室は近付いていく。
ノックしたという建前が欲しいだけの適当なコウの動作で大きな扉が開く。
白くてなにもない部屋にあるデスクにヴァーンが齧りついている。忙しそうだ。
「忙しそうだから出直して……」
「ヴァーンさま、ティアちゃん連れてきたよ~」
コウの声でヴァーンが顔を上げる。横に控えていたラセツ・エーゼルジュや冷やかしに来ていたヤシャやシュラもこちらを見た。
「おお、随分と可愛くなったな」
ヴァーンの表情がぱっと明るくなる。
「服が変わると気分も変わるとコウとラセツが言っていたからな。どうだ、気持ちも軽くなったか」
「別の意味で気が重いよ。なんでワンピースなの……」
「可愛いと思ったから」
率直な意見ありがとうございます求めてない。
ヴァーンがちらりとヤシャたちを見た。
「おまえもそう思わないか」
ヤシャたちではない。もう一人、小さくなるようにしてそこに立っていたのは――、
「ヴァ……ル……」
「ティア」
赤銅の髪と目、暗い色のローブと外套。見違えるはずもない、相棒――ヴァーレンハイトがそこに立っていた。
ヤシャとシュラが左右にずれ、男が一歩こちらに近付いた。
ぼくは咄嗟にコウの手を振り払って後退する。
「探したんだぞ、ティア」
「なん、で……」
はっとヤシャを見る。彼は肩をすくめて見せた。
(やられた――っ)
踵を返して扉を開く。少々重たかったが、壊れる前に開いた。
男が背後でなにか言っているが知ったことか。
せんせいがくつくつと笑っているのも知らない。
ぼくは思うように動かない身体と慣れない恰好のまま全力で廊下を走る。丸みを帯びた可愛らしさ重視のシューズで何度か転びそうになったが、咄嗟に目についた部屋に飛び込んだ。
薄暗い部屋には大量の書架。資料室のようだ。
はぁと息を吐いて呼吸を整える。
「なんで……ヴァルが……」
探したと言っていた。確かにいきなりいなくなったら探すか。衝動で行動するのはよくないな、と反省する。
(でも、なにも神界まで来なくても……)
しばらくここに籠城してからどこかで服を替えて……先ほどの様子を見るに、味方がいないことに気付いた。
コウだって、わかっていてこの格好にしたのだろう。慣れない恰好に弱化魔法。逃げることすら計算の内なのか。
弱化魔法の効果が消えるのを待つしかない。効果が切れたら窓から出て壁伝いに部屋に戻るのも手かもしれない。いくつか窓と扉が犠牲になるが、ヴァーンには涙を呑んでもらうことにしよう。
いつもなら面白がるせんせいの姿が見えないことに気を配るべきだった。
カチャリと小さな音がして、扉が開く。
「見ーつーけーたー」
「ひえっ」
長い腕がぼくの腕を掴んだ。
赤銅の目には探索の魔術陣。
「もう逃げるなよ、ティア」
するりと大きな身体を室内に滑り込ませた男はぼくの腕を引いた。
その背後で扉が閉まる。薄暗い部屋では男がどんな表情をしているのかわからなかった。
声はいつも通り平坦で、感情が読み取れない。
(こわい……)
この男にそんな感情を抱くのは初めてだ。掴まれていない右手でスカートの裾を思わず握る。
「ティア、なんで逃げたんだよ」
「……」
なんで。
なんでと言われても、答えられない。だって、それを答えるには男とその幼馴染のことを話さないといけない。いや、いつかは話さないととは思っている。
腕を振っても、男の手は離れてくれなかった。
「は、放して……」
「やだ。放したらまた逃げるだろ」
今のぼくでは全力で抵抗しても男には敵わないと思った。それでも抵抗すると、男はぼくの腕を引っ張って懐に抱え込む。
正面から抱きすくめられる形になって、ぼくは息を飲んだ。
「ティア、お願いだから落ち着いて」
「だったら放して……」
「放したらティア、逃げるだろ」
ぎゅうと力を入れられる。顔を胸に押し付けられて抵抗すら出来ない。
「……なんで。なんで逃げたんだよ。おれ、なにかしたか」
「――っ、ヴァルは、悪く、ない……」
そう、男はなにも悪くないのだ。
悪いのは、ぼく。
全部、全部ぼくが悪いのだ。
ふぅと男が息を吐く。
「……もしかして、十五年前のこと、思い出した?」
ひゅっと喉が鳴った。
十五年前。年数までは覚えていないが、男の年齢を考えるとそのくらいのころのはずだ。
身体が震える。
ああ、と男が嘆息した。
「は、放して、よ……っ。ぼく……ぼくは、ヴァルを……ヴァルの大切な友達を……っ」
「うん、気付いてた」
「っ」
気付いていた? なにを言っているのかわからなくて、ぼくは抵抗を止める。
「気付い、て……? じゃあ、なんで今まで……」
気付いていたならどうして今まで一緒にいたんだ。この男はなにを考えている?
ふと、以前した会話を思い出した。
――復讐したいって言ったら、ティアは止める?
とくんと心臓が大きく跳ねた。
(ああ、でも……それでヴァルの気が済むなら……)
身体から力が抜けていく。それもいいかと思った。
「いつから、気付いてたの」
「闇魔法族の集落で治療受けたとき。ティアの右腕を見て、もしかしてって」
「……」
「やっぱり、思い出したんだ」
男の声からは怒りも悲しみも恨みも憎しみも、なにも感じられない。
「思い出したって……忘れてることも、気付いてたの」
うん、と男が頷いた。
「なんとなく、だけど。あと、ティアはおれがあのときの少年兵だって気付いたらなにかしら反応があると思ったけど、なにもなかったから」
「……」
「まぁ、普通、殺し損ねたガキが目の前にいたらもう一度ちゃんと殺すか、復讐恐れて逃げ出すかなと思うけど、ティアはどっちもしないし」
「……」
「もしかして、復讐されると思って逃げた?」
「……それは、考えてなかった……」
思い至ったのは今だ。そんなつもりで逃げたんじゃない。
そっかーと男は小さく笑った。
「ティア、覚えてないんだなと思ったし、それに、ティアは自分からあんなことするようなやつじゃないから」
「……は?」
なにを言っているのかわからない。
男を殺しかけ、幼馴染を殺したのはぼくだ。
なのに、あんなことをするようなやつじゃない、とはどういう意味だ。
「ぼくが、みんなを殺したんだよ」
「でも、ティアは自分の意思でやったんじゃないんだろ」
「意思なんて……」
「じゃあ、ティアはどうしてあんなことしたんだ」
どうして。
わからない。
自分が自分でないようで、でも自分でやったのはわかっている。思わず男のローブを握り締めた。
男がぼくの背中をぽんぽんと叩く。
「ほら、言えない。ティアの意思じゃないから」
「それは……」
「ティアのことだからわかってるよ、おれは。ティアは自分からあんなことするような人じゃない」
なにがわかるというのだろう。
男はくすりと笑う。
「わかるよ。だって、今までずっと一緒に旅して来たんだから。ティアがおれを見てくれていたように、おれもティアを見てたんだよ」
「……」
「ティアは、カオンを殺したこと、おれを殺しかけたことを悔いてるのか」
「ぼく、は……」
後悔なんて意味がない。だから悔いることはない。
ずっとそうして来たのに、ぼくは今、どうしようもなく悔いている。
二人を害したこと、あのとき二人と出会ってしまったこと、二年前に男と会って組んでしまったこと……ぼくたちは、出会わなければよかった、と。
「後悔してるんだな」
ぼくは自分が怖い。もしまた無意識で近くにいる人を殺してしまったら。
ぼくは男が怖い。嫌われたら、拒絶されたら、罵倒されたら。
世界にこんなに怖いものがあったのかとさえ思う。
男がぼくの背中を撫でる。
それだけで、怖いものが消えるような、余計に怖くなるような、不思議な心地だ。
「ティアが、いくら戦時中とはいえあんなことを進んで出来ると思わない」
なにか理由があったんだ、と男は言う。
理由。
どういう理由でぼくはそんなことをしたのか。
ぼくはなにかを邪魔されるのが嫌だった。なにか。
(なにかを、探していた……それを邪魔されるのが、嫌で?)
それは誰の思考か。
こくりと喉が上下する。
「おれはティアを信じてる。ティアがしたくてしたんじゃないんだって」
「でもっ、だからって許されることじゃ……っ」
男は首を振る。
「故意か過失かで、罪の大きさだって変わる」
「……理由があったら、ヴァルは自分を殺しかけたやつを許すっていうの」
「許すかどうかは理由次第じゃないかなぁ……いや、おれの場合、誰かを恨むのって疲れるからしたくないんだけどさ」
ぐうたらめ。
「おれはティアを信じてる」
男は繰り返す。
「だから、ティアもおれが信じてるティアを信じてあげてくれないか」
「ぼくを……信じる?」
「なにかがあったんだって。なにか理由があったんだって」
馬鹿じゃないのか、この男は。
ぼくはぎゅっと男のローブを掴む手に力を入れた。
そうしないと、目からなにかがこぼれてしまいそうだったから。
「……馬鹿じゃないの……お人好し」
はは、と男が笑った。背中に回った腕に更に力が加わる。
「ティアと一緒にまた旅が出来るなら、お人好しでも馬鹿でもいいよ。だからさ、戻ってきてくれないか」
「……ばか……」
ぼくの周りは馬鹿ばかりだ。どうして誰もぼくを罰しないんだ。
それが酷く苦しい。
(なのに、嬉しいとも思う)
目を閉じる。
男の心音が耳に響く。それがとても安心する。
目の奥が熱い。
「なんで……なんで、ヴァルはぼくを……」
言葉が詰まる。
ヴァルはまたぼくの背をぽんぽんと優しく叩いた。
熱い雫が頬を伝う。
「おれは一人じゃ生きていけないんだよ、ティア」
「……?」
「でも一緒にいるのは誰でもいいわけじゃない。おれだって、一緒にいたくない人くらいいるし」
誰でもいいのかと思ったが、違うのか。
「おれのことちゃんと扱えるのはティアが一番だと思うし、ティアの背中を守れるのはおれだけだと思ってる」
ぼくと似たようなことを考えているのだなと、なんだかおかしくなった。
「おれの隣はティアがいい。ティアの隣にいるのはおれがいい」
「っ」
「カオンはおれがティアを恨んだら、それこそ怒ると思うぞ。おまえが物語の復讐願望系主人公って柄か! って」
「……なんだそれ」
いや、まぁ、確かにこの男がそんな熱意のある主人公という柄ではないというのは同意出来るが。……ふざけているのか。
「いつだったか、復讐するって言ったら止めるかって聞いたじゃん」
ああ、と男は頷いた。
「ゼネラウス……養父を殺したのが、もしかしたら神族かもしれないと思い出したから言ってみたけど……そこまでの熱意がないなと思い直した」
「……どこまでやる気ないの」
「おれはもともと疲れるのとか頑張るのとか嫌いなんだよー。本当はのんびりと旅してたいだけだし」
だからさ、と男はぼくの肩を掴んで顔を見下ろした。みっともない顔をしているから見ないでほしい。
「最近なんだか面倒くさいことばっかり巻き込まれるだろ。そういうの全部解決してさ、前みたいに適当に町を巡って、依頼請けて、宿に泊まってご飯食べて、また次の町目指すような旅をしよう」
「解決……って……」
「族長さんに聞いてたんだ。ティアが時々おかしくなってたのは、きっとティアの父親――アライアって魔族のせいだって。それがなにをどうしたのかわかれば、ティアが意思に反して行動してしまうことを防げるかもしれない」
「おとう、さん……?」
うん、と男は頷いてみせた。
「ティアは悪くない」
「――っ」
男の目は真剣だった。真剣にぼくを見ている。
本当にそう思っているのがわかって、胸の辺りが苦しくなる。
「だから、もう逃げないでほしい」
頬が熱い。きっとぼくの顔は真っ赤になっているだろう。
「ぼく、は……」
ガタンッ、
室内で音がして、驚いて振り向く。
「あ……」
「ア」
四天王のロウ・アリシア・エーゼルジュとその部下ニアリー・ココ・イコールがお互いの手でお互いの口を塞いで立っていた。
「えっ」
「あー、その、すみません、邪魔して……」
「マァ、オレたちの方が先にここにいたんダガナ」
「ちょ、ロウさま!」
「……えっ」
つまり、見られていたということになる。
顔どころか耳や喉の下までが熱い。
はくはくと口を開くが言葉が出てこない。
じわりと目が潤むのを感じた。
「えーと……ティア?」
後ろで男が声をかけてくるが、それに反応することが出来ない。
ぼくは――、
「う、わああああああああああああああっ」
男を押し退けて資料室を飛び出した。
+
アーティアが顔を真っ赤にして走り去ったのを見送って、ヴァーレンハイトは頭を掻いた。
「逃げるなって言ったばっかなのに……」
ロウとニアリーは気まずそうに視線を逸らしている。
「……わざとではないんだよね?」
ヴァーレンハイトが振り向くと、ロウはこくりと頷き、ニアリーは小さく震えた。
押し退けられたときに尻餅をついてそのままだったヴァーレンハイトは立ち上がって服をはたく。少しだけ埃っぽかった。
「うーん、今度はどこに行ったんだろうな」
「住居棟にアーティアとオマエの部屋ガアル」
「なるほど」
礼を言って扉に手をかける――までもなく、開いていた。蝶番が外れ、無残にもドアノブが曲がっている。
「ああ、ティアのデバフが切れてる……。えーと、ロウさん? この扉、ティアが壊しちゃったみたいなんだけど」
「アア。あとで修理を申請しテオク」
「よろしくー」
ギィと耳障りな音を立てて斜めに曲がった扉板が揺れた。その間を通ってヴァーレンハイトは廊下に出る。
目に探索の魔術陣を展開、住居棟の方向を見ると、確かにアーティアの気配がした。
正面から呆れた様子のヤシャが向かってくるのが見える。ようと手を上げた彼は、半笑いでヴァーレンハイトを見た。
「なんかすげぇ勢いでティアが走っていったんだけど、話し合いは出来たのか」
「んー、途中かな。おれは言いたいこと全部伝えたつもりだけど」
「泣かせんなよ」
ぽんとヴァーレンハイトの肩を叩いて、ヤシャはどこぞへ去っていく。
(泣かせたいわけじゃないんだけど)
アーティアは強いが、まだ子どもで女の子だ。ヴァーレンハイトにとっては未知の生き物でもある。
住居棟へ歩きながら、今度はどうやって誘き出そうか考える。
「……やっぱもうすぐ昼時だし、餌で釣るべきか」
足を止めて首を捻る。
(デザートに松さんの抹茶スイーツつけてもらおう)
くるりと反転し、ヴァーレンハイトは食堂へ向かう。
その後、丸一日間アーティアは充てられた部屋に引き籠った。
めっちゃ逃げる。