28 出奔
本日(3/17)二つ目の更新。
あとちょっとしたケチャップと暴力表現あり……なのかな。
ふわふわと地に足がついていないような感覚でアーティアは目を覚ました。
いや、眠っている。
いつの間にかアーティアは自分が夢を見ているのだと気付いた。
自分がどこにいるのかわからない。
誰かの名前を呼ぼうとして、誰を呼ぼうとしたのかわからなくなった。
水の中にいるような、皮膚を撫でる感覚。聴覚が遠い。
真っ暗な中で、ほわりと光を見た気がしてアーティアはそちらに頭を向けた。
ああ、やはりこれは夢だ。
小さいころに死んだ――いや、アーティアが殺した母レノリィア・ロードフィールドが小さなアーティアを撫でているのが見えたから。
(お、母さん……)
こぽりと吐き出された声は彼女たちには届かない。だってこれは夢だから。
「アーティアちゃん、お外は怖いから、絶対におうちから出ては駄目よ」
レノリィアの優しさの中に狂気が混じった声。
彼女はアーティアが外に出て、人に見られることを嫌った。
「お外には可愛いアーティアちゃんを食べちゃうこわーいこわーいおばけがいるの。だからおうちから出ては駄目。絶対に。約束してね」
わかったと素直に頷く小さなアーティア。
今ならわかる。レノリィアは二つの種族の目を持つアーティアを誰にも知られたくなかった。誰かに見られて糾弾されるのが怖かった。
それで傷付くのが怖かったのか、真にアーティアのことを思ってなのかはわからないが。
アーティアにはもとからなのか、アーティアを産んで軋んでしまったのかわからない。
ある日、玄関の扉が開いているのを見て、アーティアはそっと外を眺めてみたくなった。窓に近付くことすら厭う母の目がこちらを向いていないことを確かめて、外に出た。
誰にも会わなければ大丈夫。
そんな幼い軽率さでアーティアは家を離れた。
姿が見えない幼い娘と小さく開いた扉。それを見た母はどれほどの恐怖を覚えただろう。
半狂乱でアーティアを探し出したレノリィアは泣きながらどうして、と娘を詰った。
「どうして……? どうしてママの言うことが聞けないの……?」
「おかあ、さん……くるしい、くる、しい、よ……」
ぎりりと絞められる首。
震える母の声。
ぼやけていく視界。
どうして、とそればかりの母の声が遠のいていく。
ああ、死ぬんだなと幼いながらにアーティアは全てを諦めた。
なのに。
ぱたぱたと顔にかかる熱いもの。
力が抜けていく母の手。
どさりとなにか大きなものが地面を叩く音。
急に呼吸が出来るようになって、アーティアは咳き込みながら目を開いた。
なにか熱いものを握っていることに気付いた。
徐々に動きを緩めていく真っ赤なそれを、驚いて投げ捨てる。
とくん、とくん、まだかすかに動いている心臓だった。
一体、誰の……そんなの、探すまでもなかった。
「おかあ、さん?」
横に倒れる母の姿。胸が真っ赤に染まっている。止まらない血。
「おかあさん!」
どうして。
アーティアは泣きながら母に縋りつく。まだ温かいのに、どうしようもなくモノでしかなくなった身体。
「おか……さん……」
殺した。
自分が?
他に誰がいるというのだ。
小さなアーティアは呆然と真っ赤に染まった自分の手を見る。
どれほどの時間、そうしていただろう。
足音が聞こえて、幼いアーティアは顔を上げた。男が立っている。
はくりと小さな唇が動く。
「おとう、さん」
会ったこともない人だが、一目でそれが父アライアだと気付いた。どうして気付いたのかは今のアーティアですらわからない。
けれど、その細められた金色の目、風になびく血のような髪、気怠そうな顔は父でしかないと思った。
自分と似通った部分があったわけでもない。ただ、なんとなくそう気付いた。
アライアは幼いアーティアと横たわるレノリィアを見て、ふんと鼻を鳴らす。
「なんだ、おまえは死ななかったのか」
「……おとう、さん?」
なにを言っているのかわからない。どういう意味なのかわからない。
アライアはくくと笑うと、「失敗作か」とアーティアを見下ろした。
場面が変わる。
家が燃えていた。
父が火を着けたのだ。
中に母を横たわらせて。
「おかあ、さん」
幼いアーティアは手を伸ばすが、笑うアライアに腕を取られて家には近付けない。
「絶望が足りないか。それとも本当に失敗作だったか」
ぶつぶつと呟くアライアは、冷たい目でアーティアを見るばかりだ。
呆然としたままの娘の右腕を取り、袖をまくる。右手の甲に青い石が嵌っており、そこから腕の方へ青い血管が刺青のように伸びていた。
「なかなか上手くいかないものだな」
アライアは肩を落とし、残念そうに息を吐いた。
そして花でも摘むかのように娘の小さな手を手首から捩じ切る。
「あああぁぁぁあぁぁあああっ」
「うるさいな」
悲鳴を上げるアーティアを殴りつけ、男は捥ぎ取った小さな手首からそっと青い石を外した。
「手は返してやるよ」
放り投げられた手首から先を見ながら、小さなアーティアは気を失う。
場面が変わる。
幼いアーティアは膝を抱えて檻の中に蹲っていた。
アライアに二束三文で売られたのだ。これからアーティアは知らない大人に買われていく。
気を失う前になくなったはずの右手首から先は当然のようにそこにあった。
時々、意識が混濁する。
「せんせい」が近くにいてくれるから、アーティアは一人ではなかった。
それだけが救いだ。
小さなアーティアの頭はいつの間にか真っ白になっている。
母と同じ、綺麗な黒髪だったのに。
けれどもうその母が寝る前に髪を梳いてくれることはない。
それを思い知ってアーティアはほろりと涙を流した。
場面が変わる。
見たくない。アーティアは目を瞑ろうとした。でも、出来ない。
泣き喚く声、罵声、叩く音、蹴られる音、叩きつけられる音。
真っ暗な部屋、白いシーツ、散る赤、知らない天井、流れる涙、痛む頬。
また場面が変わる。
アーティアは知らない場所にいた。
ふらふらと歩いている。記憶が朧気だ。
「せんせい」
呼びかけても答えてくれない。
自分が誰だかよくわからない。
違う、そうじゃない。
探さないと。
身体を。
取り戻さないと。
ふらふらとした足取りでアーティアは薄暗い場所を歩いている。森だろうか。遠くに海が見える。山の上?
わからない。
でも、どうでもいい。
右腕がずきずきと痛む。いや、脈動しているのだ。青黒い刺青はいつの間にか肩まで到達していた。きっともう少ししたら心臓まで届くだろう。
ふふと■■■■■は笑った。
■■■■■が歩いているとあちこちから邪魔をしようとする者たちが顔を出す。
「……邪魔、だなぁ」
頭を引き千切り、腕を噛み千切り、腹を破裂させ、足を踏み潰す。
うるさい声を上げてそいつらは絶命した。
■■■■■はそれを投げ捨て、またふらふらと歩きだす。
同じ年ごろの子どもが二人、こちらへ歩いてきた。一人は怪我をしているらしく、もう一人に支えられてゆっくりと歩いている。
「じゃま、だナあ」
周りにもまだ、隠れている者たちがいる。
■■■■■は金色の双眸を光らせた。
暗闇に潜んでいた兵士たちの脳が、心臓が、目玉が弾ける。
魔法陣が展開し、全ての兵たちを捕捉した。
悲鳴が上がる。
うるさい。
死にたくないという懇願。
うるさい。
「じゃマ……ダなぁ」
目の前の子どもが肩を貸していた少年を庇って前に出る。
「カオン!」
少年が叫ぶ。
うるさい。
飛び出した子どもは少年を見て、笑う。
「ヴァル……おまえは、生きろよ……」
どさりと崩れ落ちる子どもの身体。
泣き叫ぶ少年。
うるさい。
■■■■■が少年の頭に手を伸ばす。
ぱっと少年が顔を上げて魔術陣を展開。それを避けた■■■■■は笑って右手を少年の心臓に突き立てた。
ぼたぼたと少年の血が■■■■■の顔にかかる。
憎しみと悔しさが滲む目が■■■■■を見ている。
力尽きる寸前、少年の魔術陣が一瞬で展開し魔力が解放。炎の矢と槍が■■■■■の全身を抉った。
ずるりと右腕が少年の胸から引き摺り出される。新たな血を流しながら少年は地面に落ちた。
■■■■■は悲鳴を上げて身体中に刺さる実体のない矢や槍を抜こうとするが、上手くいかない。
許さない。許さない。許さない。
■■■■■は言葉にならない呪詛を吐き出しながらふらふらと崖から落ちていった。
やがて人がやってきて、倒れた少年や兵士たちを回収していく。
アーティアはそれを呆然と見届けて、崖の下を覗き込んだ。
荒い波が岩肌に打ち付けており、■■■■■の姿は見えない。
■■■■■? 違う。
あれは――
「あれは、ぼくだ……ぼくが、」
ではここは北部か。
海に落ちた■■■■■――いや、アーティアは波に流され、とある浜辺に流れ着いた。
一部の記憶を失い、右腕に消えない傷を残して。
世界が真っ黒になった。
そこでアーティアは頭を抱える。
「ああ……」
アーティアが殺したのだ。ヴァーレンハイトを、ヴァーレンハイトの幼馴染を。
いや、ヴァーレンハイトは生きている。
どういうことだろうか。
いいや、そんなことはどうでもいい。
じわりと涙が目尻に溜まるが、泣きたいのはアーティアではない。
アーティアに泣く資格はない。
唇を噛み締めてそれを堪える。
アーティアの前に人が現れる。
黒髪で、儚い笑みを浮かべたレノリィア。
「どうしてママを殺したの?」
薄茶の髪をした少年、カオン。
「オレたちがなにしたっていうんだよ」
砂色の髪を靡かせた亜竜族の少女、ルキ。
「どうして、助けてくれなかったの?」
口々にアーティアを詰る。
ひゅうと喉が鳴った。言葉が出ない。
どうして。
どうして。
どうして。
全部全部、アーティアのせいだ。
アーティアは耳を塞いで蹲る。それでも声は止まらない。
「どうして逃げるの」
「おまえのせいなのに」
「逃げられるはずがないのに」
違う。違う。
なにが違うの。
「――だって、おかあさんは、ルキはそんなこと言わないッ」
「じゃあ、ヴァーレンハイトは?」
びくりとアーティアの身体が硬直する。
ヴァーレンハイトは?
母の姿をした偽物の影が口角を上げて微笑む。
ヴァーレンハイトは?
赤銅の髪をした、少年兵の姿。魔術師兵のローブに身を包んだ、倒れた影。
それが起き上がって、高い身長に黒っぽいローブ姿の見知った形に変わっていく。
「カオンを殺したの、おまえだったのか」
知らない、冷たい目がアーティアを見下ろす。
(嫌だ。その目は嫌だ……っ)
上手く呼吸が出来ない。
アーティアは喉を掻き毟る。ごぼりと口から泡がこぼれた。
いつの間にか海の中にいる。
溺れる。
アーティアは藻掻く。
光が見える先を目指して藻掻く。
ごぼり。肺から空気がこぼれる。
手を伸ばす。
伸ばした手が光を掴んで――アーティアは目を覚ました。
+
唐突にぼく――アーティアは深いところから引き戻された。
夢を見ていた。
夢だ。
ただの夢ではなく、現実の繰り返し。
頬を伝うものなんて、なにかの間違いだ。
だって、ぼくに泣く理由も、資格もないのだから。
いつの間にか日は落ちて、部屋は真っ暗になっていた。
「ぼくは……どうして……」
ああ、違う。そうだ、ぼくは男――ヴァーレンハイトの胸の痣を見て全部思い出したんだ。その記憶に耐え切れず、気を失ったのか。
我ながら情けない。
ぼくは首を振ってベッドを降りた。
隣のベッドは未だ空白。それほど時間は経っていないのだろうか。
ぼくは音を立てないように静かに身支度を整えた。汗をかいたらしく、服が張り付いて気持ち悪いが仕方ない。
大剣を背負い、荷物を抱える。
誰かが部屋に近付いてくる気配がして、急いで窓を開けた。
「行くのかね」
そっとせんせいが声を押し殺してぼくに尋ねる。
ぼくは小さく頷いて、窓枠に足をかけた。
「だって、もうヴァルと一緒にはいられない」
過去に起こしたこと。
そして、またいつああして全てを壊してしまうかわからないから。
桟を蹴る。
ぼくは夜闇に身を躍らせた。
+
クロウェシアと特に美味しくもない夕食を済ませたヴァーレンハイトは足音を抑えて部屋に戻ってきた。
手には水差しとサンドイッチの入った袋。
相棒は起きただろうか。
まだ起きていないといい。起きたときに一人だと、きっと寂しいから。
クロウェシアに頼んで二人部屋の扉を叩いて開けてもらう。
暗い室内はしんとしていた。
嫌な予感がする。
「あれ、アーティア?」
クロウェシアが首を傾げる。
ヴァーレンハイトは目を見開いて、持っていた水差しと袋を落とした。
「――ティア?」
ひゅうと喉が鳴る。
ばたばたと風で遮光幕が揺れている。
その手前のベッドは誰かが起き上がったあとのようだ。
駆け寄ってシーツに触れる。窓が開いていたせいか、もう熱は失われていた。
「ヴァルちん、アーティアの荷物がないよ」
さっと血の気が引く。
攫われたのではない。自ら出ていったのだと気付いて、ヴァーレンハイトは息を飲んだ。
「なんで……」
予兆はなかったはずだ。ヴァーレンハイトが見逃していた?
いいや。倒れるまでのアーティアに一人出ていく理由はなかった。
(なら、倒れてからだ)
なんの理由で?
考えてもヴァーレンハイトにはわからなかった。
(考えてる暇があったら、探さないと――)
身を翻して部屋を飛び出す。
その背中にクロウェシアが呼びかけたのが聞こえたが、それどころではなかった。
小さな背に大きな剣を背負った姿など、人目を引くに決まっている。それにアーティアは白髪だ。暗くてもぼんやりとわかりやすいはずだ。
それなのに、一晩中町を駆け回っても見つからない。誰に聞いても見ていないという声。そもそも人通りのない時間帯になっていた。
流れる汗を拭いもせず、ヴァーレンハイトは一晩中探して回った。
(もう町を出ていた?)
だとしても、そのための準備が必要なはずなのに。
明日の朝買い出しに行こうと宿を探しながら話していた。ヴァーレンハイトの荷物の中に食料や消耗品はもうない。アーティアも同じはずだ。
この町を出たら、また数日歩かないと人里はない。
遠見、鷹の目の魔術を展開してもどこにも見知った姿は見えなかった。
遠くから朝日が顔を出すのが見える。
膝をついたヴァーレンハイトの顔を、どこにいたのかクロウェシアが見下ろしていた。
「大丈夫、ヴァルちん?」
クロウェシアも眉を下げている。
ヴァーレンハイトはそれを見上げて乾いた唇を噛んだ。
「アーティアって転移魔法使える?」
首を横に振る。
そもそもアーティアは魔力量の割に魔法が使えないと言っていた。ヴァーレンハイトも一度も見たことがない。
彼女の魔力は無意識の領域で身体強化に使われているらしいと聞いたことはあるが、魔力を可視化出来ないヴァーレンハイトにはわからないことだ。
魔術師は基本的に自分の魔力しか把握出来ない者である。では魔法使いはというと、魔力感知能力を持っているかどうかにかかっているとしか言えない。
「ヴァルちん、一回宿に戻ろう」
ヴァーレンハイトは再度首を振る。
クロウェシアは動こうとしないヴァーレンハイトの腕を引っ張った。
「ねぇ、宿に戻ろうよ」
「ひと、りで、も、ってて……」
掠れた声が出た。無理もない。一晩中、休みもせずに走っていたのだから。
もう、とクロウェシアは腰に手を当てて頬を膨らませた。
「ちょっとは頭冷やした方がいいよ、ヴァルちん!」
はっと我に返る。
ヤシャにも何度も言われた言葉だ。
狭かった視界が開けるような心地になって、ヴァーレンハイトは目を瞬いた。クロウェシアを見上げて、はぁと息を吐く。
そうだ、なにを焦っているんだ。なんの手掛かりもないところで闇雲に走ったって、疲れるだけだというのに。
ヴァーレンハイトは頭を抱える。
(ほんっと、おれって成長しない……)
いや、もうすぐ三十路の人間族に成長を期待されても困るのだが。そして今求めているのはそういう成長ではないと自分で自分にツッコミを入れる。
もう一度、大きく息を吐いてヴァーレンハイトは立ち上がった。
汗がぼたぼたと垂れてくるのが鬱陶しかった。
「宿、戻る?」
クロウェシアがヴァーレンハイトを見上げる。
うん、と小さく首肯した。
「ありがとう、ちょっと落ち着いた」
「今更だけどね」
「はは……」
それを言われるときつい。
(考え直そう)
どうしてアーティアが黙って出ていったのか。
ヴァーレンハイトたちの前から姿を消したのか。
ヴァーレンハイトはクロウェシアに手を引かれながら、人々が起きだした町の中に戻っていった。