26 一方そのころ 2/2
どれくらい歩いただろう。
ホウリョク・メルヤたち一行とノエル、そしてシロは森の奥へ奥へと潜っていた。
青黒く光る苔が不気味に光って足元を照らしている。
だんだんと気温も下がっている。はぁと吐く息が白い。真冬のようだ。
「ゆゆゆ指先の感覚がねーです……」
「ととと冬眠したいわ……」
「おかしいわね……この森はこんなに大きくないはずなのに……」
東部にほど近いこの地域は気候も安定していて冬もそれほど酷い寒さにならないはずだ。けれど今の気温はおそらく氷点下。
ルイも険しい顔をして進もうとする先を睨んだ。
「どうする、一度戻るのも手だぜ」
「くろいの……このさきにいるならきっとさみしい……」
「寂しさよりも寒さが深刻ですよ」
ルイの言葉にギン・カヨウが首を振る。
「いや、このまま進む。一度帰ったらもう行きたないやん」
どういう理由だ。
あと負けた気がするとも呟く。
誰と戦っているのだ。
ルイは肩をすくめて再び森の奥を見た。
苔が光っている以外は真っ暗で、足元すら危うい。それなのに一行の誰も転んだり躓いたりはしなかった。まるで誰かが導いているかのように。
ノエルは眠たそうに目をこすっている。
「ノエル、流石に今寝たら死にやがりますよ」
「ふわぁい……」
ホウリョクはノエルの手を引いてやる。少しだけ手が温かくなる。
「くろいの……」
「泣いちゃ駄目よ。おめめまで凍っちゃうんだから」
ティアナ・ウィンディガムの声で、シロはすんと鼻をすすった。
歩いても歩いても森の反対側に出ない。それどころかどんどん深くなっていく。どうなっているのだろう。
風がないのが救いだ。風があったらホウリョクたちはとっくに足を止めて倒れていただろう。
不意に森の奥が光った気がした。
「……?」
目を凝らす。
誰かが蹲っているようだった。その蹲る誰かが光るなにかを握っている。
「くろいの!」
ぱっとシロが走り出す。ギンは慌てて繋いだ手を引いてシロを抱え込んだ。
「くろいの! くろいのがいるの!」
「ちょい待ち! なんや様子がおかしい」
ギンが制止するのを聞いて、シロが泣きそうな顔で見上げる。
真っ黒な木々が邪魔だ。ホウリョクはその影にもこちらにも倒れないよう角度に気を付けて左右で邪魔な木を殴り倒した。
そこにあったのは小さな家のような祠。ホウリョクの背より低く、シロよりは大きい朽ちかけたそれの前にシロと同じくらいの子どもが蹲っていた。
短い髪は黒く、褐色の肌に黒のシャツとパンツ。ゆっくりと上げた顔の額の右側に黒い角が生えているのが見える。目は当然のように黒。
その黒くて丸い目からぽろぽろと透明な涙がこぼれ落ちている。
「くろいの!」
シロが叫ぶ。
「……しろいの……?」
少年だか少女だかわからない声がシロを呼んだ。
「……きちゃ、だめ……しろいの、だめだよ……」
ふるふるとくろいのと呼ばれた子どもは首を横に振る。
「どうして」
「だめ……きちゃ、だめ……」
真っ黒な子どもはそれだけを繰り返す。
拒絶するように子どもの方から強い風が吹いた。雪はないが吹雪のように当たる肌が痛い。
この寒さはこの子どもが原因なのだろうか。
風に押されて後退しそうになるのを足で踏ん張って耐える。ざり、と地面が小さく抉れた。
す、とギンが横にずれてホウリョクの前に立ちはだかる。風が直接当たらなくなったおかげでホウリョクはほうと息を吐いた。
チカ、と子どもの手の中でなにかが光る。
(なにを持ってるんです……?)
ここからでは見えない。
祠がミシリと音を立てた。
くろいの、とシロが小さく呼ぶ。泣き出しそうな声だった。
その頭をふわりと撫でる優しい手――ノエルだ。
ホウリョクの手を離し、するりとギンよりも前に歩み出る。
「ノエル……?」
「大丈夫」
にこりと肩口に笑って見せたノエルは、子どもにそっと近付いていく。
そして子どもの隣にしゃがみ込んで、子どもの頭を撫でた。
「よく一人で頑張ったね……もう、大丈夫よ」
酷い風が耳を打つのに、どうしてだか彼女の声はするりと耳に入ってきた。
ホウリョクは目を瞬かせる。
風が少しだけ弱まった気がした。
ノエルは子どもの頭を撫でながら、そっと子どもが握り締める両手に手を伸ばした。
「あ……」
大丈夫、とノエルの桃色の唇が動く。
子どもの手が開く。そこには青黒い苔よりも不気味な光を放つ青い石が皮膚に吸い付くようにして脈打っていた。
「ぅえっ」
「なんですか、あれ……」
思わず声を上げる。
それは細い血管のようなものを伸ばし、子どもの手にくっついているように見えた。
生理的嫌悪を抱くに十分すぎるそれは生きているかのように鼓動する。
気持ち悪い。
青い血管は子どもの肘まで到達している。あれが全身に回ったらどうなるのだろう。ぞっと背筋に冷たいものが通った。
「大丈夫、大丈夫……」
ノエルの手が子どもの腕を撫でる。
「えっ」
不思議なことに、ゆっくりとだが青い血管が徐々に消えていった。いや、掌に後退していっているのだ。
青い石は嫌そうに明滅する。
「ルイ」
ノエルがそっとルイを呼んだ。呼ばれたルイは目を瞬かせている。
「これ以上は、わたしでも無理みたい……」
「……どうしたらいい」
きって、とノエルの唇が動いた。
「両手……手首から切らないと、無理みたい」
ノエルが眉を下げる。
子どもはぽろぽろとこぼれる涙をそのままにルイを見上げた。
「……おにいちゃん、たすけて……」
どくん、どくん、青い石が脈打っている。
ルイは短く息を吐くと、大剣を下した。
ティアナが荷物から布を取り出し、子どもの口に噛ませる。
「うえぇ……マジですか……」
ギンはシロの視界を塞ぐように抱え込んだ。しかしそれを嫌がって、シロは子どもから視線を逸らさない。
「いくぞ」
間髪入れずに森に響く肉を断つ音。聞き慣れた音のはずなのに、酷く耳障りだと思った。
風が止む。
いつの間にか、寒さを感じなくなっていた。
どくどくと子どもの両手首から血が滴る。ティアナが素早く腕を縛り止血、すぐに新しい布を巻いて手当てした。
ほうとノエルは胸を撫で下ろす。
「頑張った。えらい、えらい」
「くろいの!」
ギンの腕からぱっとシロが飛び出した。今度はギンも止めない。
シロは座り込む子どもを抱きかかえてわんわんと泣きだす。
「しろいの……」
手首から先がない腕で子どもはシロを抱きしめ返した。
落とされた子どもの掌に吸い付く青い石は徐々に輝きを失って、脈動も止めている。
そっとギンの後ろからホウリョクもそれを見下ろした。
ノエルが手を伸ばしてそれを拾う。ぎょっとしてホウリョクは目を見開いた。
「ちょ、危なくないです?」
ノエルはちらりとホウリョクを見て、大丈夫と笑った。
手首ごと拾ったそれにノエルがふうと息を吹きかけると、青い血管がぽろぽろとこぼれ消えていく。あとには掌の上に乗るただの青い石がそこにあった。
ノエルはそれをそっと摘まんでまじまじと眺める。
「どうしてこれがここにあるのかしら……」
こてんと首を傾げるノエル。彼女はポケットからはんかちを取り出して丁寧に青い石を包んで仕舞った。
ホウリョクはギンの背後から出てきてそれを覗き込んだ。
「それ、なんなんです?」
「これ……ととさまが使った石……」
ととさま、とホウリョクは繰り返す。ノエルはこくりと頷いた。
「よくないものを、これに入れてた……どうしてこれがここにあるのかしら……」
よくないものとはなんだろう。
まぁ、見るからになにかよくないものだろうとは思ったが。
「あれは、触ってはいけないもの……」
「ノエルは大丈夫じゃねーですか」
「わたしは……平気。ととさまが作ったから」
「?」
ホウリョクは首を傾げる。
ノエルは眠たそうに目をしょぼしょぼとさせた。
持ったままの手首を子どもに差し出す。
子どもはそれを受け取ると、シロに目配せをしてティアナが巻いた布を剥ぎ取った。
「どうした」
ルイが目を瞬く。
その間にシロは子どもの手を傷口に合わせた。ぱっと光が散って、ホウリョクたちは目を瞑る。
目を開けると、右手をもとのように開閉する子どもの姿があった。
「えっ」
ホウリョクが目を瞬く間に、左手も同じようにしてくっつけてしまう。
傷があったあとすら見えず、その手はもと通りだ。
シロが喜んでその手を握る。子どもも嬉しそうに笑った。
シロはぱっとギンを振り返り微笑む。
「くろいの、なまえ!」
「あん?」
「シロとおなじように、くろいのにもなまえ!」
ああ、とギンは頷く。
「クロ」
黒いからか。
クロと呼ばれた子どもがぱっと笑顔を咲かせる。
「シロ!」
「クロ!」
二人は嬉しそうに両手を握り合わせてくるくると回った。
そろそろ目が回るのでは、と思ったころに二人は止まってホウリョクたちを見る。
「おにいちゃん、おねえちゃん」
「ありがとう」
ざあっと風が吹く。先ほどとは違う、季節相応の温かい風だ。
木の葉が舞い、視界を奪っていく。
「これで森を」
「もとにもどせるよ」
「ありがとう」
「ありがとう」
交互に喋るそれはどちらがシロでどちらがクロだろうか。
わからない。
ホウリョクの視界は黒い葉で覆いつくされ、目を瞑った。
さぁっと風が止む。
そっと目を開けると明るい場所に立っていた。
「あれっ」
ギンたちもきょろきょろと周囲を見回している。
そこは森の入り口だった。
ホウリョクは目を瞬かせ、息を吐く。白くはない。
ふとシロとクロがいないことに気付いた。
「狐に化かされた気分や……」
ノエルがポケットから膨らんだはんかちを取り出す。
「……夢ではないみたいねぇ……」
ころりとした青い石がそこにはある。
ホウリョクは空を見上げる。真っ赤な夕日が山の向こうへ消えていくところだった。
「……わたしたち、どれくらい森の中にいやがったんですかね」
夕日に気付いたギンもぽかんと口を開ける。
ルイが頬を引き攣らせた。
「……長くても昼過ぎくらいだっただろ、今」
「本当に化かされちゃったのかしら」
ティアナが森を指す。そこは獣道があり、その奥には小さな祠が見えた。
ぱたぱたと近付いてくる足音に目を向ければ、今朝の女性店員がこちらへやってくるところだった。
「あ、お客さん」
女性はホウリョクたちの前で止まると、恐々と森の中を伺った。
「あれっきり姿が見えないからどうしようかと……あの、なにかありましたか?」
「あったと言えばあったし……」
「なかったと言えばなかったわね」
ティアナも眉を下げる。
女性店員は首を傾げた。
大丈夫よ、とノエルがゆっくりと言った。
見れば一人にこにこと微笑んでいる。
「きっともう、怖いことは起こらないわ」
「そう……ですか」
女性店員はほっと息を吐いた。
あのね、とノエルは続ける。
「あの森の中にある祠……あれを綺麗にしてあげてほしいの」
「あれですか……ああ、随分昔からあるんですけど……」
「綺麗にしてたら、きっともう変なことは起こらないわ」
女性店員はぱちぱちと目を瞬かせ、「みんなに話してみます」と頷いた。
ホウリョクも、多分もう不気味な声は聞こえないだろうと思った。
くぅ、とか細い音。ノエルを見ると、お腹を押さえて俯いていた。
「へんなおとがする……」
「晩ごはん食べませんか。わたしもお腹ぺこぺこですよ」
おお、とギンたちも疲れた顔で頷いた。
+
うたた寝から目覚めたヘルマスターは不機嫌そうに眉をひそめた。
なにか夢を見ていた気がする。
だがそれも外で鳴り続ける雷によって霧散した。
ヘルマスターは不機嫌を隠そうともせず外を見る。相変わらずの雷雲は嘆き叫ぶように光を落とす。
まるで王の機嫌を写し取っているかのように。
舌打ちして指を鳴らす。
音もなくミストヴェイルが現れて平伏した。
「魔法族の様子はどうなっている」
「はい。徐々に封印が漏れ出しているのか、凶暴化する者が現れているようです。かの力に耐えきれぬ矮小な者だったのでしょう」
ふんと鼻を鳴らす。
いっそそのまま適応する者が現れても面白いだろうに。
つまらない報告にヘルマスターは鼻白む。
「そうだな――クロウェシアはどうしている」
「水魔法族を見張らせています」
そういえば、そんな命令をした気がする。
ふむとヘルマスターは考える。
「<五賢王>以外に使える駒はどれだけだ」
ヘルマスターの言葉に、ミストヴェイルは息を吐いて「万はいるかと」とだけ答えた。
「かつてよりは少ないな。……そのうち隠密技能と口の堅い者を魔法族の集落に配置しろ」
「は。では光と風、水、地に……」
「いや、全てだ」
はっとミストヴェイルが顔を上げた。
ヘルマスターはそれを見下ろして笑う。
「集落の全てを見張れ。間違っても神族どもとことを構えるなよ」
どうせ勝てやしないのだから。
ヘルマスターはくつくつと喉の奥で笑った。
ミストヴェイルは再び首を垂れる。
「クロウェシアに命じろ、『ノエル』という人間族を探せと」
「ノエルさま……ですか」
雷が落ちる。
ヘルマスターの目が細められる。
「ああ、決して傷付けてくれるな」
傷を付ければ――、
ミストヴェイルの喉が上下する。
かしこまりました、とだけようやく絞り出すとヘルマスターの前から姿を消した。
ヘルマスターは玉座に座り直す。
また外が光った。
「何故、我の前から姿を消した……ノエル」
その声は雷鳴にかき消され、誰の耳にも届かなかった。