17 魔界の亜竜族 2/6
「おっきろーーーーーーっ!」
頭に直接響くような声にヴァーレンハイトは驚いて飛び上がった。
ガタガタとベッドが揺れている。
何事だ、と目を開ければすぐさまヤシャの姿が目に入った。
「……えっ」
ベッドがぴたりと止まる。ぼすんと枕が頭の上に落ちてきた。
ヤシャはぜぇぜぇと肩で息をしている。……なにをされていたのだろうか。
「……ベッド、動かした?」
「気合で揺すってみたら部屋中のものが動いてビビった」
はぁ、とため息を吐くヤシャから視線を部屋にやると、部屋中の家具や荷物の位置がずれていた。それを人はポルターガイスト現象というが、二人は知らない。
「って、そうじゃねぇよ」
ヤシャは布団に入ったままのヴァーレンハイトの腹をぼすぼすと叩いた。もちろんすり抜けるので腹の辺りが冷えるだけだ。
「どうしたんだよ、ヤシャ」
「ティアが攫われた!」
「……は?」
ちょっと今、とんでもないことが聞こえた気がする。
ヴァーレンハイトは半身起き上がって、耳を叩いた。耳垢が溜まっている様子はない。
「もう一回言ってくれるか」
「だ、か、ら! ティアが攫われたっつってんだよ!」
攫われた? 誰が? ティアが? 誰に?
「え、犯人無事!?」
「ちっげぇだろ!」
流石に怒られた。
ヴァーレンハイトは頭を掻きながらベッドの淵に座る。
「最初から説明してくれ。ちょっと意味がわからん」
だから、とヤシャは肩を怒らせる。
立ち上がって、軽く身支度を整えて部屋を出た。
「ルキにティアが攫われたんだよ。途中まで追ってたんだが、空間移動で逃げられた」
すまん、とヤシャは謝るが、彼が謝る必要はない。
むしろ知らせてくれてよかった。彼がいなければヴァーレンハイトは朝――いや、昼過ぎまでアーティアの不在に気付かずに寝こけていたのだから。
隣の部屋をノックする。そもそも人の気配がなかった。
扉を開ける。窓から風が入り込んで遮光幕がバサバサと揺れていた。
手前のベッドは使った形跡がなく、奥のベッドは少し乱れている。争った形跡はない。
荷物はすべて置いてあり、更に大剣や上着すら残されていた。
露出を嫌うアーティアが上着も着用せずに外に出るわけがない。
「まじかー……」
マジだよ、とヤシャは呆れた声を出す。
窓に近寄り、外を見た。ここから出たのは明白だが、どこへ向かったのかがわからない。
「詳しい状況を教えてくれ」
「つってもな。俺も最初から見てたわけじゃねーし。なんかティアたちの部屋から変な音がするなと思って覗いてみたら、ルキが気を失ったティアを抱えて窓から飛び立つところだったんだよ」
それであとを追ったのだという。だが途中までしか追えなかった。
「……そういえば、ティアがルキに右目を晒してたんだよ」
「え?」
「ちょっと聞いてみたら、『同じだから』っつってたな」
「……同じ……?」
今日のほとんどをアーティアはルキと一緒にいて、ヴァーレンハイトとは特に話すこともなかったことに気付く。
同じ。亜竜族の娘と、アーティアが?
なにがだろう。眼帯を取る意味。
はっとヴァーレンハイトは目を見開いた。
ベッドの下に、今日あげたばかりの髪紐が落ちている。
「……ああ、同じって、そういうことか」
「うん?」
「ルキは多分、亜竜族と魔族の娘なんだ」
なるほど、とヤシャが頷く。
だからルキもアーティアに懐いていたのだろう。同じ半分魔族の子だから。
だがそれだけでは何故ルキがアーティアを攫ったのかわからない。
殺すでもなく、攫った理由。どこへ連れて行ったのか。
「わからん」
「だからってここでぼーっとしてても仕方ねぇだろ」
一度、部屋に戻ろうとヴァーレンハイトは二人部屋を出た。一人部屋の扉を開けようとして、ふと足元に紙が落ちていることに気付く。
「なんだこれ」
拾い上げ、それが折り畳まれた備え付けのメモ用紙だとわかる。
広げてみると数文字なにか書かれている。
「……なに言語だ、これ」
ヤシャが上から覗き込んで、ああ、と声を上げる。
「亜竜族の昔の文字だな。今は統一されてるけど、大昔は種族ごとに文字もあったらしい。今でも友達同士や仕事上で暗号として使われることもある」
「で、ヤシャ、読める?」
「読めん」
がっくりと二人で肩を落とした。
だがこれはきっと手掛かりだろう。送り主はもちろんルキ。
しかしアーティアを攫った張本人であるルキがどうしてこんなメモを残したのだろうか。
(……読めないからなにもわからん)
ヴァーレンハイトは上着と外套を羽織り、最低限だけを持って外に出た。
冷たい風が身を切るようだ。
「どっちに向かった?」
「南東」
「海じゃん」
正確には港の方だ。
とにかく行ってみるしかない。ヴァーレンハイトは走り出す。
遅くまで仕事をしている人や酒場の酔っぱらいの姿は見えるが、探す影はもちろん見えない。
ヴァーレンハイトの心臓はどくどくと跳ねていた。走っているからではない。徐々に嫌な予感が身に染みてきたからだ。
わざわざあのアーティアを気絶させて連れて行ったのだ。穏便な用事なわけがない。
不意に角から出てきた影と正面から激突した。向こうも結構な勢いで飛び出してきたらしく、ヴァーレンハイトは珍しく後ろにすっ転ぶ。
「だわぁっ」
「ぎょわっ」
尻と腰を強かに打ち付けた。思わず涙を滲ませながら、ヴァーレンハイトはぶつかったものを見た。
同じような体勢で尻と腰をさするのは、いつか出会った妙な訛りの亜竜族――ギンだ。
「あれっ」
「おっ」
お互いを認識して目を丸くする。
パタパタと足音が近付いてきて、ひょっこりと見覚えのある小さな影が顔を出した。
「なーにしくさってんですか、もう。人様に迷惑かけたら駄目じゃないですよー」
ホウリョクだ。
続いてあらあらとのんびり現れたのはティアナ。その後ろには呆れた顔のルイまでもがいる。
「……ん、ヴァル、だったか」
こくりと頷く。
思いがけない再会に、一瞬だけ急務を忘れそうになる。
はっと我に返って立ち上がったヴァーレンハイトはメモ紙を持ってギンに詰め寄る。
彼は亜竜族だ。
「なぁ、ギン! あんた、この文字読めるか?」
「お、おう?」
ギンに紙を渡し、四人が顔を寄せ合ってそれを見る。
お願いだ、読めるって言ってくれ。ヴァーレンハイトは祈る気持ちで唾を飲んだ。
「なんやこれ、ふっるい亜竜族の文字……や、ん……は?」
「なんて書いてある!?」
詰め寄ろうとしたヴァーレンハイトに衝撃。見ればギンがヴァーレンハイトの胸倉を掴んでいた。
「これ! どこで手に入れたんや! いや、なんでおまえがこれを持っとったんや!」
「ちょ、ギン?」
「くび、首絞まってる……!」
ギンの腕を背伸びでバシバシと叩くホウリョクのおかげで、ヴァーレンハイトの胸倉は解放された。
焦った様子のギンを見て、ヴァーレンハイトは焦りを強めた。
「教えてくれ、なにが書いてあるのか!」
「オレが聞いとるんや、答えぇ! これ書いたやつはどこや!」
「おい、落ち着けって、ヴァル」
「ギン、落ち着けってんでしょうが!」
横からヤシャとホウリョクが二人をなだめようとして声をかけているが、二人には届かない。
「もう、仕方ないわね」
ついとティアナが指を動かした。
額をこすりつけるようにして引かない男二人の動きがぴたりと止まる。
「おいたしちゃ駄目よ」
ギリギリギリギリ、極細の糸で二人の身体が無理やり離されていく。
「ティ、アナ……首、絞まっと、る……」
「ちょ、ギブ、ギブ……」
あーあ、という顔で二人を見るのはルイとホウリョク。ヤシャは頬を引くつかせて五人を見ていた。
「最初っから説明してくれる、ヴァル」
糸がぷつりと切れ、ヴァーレンハイトは地面へと落下した。べしゃりと崩れ落ちた男を、ヤシャが頭を叩いて生死の確認をする。冷たいだけだが。
「げほっ……はい。えっと、ティアが攫われて、それが落ちてて、今探してたとこで……」
しどろもどろに説明するヴァーレンハイトを三人と幽霊が見下ろす。約一名はまだ締め上げられていてそれどころではない。
「えっ、アーティアが!」
驚いた声を上げたのはホウリョクだ。以前仲良くしていただけあって、心配そうに眉を下げている。
「誰に攫われたのかはわかってんのか」
冷静なのはルイ。彼は顔を歪めるヴァーレンハイトの前にしゃがみ込んで尋ねた。
ヴァーレンハイトは頷く。
「誰だ」
「ルキっていう、亜竜族の女の子だ。ちょっと前に知り合ったんだけど」
「!」
さっとルイの顔が強張った。
バタバタと宙吊りのギンが暴れる。ぶちんと糸が切れた。
「ルキやて!?」
再びヴァーレンハイトに掴みかかったギンは、今度はルイに諫められる。
「ギン、その紙になんて書いてあんだ」
むすりとしたギンは小さく「魔界、やて。それだけや」と言う。
「マジで言ってんのか」
ヤシャが呟くのにヴァーレンハイトは内心同意した。
「……つまり、魔界にアーティアが連れてかれたってことなんです?」
ホウリョクの言葉に頷けるものはいない。
ごくりと喉が嚥下した。
「……ギン、ルキのこと、知ってんの」
少しでもなにか情報が欲しい。そのためには今、ギンに尋ねるしかないと思った。
ギンは素直に首肯する。
「……オレの、幼馴染や……ずっと、行方不明になっとった」
「!」
「買い物んときにルキが言ってた幼馴染ってこいつのことかー」
ヤシャがふぅんと頷いている。
だが、その大切そうにしていた彼を置いて行方不明? ルキが?
どういうことなのかさっぱりわからない。
「なんでルキがあのちみっこを攫っとるねん」
それはこっちが知りたい。
「その亜竜族の娘はルキと名乗ったんだな?」
横からルイが声を上げた。
こくりと頷くと、彼は難しそうな顔で唸る。
「……本当に魔界はあるのか」
「まぁ、神界があったんだし、魔界もあるんじゃないかな」
なんで神界、とホウリョクが首を傾げているが構う余裕はない。
ヴァル、とルイに呼ばれ、ヴァーレンハイトは彼を見た。
「アーティアの捜索、オレにも手伝わせてくれねぇか」
「ルイ?」
「……手伝ってくれるなら、そりゃありがたいけど」
ヴァーレンハイトが立ち上がるのを見て、ルイも立ち上がる。
「悪い。攫ったのがルキなら、命じたのはおそらくその親父だ」
「なんでわかるんだ」
ルイは唇を噛む。
「――父親の名前はヘルマスター。ルキは俺の……異母妹、だ」
ひゅっと喉が鳴った。
+
不意に冷たい風を頬に感じて、ぼく――アーティアは目を覚ました。
ひんやりとした石の上にいる。ぼくは身を起こそうと身体をよじった。ガチャン、ジャラリと硬い音。
首をひねって見れば、後ろ手に手枷で拘束されていた。ご丁寧に鎖までついている。
上着を着ていないから肌寒い。見れば右腕に包帯だけが残っていた。
(なにが、どうなったんだっけ)
耳にルキの謝罪の言葉が蘇る。
ああ、そうか。ぼくは気絶していたのか、と納得した。
気絶させられてどこかに移動させられたのだろう。ルキに敵意を感じなかったからといって不覚にもほどがある。
ぼくは舌打ちをしてゆっくり身を起こした。
ぼんやりする視界を何度か瞬きしてクリアにする。
立派な鉄格子が目に入って、ここがどこかの牢なのだと気付く。
(でも、なんでルキがぼくを?)
理由がさっぱりわからない。
亜竜族になにかした覚えもなければ、ルキのような娘がいるような魔族を害した覚えもない。
(まぁでも旅してるだけでも恨みは買うしなぁ)
どこかで恨みを買っていたのかもしれない。それにしてはルキにぼくに対する敵意や害意はなかったのが腑に落ちないが。
「ヤシャ……は、いないか。せんせい、いる?」
一瞬だけ静寂に飲まれそうになり、せんせいの「呼んだかね」という言葉にほっとした。
「せんせい、ここがどこだかわかる?」
「魔界だよ」
そっかー、魔界かぁ。
じゃないわ。
「魔界?」
「魔族の生きる世界と言われる場所だよ」
「いや、それは知ってる」
そうじゃない。
ぼくは肩を落とした。
さてどうしようね、とせんせいは苦笑する。流石にいつもの調子では笑わないらしい。いつもの調子で笑われたら怒るが。
「ルキは、どうしてぼくを魔界に?」
さてね、とせんせいは肩をすくめた。
「おっと」
せんせいが急に引っ込んだ。
耳を澄ませばコツコツと近付いてくる足音。
「……」
コツン、と鉄格子の前でそれは止まった。
見上げれば、先ほどまで一緒にいた顔。表情は硬い。
「ルキ……」
ぴくりとルキは肩を震わせた。
「最初からこういうつもりで近付いてきたの」
「ち、違う……いえ、違わ、ない……」
ルキが俯く。唇を強く噛んでいるようで、ここからでも真っ白になっているのが見える。
緊張しているのか、手を握っては解いてと繰り返していた。
「……最初に怪我をしてたのも、魔獣に襲われてたのも演技? ぼくを油断させるために」
ぶんぶんと首を振る。勢いがよすぎて首が取れないか心配になりそうだ。
ぼくは息を吐く。
びくりとルキは身体を震わせた。
「仲良くなれたつもりだったんだけど、ぼくだけだったんだね」
「ち、ちが……それは、わたしも……わたし、だって……」
ルキが顔を上げる。金色に光る灰色の目は膜が張ってあり、今にもこぼれそうだ。
(ルキの意思じゃない。意に沿わない命令?)
目を見れば、ルキがぼくのことを好いてくれていたのはよくわかった。それが嬉しくて、ぼくはほっと胸を撫で下ろす。
ただわからないのは誰がどういう理由でルキを使ってぼくを攫って魔界まで連れてきたのかということだ。
(……あの父親だったらどうしよう)
現時点で可能性があるのは父親だ。けれど理由がない。
他に魔界にいそうな知り合いなんていないし。
「……ごめん、ごめんなさい……ごめんね……」
小さな声でルキが謝り続けている。
きっとルキが謝ることじゃない。悪いのはルキに命じた誰かだ。
「いいよ、謝らなくて」
「!」
ぽろりとルキの目から大粒の涙がこぼれた。
彼女は後退ると、ぱっと身を翻して去っていく。
「……えっ」
ふ、とせんせいが吹き出した。
「あーあ、今のは勘違いしたのではないかね、アーティア」
「……勘違い?」
「きみは彼女が『謝る必要はないし、そんなに謝らなくていい』という意味で言ったのだろうけれど、彼女は『謝ったところで許さないから謝るな』と解釈したのではないかね」
「…………嘘でしょ……」
残念ながら、とせんせいは笑いをこらえながら肩をすくめた。
「ちょ、ルキ! 待って、勘違いしてるから! ねぇ!」
石作りの牢にわんわんとぼくの声が響くだけで、ルキが戻ってくる気配はない。
「きみに絶縁されたと思っての涙だろうね」
「……もうせんせい黙ってて」
まさかそんな解釈をされるとは。いや、こればかりは言葉足らずのぼくが悪い。次に会ったら謝りたい。傷つけるつもりはなかったんだって。
「よ、と……」
手枷をはめたまま肩をくるりと回して前に持ってきた。身体が柔らかくてよかったと思う。
手枷はどうやら特別製で、簡単には壊れてくれなさそうだ。
「さて、どうやって出ようかな」
ルキから誰に命令されたのかくらい聞ければよかったが、彼女の状態からしてそれは無理だっただろう。
ぼくは鎖を引っ張って壁から引っこ抜く。ここは特別製ではなかったらしい。
鉄格子に触れる。両手で掴んで引っ張ってみた。
「駄目だ、びくともしない」
だからといって諦めてやるつもりはないが。
両手に力を込める。
ゆっくりと、鉄格子が歪んでいく気がした。
攫われたのにじっとしてないヒロイン(笑)